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建築批評:House O(設計:木村松本)/リアリティの在処

2023年3月21日、
木村松本建築設計事務所が設計した住宅
House O のオープンハウスに伺った。

木村松本設計の建築物をナマで拝見させていただくのは、実は今回が初めての機会。
古い納屋をリノベーションした住宅とのことだが、
あんなかんじだろうか?こんな感じだろうか?・・・と、想像を膨らませながら、琵琶湖線に揺られ、現地へと赴いた。

建物の小ささに比して大勢の建築関係者が訪れていた

結論、期待していた以上に発見の多い、素晴らしい建築だったので、
忘れない内にレビューを書いておこうと思う。

なお、上述の通り木村松本の建築を生で見た経験が少ない故、彼らの建築に対する知識不足が見られるかもしれない。
その点はぜひ補足をいただけると嬉しい。


01. ギリギリ建築になっている?

・・・さて、だいぶ失礼な言い回しでレビューを始めることになってしまったが、
一旦そこには目をつぶっていただき、もう少し先まで読んでいただけると嬉しい。

肉眼で見て最初に感じたのは「これだけで建築が成立してしまうのか!」という驚きだった。

最初は設計者の意図のよりどころを掴み兼ね
言葉に詰まってしまった

露出する下地材、おさえない小口、結束バンドで吊られた扉、野生みそのままの既存納屋の駆体・・・トップダウン的に整えた建築物には絶対見られないような荒々しさがある一方、

結束バンド

木村松本の他のプロジェクトでも見られるような鋼板の波板やアクリル板、重厚な製作物の木製建具や、納屋の駆体を活かすための特殊な基礎の打ち方など、
力を入れる部分にはしっかり入っている。

本レビューではあまり触れないが、柱と基礎を地上で横方向から固定するという工夫
これにより、既存納屋を解体したり動かしたりしないでべた基礎を打つことができる

この建物を建築として成り立たせるために絶対必要と思われる要素達にのみコストを費やし、
それらがギリギリのところで繋がっている・・・ように見えなくもない。

だから「ギリギリ建築になっている」というなんとも不思議な印象を受けた。
建築的要素が分散して建物の中にある様子を見て、「バラバラ」と形容される見学者もいた。

荒々しさや手作り感が一瞬、石山修武の建築を自分に想起させたが
建築への姿勢が全く異なるので、なにが違うんだなぁ・・・と考えながら見学していた

しかし、
ギリギリ建築になるラインまで出来る限りコストカットした建築には特有の至らなさや貧しさが伴ってしまうものだが、
House Oからはそれらを全く感じない。
また、建築的要素がバラバラであると言うには、一つ一つオブジェクトにこだわるところから始まった設計には見えなかった。
別の言い方をすれば、「バラバラであることにこだわるが故の緊張感や息苦しさ」を感じなかった。
過度に趣味的な建築という印象もない。

一見趣味的にも見えるこの面材も
過去プロジェクトから得た経験値によってなのか
ちゃんと合理性と正当性を得ているように感じた

その後、木村松本の松本氏にプロジェクトの経緯やコスト感を一通り伺い、
彼らは僕たちが今で目にしている現実とは少し違う位相から設計を始めているように感じた。


※補足
「建築になっている」「建築として成立している」という価値観について

ここでは建築を
「建物やそれに類する物のうち、意図や意思、哲学ま目的をもって、デザインされまとめあげられたもの」
として使っています。
「まとめあげ方」は千差万別、無限に方法があると思いますが、
それが建築になっているのであれば、その意図や哲学・目的に沿って思考を巡らせたり、
今後社会や環境の中で残っていくにあたりどのような効果、メリットデメリットを生み出すことができるかを予測したりすることができます。
逆に、設計者の意図が十分に反映されていなかったり、明確なビジョンなしに適当に作られたと見えるのであれば、
そのものの射程を予測することはできませんし、
それは「その設計者においては」建築ではないと、判断します。

