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【パスティーシュ】『刑事コロンボ』番外編:糟糠の刺客

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※本作は『刑事コロンボ』シリーズに捧げるオマージュです。
                          
                           (本文8,619字)

 Ⅰ

 玄関のイヤホンが鳴った時、わたしは来るべきものが来たと思った。

 思い切ってドアを開けると、そこには甚だ風采の上がらない、よれよれのレインコートに身を包んだ小男が立っていた。

Ms.Kellyミズ・ケリー。あたしはロサンゼルス市警のコロンボってもんです、殺人課のね」

「殺人課ですって?」わたしは、事情を何も知らない主婦が浮かべそうな表情を作って言った。

「そうなんですよ」男は左目を少し細め、取り入るような笑顔を浮かべた。「実はあなたの御主人のことで重大なお話があるんです」

「夫のことですって? まさか……」
 わたしはとっさに手で口元を隠した。自分の表情――特に唇の動きに自信がなかったからだ。わざとらしく驚きすぎ? それとも逆に冷静すぎ? 

「大変お気の毒ですが、御主人は亡くなりました。我々は他殺と見て捜査を……奥さんっ」

 わたしはよろけた。いや、よろけてみせた。コロンボと名乗る刑事がとっさに体を支えてくれた。相手から顔を隠すにはそれしかなかった。わたしは自分の顔がさっきから笑っているような気がして仕方なかったから……。

 Ⅱ

「コロンボ警部。もしかしてわたしのこと、変な女だと思っていらっしゃる?」
「変? あなたが? どうしてそんなことおっしゃるんです」

 コロンボは自分の吐いた葉巻の煙の中で左目を細めながら、心底意外そうな顔をしてみせた。

 不思議な男だった。わたしたちは今、キッチンテーブルに向かい合って座っているのだが、彼はよれよれのレインコートを脱ごうとしない。吸っている葉巻も、匂いから判断するに安物だ。目つきも変だ。斜視ぎみで、視線がわたしに向けられているのだか、わたしの斜め後ろの食器棚を見ているのだかはっきりしない。しかも動くのは左目だけで、右目はまったく動かない。もしかしたら右目は義眼なのかもしれない。ただ、わたしはその動かない右目に見つめられるのが怖かった。

 わたしは気持ちを落ち着かせるために、自分のコーヒーを一口飲んでから言った。「あまり悲しんでいるように見えないのではなくって? 夫が殺されたというのに」
「それは……だってあなたは日本女性ですから」
「どういう意味かしら?」
「うちのカミさんが、日本文化が大好きなんですよ。そういう本もたくさん読んでましてね、最近ではラフカディオ・ハーンという作家の本がお気に入りで、あたしはその内容をしょっちゅう聞かされてるんです。『日本人の微笑』というエッセイの中にこんな言葉があるんですってね、『(日本人は)たとえ、胸が張り裂けそうなときでも、雄々しく微笑するのが、社会的義務なのである』。カミさんが感動してあたしに何度も話すもんだから、すっかり覚えてしまって……」
「ラフカディオ・ハーンーー日本名は小泉八雲というのだけれど、あの人は明治時代に日本に来たのよ。彼が見たのは、今の日本人とは違う。少なくとも、わたしとは違う。わたしが取り乱さないのは――」
「ご主人があなたを裏切っていたから」コロンボの動かない右目が、まっすぐこちらに注がれていた。わたしは思わず俯いた。義眼かもしれないのに、その視線はわたしの心の中にまで届くような気がしたから。
「そうよ」わたしは俯いたままで言った。「あの人には女がいた。仕事部屋と称して別に部屋を借り、そこでその女と逢瀬を重ねていたの。……ちょっとお待ちになって」

 わたしは立ち上がると、食器棚に付いている引き出しの中から封筒を取り出した。夫に見つけられたくない物は、キッチンに隠す。母も同じことをしていた。わたしは母を憎んでいたはずなのに、同じことをしている。

