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私の生き様

初めまして!

この記事にたどりついたあなた。どうやってここまで来られたのでしょうか?

たまたま?
私に「読んで!」と言われたから?
面白そうだったから?

個人的には3つ目の方が多いととても嬉しいのですが、1or2の方ばかりでしょう。

どんな方であっても、まずはこの記事を開いていただいたことに、感謝いたします。ありがとうございます。

私のことをご存じない方に向けて、簡単な自己紹介を。

名前:西村 優弥(にしむら ゆうや)
生年月日:1997年1月10日

この記事では題名の通り、私の「生き様」を綴っています。

生きてきて、本当に山あり谷ありの人生を送って参りました。

少し長い記事になりますが、お付き合いください。

【誕生】


 兵庫県尼崎市で産まれる。

【赤ん坊】

 すくすくと育つ。初めて喋った言葉は「まんま」(意味:飯)

→食へのこだわりを記憶のない頃から体現していた。

【幼稚園】


 人生初のモテ期?が到来。

 下駄箱の前に立つや、部屋の中から女の子達が僕の手を引っ張っていったらしい。

【小学生】

 性格は控えめで目立つことは苦手・恥ずかしがりや・人見知り。ただ、自分が好きな人と一緒にいる時や、慣れた環境の中では明るく活発な子供だった。

 小さな頃からスポーツ、習い事はいろいろやらせてもらっていた。(体操、水泳、お絵かき教室、空手など)

 そんな中、従兄弟の試合を通じて、アメリカンフットボール(以下アメフト)と出会う。(従兄弟が引退した試合で叔母が涙していたことは鮮明に覚えている)

 アメフトへの憧れから、アメフト部がある中学への進学を考えるようになった。兄がすでに同じ理由で私立へ進学していたので、「僕も!」といった感じで受験を決意。小学校4年生から塾に通い始める。

入塾と同時に他の習いごとは辞めた。「勉強一本に集中できるように」という親の考えのもとだった。

だが、塾での勉強を始め、目標は漠然とあるものの、最初は行動が伴わない。(毎日1枚ずつやれば簡単に終わる1ヶ月分のプリント課題も、初日に5枚ほどやってから手をつけずに放置し押入れに隠していた。それが母親にバレてブチギレ。このようなことがザラにあった。)

6年生になり、勉強に根を詰めるようになる。この頃から成績も上り調子となり、少しずつ勉強を楽しく感じるようになっていた。

→努力したことによって結果が出た時の喜びを少しずつ感じていった。

塾で勉強をしていたので、学校の勉強は難なくこなせた。そして、先生から「分からない友達に教えてあげてよ」と頼まれ、自分のプリント課題が早く終わった後はクラスメイトに分からないところを教えるようになった。教えることを通じて「ありがとう」と言ってもらえた時は嬉しかったし、その頃から「教えるって楽しい」と感じるようになった。

→自分の力で誰かの役に立つこと。「ありがとう」という言葉をもらえたことに喜びを感じていた。

しかし、第一志望のA日程は不合格に。人生初の挫折だった。

かなり落ち込んだが、その後も第二志望のB日程と第一志望のB日程が控えていたので、それまで知識を詰め込み続けた。

努力のかいがあってか、第二志望のB日程に合格した。合格したことにより、自信がついた。(B日程は合格人数がA日程の半分以下なので倍率・難易度ともに高い)

良いモチベーションのまま第一志望のB日程を受験。結果は合格
(この年は父が大厄だったので、父の代わりに私が災厄を受けたと西村家では語られている。)

→人生初の努力が結果として実った経験で、何よりも嬉しかった。

【中学生】


念願叶ってタッチフットボール部に入部。(中学では身体への危険性を考慮してタックルのないタッチフットボールを行うことが決まっている)だが、練習のきつさから逃げ出したくなっていた。特に夏休みのの練習は私にとって地獄そのものだった。
練習の最後に行う「LAST」と呼ばれるダッシュ(約50m往復を8-12本×3セット)が本当に嫌いで、トイレの個室に腕時計を持っていき、20分程過ぎた後にグラウンドに戻るというサボりをしたこともある。顧問に直接電話をして仮病で休んだこともあった。

→自分に対してとてつもなく甘い人間だった。

また、受験太りにより獲得したぽっちゃりボディが原因で、からかわれることも多かった。「そんなつもりはなかった」からかう人は大体こう言うが、私は傷ついていた。

→自分に甘いところや太っているところが主な原因で、私は私自身がすごく嫌いだった。

中学3年生になった初め、顧問と3年生は1人ずつ面談をすることが通例だった。その時、顧問には「今のままだと後輩誰一人の記憶にも残らないだろう。」と言われた。痛烈に心に響いた感覚は今でも覚えている。