02. 線と面でできた建築

結論から言うと、House Oは線と面で形作られていると感じた。
その印象を順を追って解釈してみる。

当たり前のことで恐縮だが、建築を設計するときは線を引く。
手描き図面だろうが、CAD図面、3Dモデルだろうが、必ずどこかに何かしらの線を引くことで設計は進む。

線とは何かと何かの境界線であり、物体が極限まで抽象化された一次元だ。

複数の相入れない物事、
例えば、建物内部/外部、下地/仕上、敷地内/外、床/壁、フローロング/タイルを
区別し整理することが建築設計だとしたら、
「設計とは線を引くことである」と主張する人がいてもおかしくはない。

配布資料にあった小さな図面も、細い線で構成されている

また線は、2次元の面の存在とともに引かれる。

異なる面同士の間に線はでき、閉曲線で囲われた領域は(物質的かどうかはともかく)面になりうるし、
面を横から見ても線として現れる。
もしかしたら、
人によっては面を置くことが先行し、結果的に線が現れると捉えるかもしれない。

いずれにせよ、建築の設計では線を引き、面を張る。

図画工作上の当たり前のことのように思えるが、
不思議なことに、この線と面には実体がない。

厚みのない二次元の面は現実には存在せず、ましてや厚みどころか幅もない1次元の線などは言わずもがなだ。
線や面はあくまで、現実に対する人間の至らない認識力を補うために図面や3Dモデルに刻まれる目印でしかない。

そんな、現実の位相に存在しない線と面でHouse Oは作られてると感じた。
(下記websiteでの大量の軸組模型スタディが見られる)

構造材の鋼製の細い線材や柱だけでなく、段差の輪郭や元々あった既存の梁まで、
一度現実がすべて線に還元され、線の集合の次元で建築が立ち上がる。
線の合間には、
合板やアクリル板や波板の鋼板、中空ポリカなどの、木村松本の建築で継続して見られる面材や、
既存納屋の土壁が現れる。

House Oは改修のプロジェクトだが、線や面で現実のものをすべて捉え直すという意味では既存部分と追加された部分に差はない。
現実の物を線と面に見立てること自体が設計だとするなら、
House Oは改修でありながら、
ある意味で新築の住宅のようにも振舞う。

03.建築と現実のギャップ、木村松本的「手つき」

ここで建築と現実の間に奇妙なギャップが生じる。

建築は線と面で作られていながら、現実は依然立体であり、線には太さが、面には厚みが存在する。

デザインでは言及しきれていないこの建築と現実のギャップを、
House O(他の木村松本の建築でも同様かもしれない)では、小口をおさえなかったり、下地をそのまま現しにしたり、既存の梁をそのままに残したり、
平面計画においても、あえてスケール感にはルーズさを持たせるために、浴室やトイレのサイズや配置は余裕を持たせている。
つまり現実を積極的に「放棄する手つき」を手段として選ぶ。

既存と改修部分をことさら際立たせたりはしない
すべてはある意味放棄され、ある意味では別の次元で設計(コントロール)されている

もちろん、ただただ本当に放棄しているわけではない。
施工者との綿密な意思疎通によるクオリティコントロールあってのことであり、
また、放棄するならするなりのギャップの見せ方は作法として、事務所内、もしくはプロジェクト横断的に共有されているように感じた。

(他の見学者の何人かが他の木村松本建築と比較して「こなれた感じがする」と表現していたが、軽快な手つきがその言葉を引き出すのかもしれない)

いずれにせよ、この建築と現実のギャップが、House Oの「成立していないようで、ギリギリ建築になっている」感を作っている。

肉眼でみるフィジカルな建物は確かに、デザイン的に発散しているように見え、
フェティッシュなオブジェクトがエレメントのごとく離散的に配置されているように見えなくもない。
しかし、そのフィジカルな建物を通して裏側の、
いわば暗黙知の次元に、
理性と正当性を持った建築(線と面)が透けて見える。
線と面という仮想の「見立て」が虚構からそっと、現実の建物を建築へと押し上げる。
樹木の根が「建築=線と面」で、地上の幹・枝・葉・花が「現実=フィジカルな建物」とも言えるかもしれない。