 封筒から写真を取り出して、コロンボの前に並べた。

「なるほど、私立探偵を雇ったというわけですな。はは、よく撮れていますなあ、動かぬ証拠ってわけだ。こりゃあ、あたしらより優秀かもしれない」
「しかもハンサムだったわよ、探偵さんは」わたしは皮肉を込めて言う。「フィリップ・マーロウみたいで」
「あちゃー」コロンボは葉巻を挟んでいる手で、ぼさぼさの髪をかきあげた。「勝ち目はないですな。参ったな、こりゃ」
「わたしとはずいぶん違うでしょ、この女の人」
「そうですね。奔放な印象ですね、あなたより」
「正直におっしゃっていいわ、わたしよりずっときれいでしょ。中国人なんですって」
「いや、サングラスをかけているので、顔だちまではなんとも……」
「雰囲気よ。華やかで色っぽいわ。男の人は、こんな女性と一緒にいたいと思うものではなくって?」
「どうなんでしょうな。あたしは、たまにカミさんと映画でも観に行けば、それで十分なんでね」
「愛妻家なのね、コロンボ警部は」
「尻に敷かれっぱなしなんですよ、結婚した時からずっとね」
「それで警察は、この女が夫を殺したと思っているのかしら」
「捜査上のことは話してはいけないきまりなのですが、ここはあなたのお気持ちを考えてお答えします。我々は確かに御主人の仕事部屋に出入りしていた中国人女性を重要参考人と考え、その行方を追っています」
「『追っている』ということはまだ逮捕されてはいないのね」
「はい、残念ながら」コロンボは面目なさそうに頭を掻いてみせた。
「夫はどうやって殺されたの?」
「撲殺です。Chinaware(陶磁器)の花瓶で後頭部を殴られています。ある意味、中国人らしい手法と言えるかもしれません……Ms.Kellyミズ・ケリー?!」
 わたしは思わず胸を押さえ、吐き気をこらえた。
「申し訳ありません。あなたには辛い話だということは承知しております」
「いいえ、だいじょうぶですわ」わたしは首を振った。「原因は何だったのかしら? 愛情のもつれ。それだったら、わたしは離婚してあげるつもりだったのに。そのために探偵も雇ったんだし」
「その辺の事情は今捜査中でして……」
「捜査に進展があれば、また教えていただけるのかしら」
「もちろんですとも!まっ先にお教えすると約束します」
「ありがとう」わたしは頬に日本人の微笑ジャパニーズ・スマイルを浮かべて言った。
「では、そろそろおいとま致します。コーヒー、ごちそうさまでした」
「あら、一口もお飲みにならなかったのね。毒は入っておりませんわ」
 そんな軽口が出たのは、コロンボが腰を上げたのを見て、思わずほっとしたせいかもしれない。
「いえ、これでも公務員なものでしてね」
「あら、そんなこと。黙っていればわからないでしょう?」
「それはそうなんですがね。まあ、宮仕えの辛いところです。それと、❝God is watching you.❞(お天道様は見ている)って言いますからね」
 
 わたしは思わず、どきりとした。もしかしてコロンボはわたしを疑って、探りを入れてきているのだろうか。まさか。こんなもっさりした刑事が? 

 コロンボは玄関に向かう。わたしも彼を見送るために慌てて立ち上がった。

「あと一つだけ」

 わたしは完全に虚を突かれた。このタイミングでコロンボが振り返るとはまったく予想していなかった。とっさに作った笑顔は間に合っただろうか。そのコンマ何秒の間に、コロンボはわたしの素の顔を見たかもしれない。人を殺した女の顔を。

 Ⅲ

「おかしいな、確かにポケットに入れておいたはずなんですが」
 コロンボはレインコートのポケットをあちこち引っ繰り返したあげく、ようやく小さな紙切れを探り当てた。
「ああ、これです。さっきは言い忘れたんですが、殺された御主人の部屋には、ちょっと変わった飲み物の容器が置いてありましてね。鑑識によれば、中華料理の飲み物だっていうんです。容器には商品名を示すラベルが付いていて、それをあたしはメモしておいたんですが、いやあ漢字というのは実に複雑なもんですなあ。いったいどういう意味なのか、ちょっと見ていただけないでしょうか、Ms.Kellyミズ・ケリー?」

 わたしはわざとらしく溜息をついてみせた。
「警部。これはあなたたち西洋人の悪い癖よ。アジア人は皆同じだと思っている。日本人も漢字を使うのは事実だけれど、そもそも中国語とは言語体系が違うの。わたしに中国語はわからないわ」
「それでも、あたしらみたいに漢字がさっぱりわからない人間とは違うでしょう? お手間は取らせません、ちょっと見ていただくだけでいいんです」
 これ以上拒むのは無理のようだった。いくら浮気をしていたとは言え、殺されたのはわたしの夫なのだ。捜査にはできるだけ協力する態度を示しておかなければならない。

