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TeXi's “Aventure”によせて(劇評)

まえがき

2022年12月21日~25日、北千住BUoYで上演されている“Aventure”の評を、こちらで公開します。

この公演、わたしはドラマトゥルクで入っているので、ある意味で、客観性を欠いた批評になっている可能性はあります。他方で、ドラマトゥルクとはいっても、戯曲の立ち上げ段階での文献調査・リサーチが中心で、なおかつ、わたしは劇団員でもないので、(戯曲ではなく)上演作品としての“Aventure”に対しては、ある程度の批評性は担保されていると思われます。
また、この評、および、ドラマトゥルクとしての参加に関して、劇団側から金銭的な対価を頂いているということは一切ありませんし、とくに依頼されて書いているというわけでもありません。だから、よくある、批評の体裁を取った宣伝の文章ではありません。
ただ、一個人として、芸術として興味深い点があると感じたので、自主的に書いています。(また、上演作品として客席に座って最後まで通して観たのは昨日が初めてなので、その意味でも、「客観的」です。)

ですので、ある種、(これは答えなどではなく、)いち観客の感想、もしくは、忌憚ない、批評の一つとしてご覧いただけましたら幸いです。
速報的な評で、学者風情が頓珍漢なことを言っていると呆れられる方もいらっしゃるかもしれませんが、ご笑覧ください。


TeXi's “Aventure”によせて(評)


小学校というのは、わたしたちが人生の原初的な体験として出会う、ジェンダー化、および、身体の画一化の装置である。
女性は赤の、男性は黒のランドセルを背負わされ、「体育」の授業では、(「前へ倣え」に象徴されるように)身体性の画一化が目指される。

そうした環境においては、画一的な二元論的図式に当てはまらない存在は、あたかも、なきもののように扱われてしまう。

TeXi's “Aventure”は、まさに、そうした小学校を舞台に、画一的な身体観=(本質主義に基づいた)二元論的な価値観を批判しながら、ジェンダーの問題を取り扱った作品である。とりわけ、三島由紀夫の『金閣寺』から強く影響を受けつつも、三島由紀夫に潜在していたミソジニー、および、演劇というメディアが構造的に孕んでしまう、「まなざしの暴力性」を描いた作品であるように、私は観た。

そこで、この評では、その公演のタイトルである“Aventure”が、フランス語で「火遊び」や「情事」を意味することになぞらえて、作品を「火遊び」と「情事」の二つのレイヤーから評してみたい。
そのことを通して、作品の持っている『金閣寺』と通底する問題意識/『金閣寺』に対する批判性、および、そこにジェンダー規範を撹乱する意図があるということを、順次、描き出してみよう。


まず、第一のレイヤーが、「火遊び」のレイヤーである。

三島由紀夫の『金閣寺』においては、主人公・溝口が、作品最終部において自身にとって「絶対的」なものとして現れていた「金閣寺」を焼却させたのだった。まさに、「火遊び」である。
この金閣寺を燃やした溝口の衝動と同様に、“Aventure”のなかには、絶対的なもの・他者を、滅却させてしまおうとする、子供であれば誰しもが持っている「絶対性」の破壊への衝動が、しばしば描き出されている。
作中で作られていた金ピカの泥団子は、やがて破壊されるべき金閣の象徴たるものだろう。


「絶対性」との関連において、とくに重要なのが、作中でしばしば言及される、「先生の不在」である。

この「先生の不在」こそ、三島由紀夫が近代日本社会を見て嘆いていた、「絶対性の不在」にほかならない。
三島由紀夫の戦略は、このような「絶対性の不在」への対抗策として、半ば人工的な絶対性としての「天皇制」を謳い、日本という共同体の保護を(最後には命を投げ出して)訴えたのだった。

いまの現代社会においても、「絶対性」は不在のままである。
それは、(三島が主張したような)「天皇の不在」と言えるかはさておき、少なくとも、ともに信じることのできる前提の不在、すなわち、「共同性の不在」とでも呼ぶべき事態である。

わたしたちは、共同性を失ったまま、現代の日本社会に放り出されている。とくに、テヅカをはじめ、90年代以降に生まれた世代はそうだろう。
人々は、この国に生きている限り、不安に苛まれ、時として、でっちあげられた「絶対性」へ屈服したくなる誘惑に駆られてしまう。
たとえば、作中で「先生のお葬式は学校のお金でやるんでしょう」という台詞があったが、これは、この夏にマスメディアを騒がせた「国葬」の問題に対するアイロニーであろう。

