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受容が進むと怠け者になりませんか?

(この文章は「しの」が書いています。『瞑想以前。』にアップしたのと同じものです)

「レタス」、コロナ禍になってからワークショップは休止したままなのだが、メンバーのみでのミーティングは細々と続けている。まあ、会っては瞑想に関する雑談をしているだけとも言える、そんな状態だ。

坂井講師は「受容と制御」をキーワードに、相変わらずいろいろ考えているようだ。
人間の活動は制御(コントロール、目標を持った努力、自制、頑張り、…etc)によってなされている。しかし、制御が行き過ぎて自分のありよう、願望、感覚などを抑止し否定するようになると人は病む。抑うつ感や神経症などがその典型である。
そこに受容という要素を持ってくる。人間の本性に制御は深く根付いているので、「受容しよう」という発想になりがちだが、受容は「やろう」と思ってできるものではない。何かをしようという意志は、制御である。
受容は制御が緩んだ一瞬に姿を現す。そのままで良いという状態、そこにいることで人は制御による苦しみから回復することができる。
そしてそれはヴィパッサナー瞑想における「ありのままを見る」というスタンスと一脈通じている。
とまあ、この辺りが私の「受容と制御」に関する理解である。

ある日もミーティングと称して会議室でよもやま話をしていると、
「ひょっとしたら受容が進むと人は怠け者になってしまうのではないかと思うんですよ」と、いきなり坂井さんが言い出した。
「成程、『自分はそのままでいい』という考えが行きすぎたら、何もしなくなるという考えですね。実は私も以前そう考えたんですが、そうとは言えないというのが今の実感です」と私は以下のようなことをしゃべった。

制御が行き過ぎた人間は、自分の行動を「理想の自分」から見て「この部分が足りない」「もっと頑張らないと認められない」と常に無意識にダメ出しをしている。
しかし、制御と受容のバランスが取れてくると、「現実の自分」から見て「至らないところはあるが、ここまではできた」「ここはだめだけど、今は仕方がない」という地に足のついた判断ができるようになる。

少し辛辣な言い方になるが「神経症の無神経」というような振る舞いをしたことがないだろうか?
強い制御を自分にかけていると自分の苦しみに焦点が合ってしまって、そのことで消耗して他人に気配りをする余裕がなくなる。戸締りを確かめすぎて約束に遅刻してしまうとか、逆に早く来すぎて友人がそろった頃にはすでにくたびれているとか、相手との時間を楽しむエネルギーが自分にかまけることで失われてしまうのだ。
「お礼を言うにも力がいる」というのは河合隼雄の指摘だが、自分を制御することに力を注ぐと、他人に対するちょっとした気配りをする余裕がなくなり、一日中くたくたになるまで頑張っている(主観)のに、他人から見ると不愛想で傲慢に見えてしまう(あの人、いつも険しい顔をしてるよね)ということがある。

受容によって自分への執着を緩めていくと、「どう見られても、自分のすべきことをしていればよい」「他人の考えまではコントロールできない」という余裕が出てくるので、同じ行動をするにもスムーズになる。
そうすると、同じ作業をこなすための時間やエネルギーが少なくてすむ。「わざわざ苦しみながらやる」ということが無くなるからである。
また、やらないこと(休憩、休暇、趣味など)についても、(自分が休むことを誰かに非難されるのではないか)という懸念なく、自分をねぎらいつつ心置きなく楽しめるようになる。

だから受容が進んでも怠け者になるということはないのだが、制御が強かったころの心のクセが残っていると、短時間で成果を上げることや、休憩をとることに関して、根拠のない罪悪感が起きてくるかもしれない。
また、今の時点で自分をそう判断するとしたら、必要なのは「もっと頑張る」ことよりも「もっと自分をありのままに見る」ことではないだろうか。

という、釈迦に説法である。
「ああ、そうですよね、私も最近自分が怠け者になったような気がしていたんですが、気付いたんです」
「何にですか?」
「自分は制御が強かったころから怠け者だったということにです」
え、そんなオチ?

生きとし生けるものが幸せでありますように