その頃から「何かを変えないと」と思い、①体をデカくすること ②練習中は常に周りを鼓舞できるような声かけをすること この2点を心掛けた。

①は「ただのぽっちゃり人間じゃなくて、強くてでかい人間になってやる」という心持があったからだった。チームについてくれていた管理栄養士さんと両親の支えで、食事内容を徹底的に変えた。3食バランスよく食べ、炭水化物を摂りまくった。(朝食にロールパンと白米が同時に出てくるようになった。)その時期だけは、食べることが本当に辛く、白米を見るだけで吐きそうになっていた。(現在減量中の私からすると「こんな幸せなことはない」と心底思う。)それでも両親と管理栄養士さんの支えのおかげで、中学3年の夏休み期間で10キロ(75kg→85kg)増量することができた。この結果は後にチーム内で良い事例として取り上げられ、ロールパン&白米の朝食はチーム内の全母親に公開されたそう。夏休み明けの練習で、いつもどおりHIT練習(ブロックする際に体を相手に当てる練習)をしていると、同期から「重っ、、、」「もうちょい痩せてくれん??」と言われた。地味にうれしかった。

②は最初は恥ずかしい気持ちもあったが、シーズンが深まるにつれてどんどん自発的に発言できるようになった。次第に、自分の息が上がっている状況でも、常に周りへ意識を向け、鼓舞し続けていた。具体的に何を言っていたかを思い返すと「よっしゃいこー」「いけるか?」など、特に意味は無い言葉だったかもしれないが、「周りを鼓舞し続ける姿勢を見せること自体が周りに少しでも良い影響を与えられる」そう信じて取り組んでいたことは確かだった。

最終的には、チームの目標であった「大会優勝」はできなかったが、引退する際に個人表彰を頂いた。

「記憶に残らない人間」が「記憶を刻んだ人間」になった。

→自分の意思で行動を変え、未来を変えることができた。

→この経験が「隣で頑張っている人を助けたい・応援したい」という私のマインドを形作っているのだと今は思う。

【高校生】


父に槍投げを勧められ、アメフトを続けるか少し迷っていたが、なんやかんやで続けることにした。

1年生の頃は試合にも出られ、練習はきつかったがそこそこ充実していた。

だが、2年生の頃から少しずつその生活が変化していった。


まず、反省ミーティングがとにかく辛かった。メンタルが弱かった私は怒られるのが本当に苦手で、自分がミスをした日のビデオを見るのは辛かった。ノートには「なんでできひんねん」「こんなんじゃあかん」みたいなことを殴り書きしていた。最終的には同期がスタメンになり、私は控えに回ることになった。とにかく悔しかった。

だが、ミスばかりする要因は明確で、戦術に関する理解が出来ていなかったからだった。過去のいろんな試合のビデオを先輩からもらい、いろんなプレーを見て戦術の理解度を深めていった。そして、3年生になる頃には、自分達のプレーに関する理解度は誰にも負けなかった。そして、ポジション内での司令塔的役割を担うことになった。

→かつての弱みを強みに変えられた。

3年生では副将を務めた。春シーズン(アメフトの本シーズンは秋だが、春にも大会がある)の県初戦、一番負けたくない姉妹校に負けた。おそらく創部史上初めての負けだったと思う。とにかく絶望だった。そこからは毎日終わりのないトンネルを進むかの如く、長くて苦しい日々を過ごしながら春シーズンを乗り越えていった。最終的には春は関西2位で大会を終えた。

夏を乗り越え秋シーズンスタート。春に負けた姉妹校とは2度対戦することになったが、どちらもギリギリだったが勝つことができた。心底ホッとした。

その後、関西大会も順当に勝ち進み、全国大会決勝に進んだ。秋シーズンは毎日が緊張感のある日々だったが、練習後には同期と一緒に帰り、練習のビデオをみんなで見て話す時間がとても好きだった。

→チームという共同体の中の存在一人一人が共通の目標に向かえる環境に楽しみを感じた。

全国大会決勝を迎えた。勝っても泣いても高校生活最後の試合。「周りの環境に恵まれ、やるべきことはすべてやってきた」そういう思いがあったからか、負ける気はしなかった。試合はロースコアゲームで、要所で後輩が点を決めてくれた。学年に関係なく、チーム全員が自分の役割を全うしていた。そして、結果として勝つことができ、チーム10年ぶりの日本一を獲った。試合終了の際のビクトリーフラワーをした直後のことは嬉しすぎたせいかあまり記憶がない。