ここでは、「国葬」をアイロニカルに批判することを通して、「絶対性の不在」ゆえに「不安」になり、特定の政治家や国家を「絶対的なもの」として信じてしまうような心象が、批判されているのである。


このような、私たちの社会が抱えている不安は、作中後半の「手紙回し」のシーンにおいて、とくに顕在化していたように思う。
この「手紙回し」こそ、失われた共同性のモチーフとして機能している。(小学校で多くの人には経験があるかもしれないが)「手紙回し」がなされている間、同じ手紙を見ている人間は一人もいない。皆がくすくすと笑っているのは、私が知っている内容についてではなく、むしろ、私のことを笑っているのかもしれない。
周囲の人間と、建前上の「振る舞い」は合わせておきつつ、誰とも同じ景色を見ていることの実感が得られないのが、「手紙回し」の特徴である。

これこそ、いまの社会を覆う不安の正体であるように思う。
だれとも同じ景色を共有できないがゆえに、SNSなどで鬱憤を発散すると同時に、仲間も他者も信頼できず、不安になるのである。
たとえば、電車の中で他人が(「無敵の人」として)急にナイフを振り回し始めるかもしれないし、逆に、仲間と思っていた人間が、SNS上の「裏垢」で過激な主張を繰り返し始めるかもしれない(「無敵の存在」は当日パンフレットのなかでも、重要なものとして言及されていた)。

目の前に見えている景色が同じであるという実感が得られない社会であるがゆえに、人々は、永遠の不安に苛まれ、ときにでっちあげの「絶対性」へ屈服し、ときに弱者(とされた者)を攻撃しようとしてしまう。

じっさい、作中でも、誰かが亡くなった/生きているという認識が、登場人物の間でも異なる(がゆえに、口論になる)というシーンがあったが、この不条理さも、目の前に見えている景色の同一性(という共同性)を失った、私たちにとってのシンボルとして機能している。

公演の当日パンフレットには、「つながりを失いつつある人々は、他者や社会からのどんな視線も厭わなくなり、やがて、「無敵」の存在になってしまう」ということが書いてある。
このように、「絶対性」≒「共同性」を失ったことによる不安に駆動された人が、「無敵の存在」と化して、作中の水鉄砲に象徴されたように、人を殺めてしまうのが、今の社会だろう。

作中では、こうした不安から生み出された「無敵の存在」が、金閣寺という「絶対性」を燃やしてしまう溝口へと、重ね合わせられている。
これが、「火遊び」としての第一のレイヤーである。


第二のレイヤーは、フランス語における“Aventure”の二つ目の意味、すなわち、「色恋沙汰」のレイヤーである。

この「色恋沙汰」のレイヤーでは、「色恋沙汰」という言葉から想定されるような、男/女という構築された二元論的なジェンダー観や、眼差す者/眼差される者という、眼差しの暴力性の問題を、撹乱することが目指されている。

まず、『金閣寺』で三島由紀夫は、「覗き見る」という窃視の問題を、重奏的に取り上げていたのだった。とりわけ、蚊帳の中から、主人公の溝口とその父が、母と父の友人の浮気を目撃してしまうというシーンに、それは顕著である。蚊帳は、窃視のモチーフとして、『金閣寺』のなかで取り上げられている。

“Aventure”の上演においても、この蚊帳が用いられている。
舞台は、蚊帳に取り囲まれ、客席と舞台上との間は、上演中ほとんどずっと、蚊帳によって隔たれている。三島由紀夫が用いたのと同じように、「蚊帳」を窃視のモチーフとして機能させているのであれば、その窃視する側/される側は、すなわち、観客/俳優に対応するだろう。

そうだとすれば、ここで試みられている演出的な効果とは、このような、演劇の観客が不可避的に持ってしまう「まなざしの暴力性」への批判にほかならない。
ここには、客席/舞台という構造を持ってしまう演劇の構造自体に対する批判的なまなざしがある。