 わたしは、差し出された紙切れを見た。そこには、たった二文字の漢字が書かれていた。

「『米漿』? これが飲み物の名前? いったいどんな飲み物なのかしら? まったく想像がつかないけど。『米』というのは『ライス』のことだから、もしかしたら『ライス』を原料にして作った飲み物かもしれないわ。でも、これはやっぱり中国人に訊くべきね、わたしみたいな日本人じゃなくて」
「ところがですね、驚かないでくださいよ、Ms.Kellyミズ・ケリー。鑑識によると、原料はライスだけじゃなかったんです。ピーナッツも入っているんです」
「なんですって! 夫は重篤なピーナッツアレルギーだったのよ!」
「そうです。御主人の死因はピーナッツアレルギーが引き起こしたアナフィラキシーショックでした」
「ちょっと待って! だってさっきは、死因は撲殺だって……」
「直接の死因はそうです。しかし鑑識によれば、もし撲殺されなくても亡くなっていた可能性が強いとのことです」
「そんな……夫はアナフィラキシーショックの状態で、更に頭を殴られて絶命したって言うの?……ひどすぎるわ! いったい何のためにそこまで?」
「何かのカモフラージュだった可能性があります。あるいは――」
「あるいは?」
「強い恨みです。鈍器による殴打はしばしば、そんな動機を示しています」
「だって、ふたりは愛し合っていたんでしょう? 夫はわたしなんかよりもあの女が好きだったんでしょう? 華やかで奔放で、色っぽい女。わたしみたいな糟糠の妻じゃなく」
「ソウコウの、妻?」
「ごめんなさい。日本語にそういう言い方があるの。『糟糠』っていうのは『酒かすとぬか』のこと。貧しい食事を表しているの。つまり糟糠の妻っていうのは、貧しい時代に苦労を共にした妻という意味になるのよ」
「噂では聞いています。あなたは慣れない異国で必死に働き、ずっと御主人を支えてきた。御主人は作家として大成するまで、ほとんど仕事らしい仕事をしていなかったとか――」
「あの人は以前軍人で、日本の横須賀の基地にいたの。半年でやめて帰国したのだけど。それからは、そうね、まともな職に就いたことはなかったわ」
「御主人とは日本で知り合ったんですか」
「いいえ、留学生としてロスに来てから知り合ったの。バーでアルバイトをするようになって、そこにお客として来たのが彼だったのよ。バドワイザーのビール一本でいつまでも粘っているから、店としてはありがたくないお客だったけど、彼は話が面白くてね。親しくなったら、自分は小説を書いてるんだって打ち明けてくれて、原稿も読ませてくれたの。この人は才能があるって思ったわ。だから応援することにしたの」
「それなのに、男はあなたを裏切った。さぞ恨みに思われたことでしょう」

 わたしは、はっとした。コロンボは同情するふうを装い、わたしに罠を仕掛けているのではないか。

「恨みに思わなかったと言えば嘘になるわ」わたしはコロンボの冷たい右目を睨みつけながら言った。「それは当たり前でしょう? でも、わたしにもプライドがありますの。だから探偵を雇い、こちらから証拠を突きつけて離婚することにしたんです。もちろん、それなりの慰謝料はいただきますわ」

 わたしは自嘲気味に笑ってみせた。「ぬかみそくさい女の、最後の意地ってところかしら」

 コロンボは黙ってわたしの話を聞いていたが、この時思ってもみないことを言い出した。

「あなたはまだ無名だった御主人の原稿を読んで、才能があると見抜いた。今そう言われましたね? それはあなたも創作をする人だからですか」
「何をおっしゃっているの? わたしは小説なんて書いたことないわ」
「でもこれは、あなたのアカウントですよね」
 コロンボは、レインコートの内ポケットからスマホを取り出した。ひどく似合わない動作だったが、今はそんなことにかまっている余裕はなかった。わたしは吸い寄せられるように、コロンボが差し出すIPhoneの画面を見つめた。そこには見慣れたnoteのロゴがあり、そして――

南ノ三奈乃(MinanoMinamino)