クリスマスボウル_ビクトリーフラワー

ただ、優勝した数日後、嫌なことが起きた。

ある日、ヘッドコーチから3年生全員にメールが届いた。何の気無しに開いてみると、「決勝戦が終わった後、電車でのマナーが悪く日本一のチームとは思えない。と学校にクレームの電話が入った。」という内容だった。私達はその程度のチームしか作れなかった。それだけがすごく心残りな高校アメフト生活だった。

→どれだけ秀でた結果を得ていても、「人間性が伴わなければ価値は損なわれる」ことを知った。

【大学生】

●人生のどん底へ

大学入学後、引き続きアメフト部に入部した。少しだけだったが、1回生の時点で試合にも出させてもらえていた。

大学のアメフト部の目標は「日本一」常にその物差しで行動のレベルを測っていた。「日本一」を目標とする以上、勝つことは当然で、結果を出すことに対してシビアだった。そういった環境に、少しずつ疲弊し、自分の中の価値観が変わっていった。

次第に試合に出て活躍することよりも、「怒られないためにミスをしないこと」に固執していき、練習でプレーすることや、試合に出ることが怖くなっていった。

→周りの目や評価を極度に気にする自分が形成された。

 そんな自分のまま、大学2回生をまるまる過ごした。正直、この頃の記憶はあまり覚えていない。

ひとつ覚えていることは「チヘドラ」ぐらいだった。「チヘドラ」というのは練習メニューの名前で、由来は「血反吐を吐くぐらいドライブする(足を前に動かし続ける)練習」を文字って「血反吐(ド)ラ」。あくまでも”それぐらいの意気込みで“ということなので、コンプライアンス的な問題は無い。当時首を怪我していたので、足の回転数を上げる・体力作りを目的にコーチからの要望もあり、やるようになった。ただし、コーチの要望を受けたトレーナー主導のもとでやらされていたので、自分の意志では無かった。やってみたら、血反吐を吐きそうになるぐらいきつかった。そして、メニューを考えた人間を恨んだ。トレーナーは普段仲良くしている同期だったが、この時ばかりは「悪魔め」と思った。
(ちなみに練習の効果としては、異常に足の回転数が上がった。今、アメフトをしている人で「足を速く前に動かしたい」と思っている方は全力でオススメします。)

3回生になると人数の関係で試合に出る回数も増えた。その頃の自分にとってはグラウンドでプレーをする機会全てが辛かった。

「結果を求められる→練習しないといけない→がむしゃらに練習をこなす(頑張っている自分を周りに見せる)→目的もなくただこなすだけなので結果はついてこない→また結果を求められる」この無限ループだった。
(なんとなくがむしゃらにやるだけだったので今となっては当然のことだと思う。)

次第にこの人生から遠ざかる方法を模索し始めた。一時期は「こんな人生終わらせたい」と本気で考えた。死にたくもなった。体は動いたが、心が動かなかった。

そしてある日、家の中で意識を失って、倒れた。

大事には至らなかったが、心は限界だった。そして、「そこまでする必要はないだろう」と決断し、アメフト部を退部した。

退部する時、親以外には誰にも相談しなかったので、同期や先輩は私が退部すると知った時、すぐに連絡をくれた。「少し休んでから考えてみたら?」と言ってくれたが、それでも退部の意思は揺るがなかった。

→その時声をかけてくれた人達には本当に感謝している。ありがとう。

退部してからは心を落ち着かせる日々を過ごした。(幸い夏休み期間中だったので、大学に行く必要もなかった)

●ボディビルディングとの出会い

退部してから数日、「とりあえず痩せないと」と思い、ダイエットを始める。(当時の体重は110キロ・健康診断では肝機能障害が指摘されていた)

ダイエット前


筋トレは部活の一環で高校から始めていたが、当時はそこまで好きではなく、ひたすら追い込まれるしんどさが苦手だった。

→過去の筋トレに取り組む動機は、意思ではなく義務だった。成長・変化を楽しむマインドではなかった。

ある日、筋トレYoutuber「Kanekin Fitness」の動画を目にする。ボディビルディングに生きる人間の生き様に、「かっこいい」と素直に思った。

そこから、「自分でもこんな体になれるのかな~」と思い、ボディビルディングの世界に足を踏み入れた。最初は、いじめられていた過去や「痩せている姿を想像できない」なんてことを言われていたことによる「自分は一生太って生きていく」という固定概念があり、ダメ元でのスタートだった。 

