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ストロングゼログラビティ研究①〜幼年期の終わり

1章
幼年期の終わり

まず、我々の研究が、いかなる経緯で始まったものか説明しなければならない。
始まりは「パブリックスペース研究」及び「夜会」である。
当研究の発端である「パブリックスペース研究」そして「夜会」とは、私が大阪に住んでいた頃、指圧師(正しくは鍼灸あん摩マッサージ指圧師)のおおがきさんと二人で始めたものである。
おおがきさんとは、当時、私が整骨院で助手としてアルバイトをすることとなり、そのバイト先である整骨院で出会った。
その整骨院は、いわゆるどの町のにもある整骨院らしい整骨院で、50代の女性が院長として切り盛りしており、数人の柔道整復師や鍼灸師を雇っていた。 

私がまだバイトを始めたばかりで仕事内容もよくわからず、スタッフも誰がどのような人なのかわからないまま右往左往していたとある日、カーテンで仕切られた施術スペースの中から、おおがきさんと患者さんとの会話が聞こえた。
それが最初の強烈に印象深い出来事であった。
会話の内容が他のスタッフとは全然違ったのだ。 

整骨院では、各施術ベッドがカーテンで仕切られており、そこでスタッフ(柔道整復師や鍼灸あんまマッサージ指圧師)がそれぞれの患者さんの症状に合わせた施術を行っていた。
その時、おおがきさんは高齢のおばあさんに施術していたのだが、 

「いやー!それもねー、何か大きな権力の陰謀なんじゃないかなーって私は疑ってるんですけどねー!」 

というおおがきさんの声が聞こえた。 


一体何の話をしているのだろうか。 

確かお婆さんが「日本で一番長生きのおばあさんが、長寿の秘訣はステーキ食べることや言うてテレビでやってたで!」と言った矢先のことだった。 

余談だが、私は出勤初日から院長に「長髪は邪魔だから仕事中はこれをつけなさい!」と女物のカチューシャを装着させられており、その時もカチューシャを頭に付けたまま、空いている施術スペースにて休憩をもらっていたのだが、カーテンの向こうの会話が気になって仕方がなかった。
「ゆっくり食べなさい」と院長からイチゴのショートケーキを頂いていたが、一口目が口に届く直前でフォークが止まってしまった。一口大に切り取られたショートケーキは、プラスチックフォークの上で小刻みに揺れバランスをとっていた。 

その整骨院では、業務的な質問のやりとり以外の会話は少なく、各施術スペースの中で静かに黙々と施術を行っているスタッフ達が多かったので、特におおがきさんの声がしっかりと聞き取れたのだった。 

「そうっ…なん…かねぇ…」うつ伏せでマッサージをされながら、指圧のリズムに合わせて途切れるような、囁くようなおばあさんの声が聞こえた。 

「いやー、やっぱり富を牛耳ってる上位数パーセントの支配者層が色々情報操作して世の中操ってたりしてて、そんな感じで肉は健康に良いとか庶民に信じさせてるんじゃないかなーとか、、まあ、これは私が勝手に思ってるだけなんで、タダさんは気にせず肉食べてくださいよ!しかし私は一生肉食べなくていいって思ってるんでね!そんな手には乗るまいぞと」 

と言ったところで、院長がサッとおおがきさんの施術スペースのカーテンを開け、 

「おおがき先生!やっぱり100万200万を一夜で使い果たす遊びができないとダメよね〜、普通だよね~?」
といきなり割り込んできた。 

あまりにもありえない、非日常な展開に驚いた。 

後日、おおがきさんに聞いて知ったのだが、「『富』とか『権力』という単語に反応し、嘘でも何でもいいから無理矢理にでも話に入ってきてマウントを取りたい」という院長の特異な性格故の出来事であった。
私はカーテンの向こうで行われている、これまでの人生で聞いたことの無い会話の展開に本当に休憩どころじゃなくなっていた。 

しかし、おおがきさんは間髪入れずに「何をいきなりパリスヒルトンみたいなこと言ってるんですか!」と返し、それをまた院長は間髪入れずに「さすが!おおがき先生!世界のセンスは格が違うわ!あはははははは!」と謎の大爆笑をしながら、またシャンっとカーテンを閉めて受付に戻って行ったのだった。 

カーテンの向こうの謎の会話、もはや黙ってしまったお婆さん、カチューシャを装着し一人ショートケーキを食べている自分。
私はこの仕事を続けられるのか、大いに不安になっていた。 

しかし、「おおがきさんという人は、どうやら私と同じフリーランスの研究者の方なのかも知れない」と思ったのだった。 

その衝撃の出会いからすぐに我々は意気投合し、仕事終わりには近くの公園で缶コーヒーなどを飲みながら会話するようになった。そしてお互いが触れてきた文学作品や映画などの感想や解釈を議論していくようになった。
そんな議論を重ねて行く中で、その公園がカフェにも居酒屋にも会議室にもなっていることに気づいていったのである。
つまり「夜会」の誕生であり、その母体となる「パブリックスペース研究」の誕生であった。
我々の「夜会」は公園だけでなく、自由に休める団地の共有スペースや、誰も使わなくなった半駐車場などの「パブリックスペース」でも開かれるようになっていった。 

その後、私が東京へ引越した為、夜会はウェブスペースに場所を移し、バーチャルパブリックスペースでのバーチャル夜会に変わった。
夜会がウェブスペースに移ってからは、お互いが大阪にいる時より気軽に夜会が出来るようになり、我々の研究スピードは指数関数的に上がっていったのである。 

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