見出し画像

まぶたに残るうすみどり――川上弘美「栃木に飛んでいく」(『群像』2023年5月号)

前話:台北の風をあつめて――高妍『綠之歌(上・下)—収集群風—』 / 次話:ファンタジーとしての市川沙央「ハンチバック」

 久しぶりに文芸誌を買った。

『群像』2023年5月号。

「追悼・大江健三郎」が目当てだったのだが、買った後、ベッドサイドテーブルの上に放り出したまま、今日まで読んでいなかった。もうそろそろ次の号が出る頃だというのに。

 本を買う、という行為には、どこか「安心感」を求めているようなところがある。

 買っておけばいつでも読める、というような。

 逆に言えば、気になる本は買っておかないと、どこか不安になる。特に、電子書籍のない時代はそうだった。今買っておかないと、いつ絶版になってしまうかわからない。後で「ああ、あの時買っておけばよかった」と思っても、もう遅い。

 もちろん、世には古本屋もあるけれど、愛蔵する本は、やはりまっさらの状態でお迎えしたいと思うのが人情だ。

 最近は、電子書籍にもかなり慣れてしまった感があるが、やっぱりわたしはアナログ人間で、紙の本を手元に置いておくと安心するという習性は、一朝一夕には改まらない。

 そこで、相変わらず紙の本や雑誌も買う。手で表紙を撫で、頁を捲ると、なんだか安心する。安心してしまうと、必ずしもすぐには読まない。だって、いつでも読めるから。

 いつでも。

 けれど、そんなふうにして、わたしたちは、多くの時間をただぼんやりと過ごしてしまうのかもしれない。

 この『群像』5月号に掲載されていた川上弘美さんの「栃木に飛んでいく」という短篇を今日読んで、そう思った。

「わたし」は高円寺の駅で下りて、「カズ」という男性のマンションを、コロナ禍以来、三年ぶりに訪ねる。

「カズ」はひとり暮らしをしていて、先月短い入院をした。原因は「心臓があれだったから」。

「あれ」では雑すぎるみたいだが、「カズ」は「説明、面倒」と言う。「わたし」も詳しくは訊かない。

「カズ」も「わたし」も、老いを実感する年齢になっている。結局、真の原因は「老い」なのだから、詳しく病状を説明しても仕方がないのかもしれない。そうとははっきり書かれていないが、読んでいると、そんな気分になる。

わたしたちは、いったいどこに行くのだろう。年若いころのように、とりとめなく思う。生まれてそして死ぬという時間の間に、いったいわたしたちはどのくらいたくさんのことを感じ、考え、忘れてゆくのだろう。

『群像』5月号、p.27

 わたしたちは、「年若いころ」と同じようなことを、もう若くなくなっても、やっぱり「とりとめなく思」っている。

 年を重ねたからと言って、自分の中の何かが劇的に変わるわけではないのだ。むしろ若い時のような悲壮感がなくなって、どこか間が抜けて、滑稽ですらある。

 マンションの部屋で、「カズ」は「わたし」に「うすみどりの何か」を見せる。

「翡翠?」
「うん」
「きれいだね」
「うん」
 子どものように、カズはうなずきつづけた。

『群像』5月号、p.24

含蟬がんせん」という言葉が出てくる。

「古代中国で、魂が抜け出るのを防ぐために、死者の口に含ませた葬具」のことで、翡翠でできており、蟬の形をしている。

「カズ」はその含蟬を、母から預かっていた。そのことを、「わたし」はマンションを訊ねた翌月に知る。

「こないだの含蟬ってさ」
 カズが言う。
「うん」
「おれの母親から預かったんだ」
「そうなんだ」
「あたしが死んだら口に含ませてみてよって、わりと真面目に頼まれてた」
「そうなんだ」

『群像』5月号、p.28

 でも、結局、「カズ」は母の口に翡翠の蟬を含ませなかった。特別な理由があったわけではない。「葬儀社がてきぱき」していて、なんとなく「気がそがれた」からだ。

 わたしたちはこのように、なんでもないような理由で、人から「真面目に」頼まれたことをやらずに済ませてしまう。

 使われずに残った翡翠の蟬は、ちょっと間が抜けて見える。これも本文には書かれていないが、わたしは思わず、口を開けて横たわっている「カズ」の母親の姿を想像してしまった。

 人間というのは、どこかどうしようもなく滑稽な存在なのかもしれない。

 それでも読者は、この短い小説を読み終わった後、飛蚊症を心配する「わたし」に微苦笑を誘われながらも、眼の中に「うすみどり」が残る思いに捉われる。

 美しいという以外に表現しようのない色が、残る。

前話:台北の風をあつめて――高妍『綠之歌(上・下)—収集群風—』 / 次話:ファンタジーとしての市川沙央「ハンチバック」