実際にダイエット生活を始めていくと、みるみる体重は落ちていった。冒頭でも述べたように、アメフト部時代の健康診断では、毎回肝機能障害を指摘されるほどに太っていたので、食事内容を見直すだけでも体は大きく変わった。次第にどんどんのめりこんでいき、「食事はどんなものがいいのか」「どんなトレーニングをしたらいいのか」と興味がどんどん湧いてきた。まさに「夢中」だった。

学校のトレーニングセンターにも惜しげなく通った。みるみるうちに痩せていく自分の姿を見て、同期が体調を心配してくれたことは鮮明に覚えている。

●初めての仕事

トレーニングがどんどん好きになり、ジムでアルバイトを始めた。もともと筋トレをしていたので、知識はそれなりにあったが、人に教えたことは今までになく、最初の指導はぎこちなかったが、次第に慣れていった。

指導をしている時間はとても楽しく、饒舌だった。とても自分らしくいれた。そして、お客様から「楽しかったです!」「ありがとうございました。また頑張ります!」と言ってもらえた時、本当に嬉しかった。

アルバイトは大学卒業まで続け、筋トレに満ち溢れた日々は本当に充実していた。

●ダイエット成功

ボディビルと出会ったあの日からから大学卒業まで、週5.6回のトレーニングは欠かさず、食事もきちんとマクロを計算し、節制した。

結果、ダイエットは成功。5ヵ月で30キロ落として見た目も良くなった。(110kg-80kg)

ダイエット後


その頃にはすでに、自分の身体をでかくてかっこよくすることに人生の価値を見出し、「筋トレが人生の軸」になっていた。そして、自分に自信を持ち始め、今までは大嫌いだった自分を好きになっていった。

→筋トレを心底楽しめるようになり「身体と心を変える」ことができた。もはや筋トレが無い人生などあり得なかった。

●人生の選択 ~挑戦か安定か〜

就職活動を始め、志望先を考える中で、パーソナルトレーナーか公務員かの2択で迷った。筋トレが人生の軸ではあったが、「将来ちゃんと暮らしていけるのか、、、」といった漠然とした不安があった。「好きな事で生きるか、安定して生きるか。」「挑戦か、安定か。」

迷った結果、後者を取った。

今思い返してみると挑戦することへの恐怖心を理由にして、自分の可能性に大きな蓋をしていた。

→人生を豊かにするための知識・覚悟・勇気が無かった。

【社会人】

●公務員キャリアのスタート

市役所職員としてキャリアをスタート。社会人になってからもトレーニングは週5.6で続けた。社会人になってからも、筋トレが無い人生はあり得なかった。仕事は日々タスクをこなす中で、「本当にやりたいことなのか?」と感じることもあり、不完全燃焼気味だったが、「安定が大事なんだ」と自分の中でやりがいを作って無理やり思いこませていた。

●未来を考える

社会人1年目の秋頃から、過去に選択しなかったトレーナー業に再び憧れを抱き「このままでいいのか」という思いを感じ始めていた。

そんな時、Youtubeで「AKIO BLOG」の動画を見た。「最高の1日にするために、その日を常に全力で」彼の生き様はとても魅力的に見えた。「こんな風になれたら」と思いつつも、「安定を捨てる恐怖」には勝てなかった。

こんな一連のループを社会人2年目の終わりまでに数回繰り返した。

●行動とマインドの変化

2021年1月。新年の始まりとともに、再び「このままでいいのかループ」に陥った。ただ、いつもとは違ってこの時は、「何も行動しないまま後悔するのは嫌だ。」と思った。

そして、2021年6月。パーソナルトレーナー養成スクールに入校。70万円を自己投資した。

入校式の時、「入校した目的」を一人ずつスピーチする場面があった。「フリーランスとして活動するために」「身体のことで悩んでいる人の力になりたい」などなど、それぞれの思いを発表していた。私も「自分が過去ダイエットに成功した経験からパーソナルトレーナーに興味を持った」とは言ったものの、「これから具体的にどうするかは決めていません。とりあえず勉強したいと思います。」と一人だけふわっとした動機だったが、学びをスタートさせた。