例外的に土間周りの段差の作り方やスケール感は作りこまれている印象を受けた
下駄箱周辺に30mm前後の立ち上がりを設けているのは気が利いていて、個人的にはかなり好き

だからHouse Oは一つのルールがオーバードライブされた息苦しさもないし、
逆にてんでバラバラなものが集まっただけの不安定さや不安感もない。

ルールがもたらす安心感と整合性は虚構で担保し、
現実は気の利いた「手つき」とともに、軽やかに、かつ人間的に、繕われる。

04. 建築のリアリティとは?

リアルなオブジェクトの深み(実在性)を主張するグレアム・ハーマンを引用するまでもなく、
現実の圧倒的な情報量に人間のチンケな知能が耐えられない以上、
人間は
「現実をそれそのまま、ただただ見る」
ということは到底できない。

人間が現実をなんらかとして捉えた時点で、それは現実ではなく虚構にフッと浮かび上がるカタチであり、
常日頃人間は、
捉えきれない多様雑多な現実をその都度その都度、カタチとして「見立て」ることで、自身の至らない認識を補い、
なんとかかろうじて生き続けることができる。

つまり、現実を「線と面」として見立てる木村松本の設計手法は、
突飛な発想やあからさまな表現、もしくは自己満足のフェティッシュによるものではなく、
僕たちが現実に対して自覚なく、カジュアルに行なっている習性のようなものと本質的には同じもである。
ただし、普段何気なく行なっている習性を自覚し、厳選し、精密かつ継続的に実行することによって、
「線と面」の見立ては理性的な手法へと昇華し、
木村松本の建築を建築たらしめている
・・・と、House Oを見て感じた。

あるいは、
複雑すぎる現実に直接コミットできると自身の力能を過信し過ぎないこと、
もしくは複雑すぎる現実から潔く撤退することが、
木村松本の建築物に漂う、アソビやヨユウを作り上げているとも、言えるかもしれない。

05.「線と面」が人や環境と応答するとき

人によっては上述の建築と現実のギャップを「余白」と表現するかもしれないが、
僕はこの言葉が嫌いだ。
なぜなら、余白は一方で設計者がその部分への責任を放棄(上述の「放棄する手つき」とは異なる)する言葉にもなるし、
他方で、徹底して放棄することなんて、「現実をそれそのまま、ただただ見る」ことと同じぐらい不可能だと思っているからだ。

「放棄する手つき」もそうだが、「放棄」するということですら選択であり、余白とはいいがたい意図が介在する。

(もしくは「放棄する手つき」は僕の読みに反して、住み手の認識力をある程度見込んで余白のように繕うことを目的としているのか?)
(仮にもしそうだとしても、現実とは別の位相に「線と面」という建築的意図がある以上、この建築の空気感を余白と言ってしまっていいのか?)

広々と余裕をもった浴室にも、そのサイズを決めた意図が存在し
それに呼応する特定の行動や体験が発生する

だから僕は、木村松本の「線と面」の建築がそのように使われていくのか、その点にすごく興味がある。
現実を「線と面」というカタチへ見立てること、もしくはその見立てを成立させる「放棄する手つき」の作法が、
この建築に関わる人や、関係する物事・社会にどのように影響を及ぼすのか、
もしその仮説と検証をすることができれば、建築という知識体系を社会に生かすキッカケの一つにもなる。

筆者も、建築物のデザインと人の行動の関係性を分析している
(画像:商店建築連載「商業空間は公共性を持つか」(全23回))

残念ながら現段階の僕にはそれを予測する(木村松本の建築への)知識がないのだが、

願わくば、
「線と面」という見立て(アウトプット)が、人・物・事のふるまいにどのような影響を与えるのか、
いつか検証してみたいものだ。

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MACAP代表 西倉美祝
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