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生活の記憶

 仮住まいの長屋を出ると、隣の玄関先にはごちゃごちゃと物が積まれていた。何が何やら分からないが通路を塞ぐそれらは、よく見てみるとカンヷスや額箱やそういったものらしい。どれかひとつ引き抜いてみようかと悪戯心も湧くものだったが、あまりに美事に山となって積み上がっているものだから、その均衡を崩してしまうと私も一緒に潰されてしまいそうな気がして止めておいた。山を横目にそれを避けて、どうにか路地の方へと向かう。ちらりと見える箱の表面には知らぬ名のサインが、歪んだカンヷスの表面には描きかけらしい絵が見える。
 隣人が絵描きだということは大家から聞いていた。たまに鉢合わせるその玄関の扉の向こうから、あの独特な解油の匂いがすることも知っている。それだから、とうとう隣人は、梲の上がらない商売を辞めて一思いに商売道具を捨ててしまった物だろうと思ったのだった。
 しかし美事に玄関先に山を築いたそれらに、今隣人はどこにいるものだろうと思う。これをこのままにしておいて、既に引っ越してしまったというようなこともあるまい。またこの山を築くためには、ただ不必要となったものを投げていれば良いというものでもない。まず家の内にあるものを選別して全て野外に出し、その後に、この芸術的に均衡の取れた山を築かなければならないのだ。玄関の扉に全重量を凭せたような形になっているのだから、この山の完成後は、隣人は室内にも入れないはずであった。もしくは、ここは一階であるから、家をぐるりと廻って雑草の茫々としている庭のような小さな区画から、窓を開けて入ることはできるだろう。
 ともかくもこの状態で果たして何かをしでかしはしまいか……と思いながらも路地へ出ると、夏の日差しが照りつける中、隣に家を構えている大家が麦わら帽子に手拭いを提げて門の所に立っている。
「ヤア、どうも」と言えば、「ヤア、これは」と返る声。
 早速のことだから隣人のことでも尋ねてみようかと思ったが、大家は道向こうの何処かを遠く眺めている。同じ方向に目を向けると、道向こう、どこまでも田の広がる中心に、当の隣人の姿があった。黒いジャケツに白いパナマでゆらりと蜃気楼のように歩いている。
「Fさんじゃあないですか」
大家に言うでもなしに口に出す。大家は何を思っているのかうんともすんとも言わないので、つい「引っ越しでもされるんですか」と二の句を次いだ。
 大家に顔を戻すと神妙な表情でちらりとこちらに目を向けて、そうしてまた隣人に目を戻す。
「引っ越しでも、するのかもしれない」
 なんとも曖昧な言い回しに疑問しか得られない。
「しかしすごい山ですよ」
 先程出てきた玄関先に目を向けてそう言ってみると、そればかりは流石に大家も知っているのだろう。うん、とは返事が来た。
 隣人は奇妙に遅く、歩くというよりはヌルリとした動きで本物の山を背に田を横切っている。細長い身体を少し猫背に屈めた姿勢はいつものそれで、遠目でよくは分からないが、手には何かを握っているらしい。彼が絵描きとして売れているだか売れていないだかという話は聞いたことはなかったが、このような貧乏長屋にいるものだから、きっと後者なのだろう。それだから、その怪奇じみた姿に、とうとう生活の困窮から気が違ってしまったのだろうかとも思われた。
 それを眺める大家もどこか妙な気配で、この夏の暑さに皆狂ってしまったろうかと思った矢先、
「あんなにハッキリしているのにね」
と唐突に大家が声を出した。では失敬、と言いかけた言葉を飲み込んでその続きを待つ。
「あんなにハッキリしているのに、あの人、幽霊なんだよ」
「……ハア」
 思いもよらぬ言葉に、やはりこの数日の暑さが悪さをしたものかと思ったが、大家が私に戻した目は存外確かである。
「でも絵を描いているんでしょう」「絵を描いているね」「確かに住んでいる」「もう長く住んでいるし、話しもする」「足が無いのが相場だろう」「しかし半透明でもないさ」「生活をしている」「幽霊も、生活をするんだろう」
「ハア」
 もう一度同じ言葉に帰ってきてしまった。改めて隣人に目を向けると、特にフラフラした様子もないが、まるで足に滑車のついた絡繰人形のような動きに見て取れないこともない。
「あれはどうするんです」
 幽霊だとかそうでないとか、そのようなことは特に消化できそうな話でもなかったので触れることもできずにそう問えば、「どうもしない」と、また大家も、解決しない返答である。
「とにかくFさんも、きっとまた生活をやるに違いない」
大家がぼんやりとそう言うので端的に「何故」と問えば、「絵筆だけは折っていないから」との答である。
 玄関先に山と築かれたあれらの中には、思い返してみると画材道具は入っていない。出力したものをどれだけ捨てようとも、それに必要な道具は手元に残っているということらしい。
「執着とは恐ろしい」
 私が言えば
「あれがFさんの生活だ」
 あくまで大家は生活を言い張る。
 それからしばらく、私は自らの用事を忘れて大家と二人、男の動いているのだか、動いていないのだか分からない様を見ていた。青々とした田の中を未だ彷徨う絵描きの手には、よく見ると数本の絵筆が握られているのであった。

 ……と、いう夢を見たのサ。


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