実際にスクール生活を過ごすと、すでに覚悟を持っている同期との会話が刺激になり、この先の人生を変えるきっかけとなっていた。

●変化をもたらした一冊

何となく「本でも読もうかな」と思い、岸見一郎・古賀史健共著の「嫌われる勇気」を読んだ。

自分にとって衝撃的な内容ばかりで、感動すら覚えた。

・人は誰だって幸せになれる
・幸せになれないのは、自分で変わらない(=幸せにならない)選択をしているから
・大切なのは幸せになる勇気を持って一歩踏み出すこと

すなわち、自分の可能性を信じて、人生を前に進める勇気を持つ。そして、一歩踏み出せば、誰だって幸せになれることに気づいた。

そして、「自分の人生、やりたいように生きよう。」そういう思いが腑に落ちた。その瞬間は「これまでかかっていた霞が消えていく」ような感覚だった。

●自分を見つめなおす

「やりたいように生きる」

今までトレーナーになるための勉強を続けてきたが、改めて「自分のやりたいことは何か」を真剣に考えた。その結果、まずは「本当の自分」について知る必要があると思い、これまでの人生とその時々で感じた感情・思考について整理した。
(この記事はそのためのものでもある。)

そして、自分の中でまったくぶれていなかった「心の軸」があることに気づいた。

「私の心の軸」
①誰かを喜ばせることが好き
②「ありがとう」がエネルギーになる

この二つが私の「心の軸」だ。総じて言えば「誰かの力になりたい!」という思い。これはトレーナーとしての経験をはじめ、この記事には書いていない些細な日常の中でも存在し、24年間ぶれてこなかった軸だった。

そして「心の軸」をもって、何をしたいのか。その答えを自問自答し続けた結果、この答えにたどり着いた。

「人の心と身体を変え、人生を前に進めるサポートをする」

●私がやりたいこと「トレーナー」

これまでも述べてきたように、筋トレは私の人生の軸だ。「筋トレを通じて身体が変わると心が変わる。そして、心が変われば人生が変わる。」そう私は信じている。かつて太っていた私が身体と心を変えて、自分を好きになることができたように「自分は変われるんだ」と気づいてほしい。そして最終的には「自分大好き!」そう胸を張って言える人生を送ってほしい。

そのためにトレーナーとして私の価値を提供し続ける。

私がやりたいこと「コーチ」

かつて私がそうだったように「自分の可能性ある未来に自分自身が蓋をしている」そんな現状に陥っている人に、「一歩踏み出す勇気があれば変われるんだ」ということを理解してほしい。そして自分の望むように人生を前に進めてほしい。私は「嫌われる勇気」を読んだことによってそのことに気づき、人生を前に進めることができたが、「コーチング」を通じて同様の価値提供ができることを知った。アメフト部時代の後輩がコーチングのサービスを提供していたので受けさせてもらうと、「自分がトレーナーとして価値提供をしたい」と本気で思えていることや、それを成し遂げるための道筋など、対話を通じて人生を前に進めることができていた。何よりも、その対話はコーチが「教える」ではなく「一緒に考える」というスタンスのもとで行われていた。つまり、最後は自分自身で気づきを起こすための対話だった。「誰の意見もない不純なき自分の意志を探求し人生を加速させるコーチング」に私は魅了された。そして私自身の力でその価値を提供したいと思った。

私がそうだったように、挑戦することに対して漠然とした不安を感じている人には「勇気を出して一歩を踏み出すサポート」を。何をしたいのかが分からない人には「本当の自分を一緒に見つめる伴走」をしていきたい。

【私の今とこれから】

これまでは私が今まで歩んできた人生とやりたいことについて述べてきた。これから述べることは私が今、そしてこれから実践していく未来の話。

①自分の価値を高める

トレーナー・コーチとしての学びを深め、自分の価値を高める。また「人生に関する知恵」「お金に関する知識」などなど、色んなことを学び、自分の社会的価値向上につなげる。

②コンテスト出場

フィジークのコンテスト出場は以前から考えてはいたが、「まだ勝てる身体ではないからいずれか」と先延ばしにしていた。要はビビっていた。チキン野郎だった。その過去の自分を見つめなおし、「絶対大会に出よう」と決めた。

「過去の自分を越える」

今の筋トレのテーマだ。そうと決めた瞬間、一回の筋トレにかけるマインドが変わった。今は出勤前にバチバチに追い込んでいる。

【私の夢】

『一人でも多くの人に惜しまれて死ぬこと』『「人生楽しかった!」そう心から思いながら死ぬこと』

これが私の最終的な夢だ。

時に仕事をし、時に筋トレし、時に勉強し、時に休む。

そのすべてに「夢中」になれている人生を歩んでいきたい。

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