と表示されていた。

「あなたはご結婚以来、夫の姓を名乗るようになっていましたが、旧姓は『ミナミノ』ですね」
「ちょっと……ちょっと待ってください!」わたしは足元の床が崩れるような気分を味わいながら叫んでいた。なんとか冷静さを保とうとするのだが、頭が沸騰したようで思考がまとまらない。「違う、違うわ! わたしは南ノ三奈乃なんかじゃない!」

 わたしはコロンボの手からスマホをひったくった。

「コロンボ警部。あなたは日本語が読めないんでしょうけど、この人のプロフィール欄にはこう書いてあるわ。『台湾在住』。この南ノって人は台湾に住んでいるのよ!」

 コロンボは憐れむような笑みを浮かべて、わたしをじっと見つめていた。

 わたしは震える手で、IPhoneの画面をスクロールした。

「み、見て! この南ノ三奈乃は『54字の宴』という企画に参加してるわ。それに関するコメントの中で、『台湾と日本は時差が一時間で、台湾の方が遅い』とか書いてる。ほら、今年の仲秋の名月の写真まであるし、この人は本当に台湾に――」
「そんなものはちょっとした操作で、どうとでもなることです。大事なのはね、IPアドレスなんです。『南ノ三奈乃』というユーザーネームで、noteに小説やエッセイを発表している人物のIPアドレスは、あなたが所有しているPCのものでした」
「…………」
「もちろん、全てが嘘というわけではありません。もっとも効果的な嘘は、『嘘』っていうアーモンドを、『事実』のチョコレートでコーティングすることなんですよ。いわば口当たりのいい嘘ってわけですね。あなたはロスへ来る前の一時期、台湾に住んでいた。だから、あなたの台湾に関する記事は全て本物です。例えば、台湾の朝ごはんを紹介するこんな記事があります。記事の中で、あなたは『米漿』に触れ、原料がピーナッツであるとはっきり書いているではありませんか!」

「コロンボ警部、でも、そ、それは状況証拠にすぎないでしょう?」わたしは声を絞り出した。喉がからからになっていて、何度も唾を呑み込まなければ声が出ないのだ。「たとえわたしが南ノ三奈乃で、『米漿』について知っていたからって、それだけで夫を殺した証拠にはならないわ。いくらなんでも話が飛躍しすぎよ!」

 コロンボは葉巻を持った指先をわたしに突きつけると、先ほどまでとは打って変わった、畳みかけるような調子で言った。

「いいですか、Ms.Kellyミズ・ケリー――いえ、ミズ・ミナミノ。あなたの御主人と浮気をしていたという中国人女性は、他でもない、あなた自身です。御主人に新たに仕事部屋を借りるよう勧めたのも、その部屋にあなたが別人のように変装して忍んでいくのも、全てはあなたが企んだことだ。御主人は小説を書くような人だから、その『遊び』に大喜びで乗った。まさかそれが妻の復讐計画の一部だとも知らずに。あなたはひそかに探偵を雇い、ありもしない浮気の証拠写真まで撮影させた。そして、ロスのチャイナタウンで『米漿』を買い、御主人に飲ませた。御主人は日本に半年ほど住んでいたので、多少は漢字が読めたかもしれない。でも、まさか『ライス』と書いてある飲み物の原料に『ピーナッツ』が含まれているとは夢にも思わなかったでしょう。これは台湾に住んでいたことのあるあなただからこそ可能な犯罪です。でも、その『台湾』にいささか問題があった」
「台湾に問題、ですって?」
「そうなんです。これはうちの署にいる中国系アメリカ人に聞いた話なんですが、中国語と一口に言っても、中国人の発音と台湾人の発音の間には『捲舌音』の使い方などに細かい違いがあるそうですね。同じ英語でも、イギリス人とアメリカ人の発音が違うようなものなのか、まあ、あたしにはその点はよくわかりませんがね。とにかく、チャイナタウンの中国人女性店員は、あなたの発音を聞いて台湾人かと思ったそうなんです。最初は日本人客の目撃情報を探していたのですが、店員が皆首を横に振るんですよ。そこでふと思いついて、『台湾人のお客はこなかったかい?』と訊いたところ、『そう言えば、ひとりきた』って言うじゃないですか。そこであなたの写真を見せたらドンピシャです。男の目には別人のように見えますが、さすが同性の目ですなあ、『メイクや服の雰囲気は違うけど、この人に間違いない』と証言してくれましたよ」
「女の敵は女って言葉は真理なのね。つまりあなたは、最初からわたしを疑っていたってこと?」
「よくこれだけ手の込んだ計画を立てたものだと感心しています。でもね、ミズ・ミナミノ、あなたは所詮アマチュアなんですよ。そしてあたしは、プロなんです」

