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「対話」はもう時代遅れになっているのでは?

▼要約
・「対話」は「意味を共有するシステム」として必要不可欠なもの
・デザインされた「対話」ということで、最近は「ワークショップ」が流行っている
・しかし、「対話」を意気込んで行ったり、デザインしたりすることに違和感を持っている人は多いように思う
・「対話1.0」=「1対1の語り合い」、「対話2.0」=「ワークショップ(空間からテーマ、構成までデザインされた対話)」としたとき、「対話3.0」には「ヒュッゲ(空間と思想をデザインした対話)」が当たるのではないか

「対話をしよう」という意見を目にすることが増えてきた。オープンにそれぞれの意見をすり合わせ、お互いの理解を深めようというふうな意味合いで。

いろんな背景を持つ人と協働していくためには、意味を共有するための対話は重要だ。僕自身、これまでいろんな人との対話を重ねてきて、いろんな視点を身に付けてきた。困ったことがあるたび、「対話の機会を設けよう」と語りかけてきた。

しかし、ここ最近は「対話」という言葉に違和感を抱くようになった。上手く言い表せないのだが、なんだか陳腐なものになってしまったというか、対話の価値が薄れてきたような、そんな気がする。ひょっとすると、わざわざ「対話をしよう」ということ自体に、わざとらしさみたいなものを感じてしまっているのかもしれない。

最近では対話をより効果的にするため、「ワークショップ」という形式がよく用いられている。対話を行うための構成から、人数、席の配置、声掛けの仕方までデザインされたそれは、意見を出すのが下手で、議論の進め方を知らない人にとってはフィットする画期的なものだと思う。

だけどこれも、ゴールイメージまである程度想定できてしまって、どこか御膳立てされている気がする。またある特定のテーマに限られてしまうので、自由度もあまり高くない。そこに嫌気が指している人も多いのではないか。

「対話1.0」を「1対1で向かい合ってする話し合い」とするなら、さしずめ「対話2.0」は「ワークショップ(空間からテーマ、構成までデザインされた対話)」といったところだろう。

となれば、「対話3.0」はどうなるのか。僕は「ヒュッゲ」だと思う。ヒュッゲとはデンマーク語で「落ち着いた空間や時間」を表す言葉で、要するにくつろいだ状態で行われる対話だ。

対話3.0にあたるヒュッゲでは、対話1.0のように意気込むことはないし、対話2.0のように御膳立てされることもない。そこに存在するのは「オープンになんでも話そう」という思想と、腰を下ろして語り合うための落ち着ける空間の2つだけだ。それも強制的なものではなく、その空間にいると自然と話したくなるような状態のことを指す。

僕は日本にいるときはさほどおしゃべりではなかったが、デンマークに留学していたときは自分でも驚くほどおしゃべりをしていた。それも、母国語ではない英語で。これには、デンマーク人に根付いている「向き合う・受け入れる」という思想と、ゆったりとした空間が大きな役割を果たしていたように思う。

僕はヒュッゲで、日本のことから、教育、言語、民主主義、恋愛、働き方、環境、文化、ジェンダー、多様性まで数多くのことを語った。テーマはいつもバラバラで、これまで触れたことがないようなことにまで派生していった。これは、デザインし尽くされていない対話だからこそ生まれるものだ。

多様性がますます大事になってくる現代では、単なる対話やワークショップでは厳しい面がある。恐らく下手な対話では、ぎこちなくなってしまい、埋まらない溝を生むことになる。だからこそ、より自然で、かつより多面的な対話ができるヒュッゲは今後重要になってくるのではないか。

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