 見事な推理だった。わたしは自分の敗北を悟った。状況証拠と言えば、どれも状況証拠でしかなかったが、自分はどうしたってこのよれよれのレインコートを着た、風采の上がらぬ小男には勝てないような気がした。それでもなぜか不思議と、悔しさは感じなかった。代わりにわたしの中に、ある期待が生まれた。もしかしたらコロンボは、わたしの本当の動機まで知っているのではないか。たとえ計画が失敗しようと、これだけは墓場まで持って行くと決めた秘密だったが、もしかしたらこの男の右目は、それすら見抜いているのかもしれない。

 わたしはようやく冷静さを取り戻した。頬には微笑さえ浮かんだ。やさしく潤いのある声で、わたしは男にたずねた。

「でも、コロンボ警部。それはやっぱり理屈に合わないわ。もし浮気をしていなかったのだとしたら、どうしてわたしが夫を殺さなければならないの。 苦労して支えてきた男が、やっと成功を摑んだのよ。楽しみはこれからじゃない? ようやく流行作家の妻として、華やかな生活を楽しむことができるっていうのに、殺してしまったら元も子も……」
「さっきあたしは言いましたよ、これは復讐だって」
「いったいこのわたしのどこに、そんな恐ろしいことをしなければいけない理由が隠れているように見えるのかしら」
「御主人は軍人としてヨコスカ基地にいた時、ある事件を起こしましたね。泥酔して、通りすがりの日本の女子高校生を強姦した。ショックのあまり、その高校生は事件の後自ら命を断った。彼女の苗字が『ミナミノ』だったそうですね。これは偶然でしょうか、それとも……」
「……わたしの、妹よ」血を吐くような思いで、わたしは言った。
 コロンボは大きく頷いた。「流行作家か何か知らないが、あなたの御主人 ――いや、あの男は正真正銘の人間の屑だった。しかし日本の法律で犯した罪を裁かれることなく、その身柄はすぐにアメリカ側に引き渡され、本国に送還された。そしてアメリカの法律による裁判の結果、無罪放免された」
「日米地位協定。戦後八十年近く経つと言うのに、日本はいまだにアメリカの植民地なのよね」
「アメリカ人の一人として、心からお詫び致します」
 わたしはふっと笑った。「あなたが謝ってくれなくてもいいわ。それに誰にどれだけ謝られたって、あの子が戻ってくるわけじゃない」
「アメリカに来たのは、妹さんの仇を討つために?」
「さすがにそんなブシドーじゃないわ。わたしは、母と折り合いが悪かったの。継母だしね。父と母が再婚する時、互いに連れ子がいた。だから戸籍上は姉妹だけど、わたしと妹の間に血のつながりはないのよ。継母のいる家からはやく出たくて、奨学金をもらって日本を出た。最初は台湾。それから、アメリカ。最終的に、あんなに憎んでいた国に住むことになるなんて、皮肉な話よね。しかもアルバイト先で、妹の仇にばったりめぐり逢うだなんて。その時のことを自慢げにわたしに話したのよ、あいつは。許せなかった。運命の導きだとしか思えなかったわ。『わたしの代わりに復讐して』。そんな妹の声が耳に聞こえた気がしたの」
「妹さんとは、とても仲がよかったんですね」
「わたしたちは血のつながらない姉妹だった。でも、本当の姉妹よりずっと強い絆で結ばれていた。そう、愛していたの。あの子を……」

 わたしは両手で顔を覆って泣いた。この国へ来てから、初めて流す涙だった。涙は血に塗れたわたしの手を洗い浄めてくれるような気がした。

 涙がすっかり流れ出てしまうと、わたしは妙に清々しい気持ちになって、顔を上げた。「さあ、行きましょうか。コロンボ警部」

 コロンボは笑った。それは殺人犯を見事自白に追い込んだ刑事の笑顔ではなく、レディに対する紳士の微笑みだった。彼は片手を上げると、うやうやしくドアの方を差し示した。

                               (了)


参考文献:
上田和夫訳『小泉八雲集』新潮文庫、pp.257-258。

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