そして、重要なのは、この「まなざしの暴力性」の問題が、男/女という二元論の問題へとスライドされた上で、その二元論の撹乱が目指されているという点である。

まず、「まなざし」の問題は、「男/女」の問題へとスライドされる。
たとえば、「死んでもなおオカズにされる」という、度々反復される台詞は、『金閣寺』のなかで、(草むらの影から覗き見た)有為子の死の瞬間に対して、主人公の溝口が感じたカタルシスに対応するものだろう。
そこでは、「まなざし」の問題が「男/女」の問題へとスライドさせられており、そのことを通して、『金閣寺』から見出される、「まなざしの暴力性」に結びついた、(三島の)ミソジニーに対する批判が、まず試みられている。
(とくに『金閣寺』のなかで、三島は、女性をあくまで物象化されたものとして描いていたように思う。テヅカは、三島の、そうした潜在的なミソジニーを批判している。)


そして、この作品が優れた演劇作品たりえているのは、このような二元論的な軸にとどまって有害な「男性性」を攻撃するのではなく、それらを超えて、「まなざし」および「男/女」といった二元論的な価値観の撹乱が試みられていた点にある。

それを読み解くために重要なのが、作中でたびたび登場している「着替え」のシーンである。ここでは、頻繁な着替えを通して、ときに、appearanceが男性の俳優が、女性の(ものとしてジェンダー化された)服を着たりすることで、男/女というジェンダー規範の撹乱が試みられている。
台詞においても、女性の(ものとして理解されうる)被害経験を、appearanceが男性の俳優に発語させているし、ドラマツルギーのレベルにおいても、明確なストーリーの形を採用するのではなく、断片的な(私たちのものであり得た)記憶が詩的に紡がれていくことで、発語主体が撹乱され、だれが「当事者」であったのかが分からなくなっていく。

この作品では、まなざしの暴力性、および、男/女という二元論的な価値観、そして「当事者性」の撹乱が、試みられているのである。


このように、TeXi's Aventureでは、今の日本社会の構造的な問題点が、戦後三島が日本社会に見出した問題点に重ね合わせられて描き出された上で、一連の問題群がジェンダーをめぐる問題へとスライドされ、その二元論的な価値観への批判がなされている。

その点で、ジェンダー、および、多岐にわたる構造的な問題に直面している私たちが、いま、見るべき演劇作品であることには間違いがないように思う。


他方で、一点、あえて、気になる点を挙げるとすれば、男女二元論的な価値観の撹乱が明確に目指されているように感じた一方で、その撹乱自体に揺らぎがあったように思われる点である。

そもそもジェンダー化されている装置である「小学校」を舞台にしているから、これは仕方がない(つまり、作品の問題というより、学校教育の側の問題である)のかもしれないが、誰が、男性役/女性役なのかを、配役の時点から、より撹乱させてもよかったのではないかと思われた。
というのは、男性役を、appearanceが男性の俳優が演じているがゆえに、生物学的な性が男性であることと、ジェンダー的に男性であることの(社会の中で)規範的とされている結びつきが、観客に無批判に参照(かつ理解の道具立てとして利用)されてしまうように思われたからだ(もちろん、それ自体撹乱を試みられている場面をいくつかはあったのだが、基本的にはそのように見えた)。その点を、何がしかの演出効果(もしくは配役)によって、より撹乱させることも可能だったのではないかと思う。
そうでなかったとき、有害な「男性性」を、発話者の側で(おもにappearanceだけを参照して)「男性」と判断した人間に一方的に帰属させようとする、よくある差別的な(本質主義的な)言説に対して反論するだけの力が、少なくとも作品からは見出せなくなってしまうからである。(もちろん、これは作品の側だけの問題ではなく、社会の側の問題でもあるのだが)

こうした、撹乱することへの揺らぎは、当日パンフレットにも見出せたように思う。

実生活を生きていて、やはり圧倒的に女性は弱い存在です。
これまでに起こった多くの事件では、(もちろん、すべてではないにしても)加害の大半は女性を弱い存在とした価値観や行動によって、多くの女性が犠牲となっています。

とはいえ、加害を受けているのが女性だけではないし、また、私は男女二元論で物事を語りたくはないのですが,,,

当日パンフレットより

じつは、「男女二元論で物事を語りたくはない」という主張と、「女性の弱さ(犠牲)」という主張の間の揺らぎが、ここにはあるように思う。

もちろん、この揺らぎがあるからといって、作品自体が悪いということにはならない。何度も述べているように、この揺らぎ自体、社会的に構成された問題群によって、なかば意図せず、揺らがされたものだからである。(そもそも、揺らがずにこの問題を語るだけの語彙が、この社会にはない)

だから、むしろ、こうした揺らぎを引き受けながら、今後、どういう作品を作っていくのかが気になった点である。
今後も、継続的に観てみたいと思わせてくれる観劇体験だった。

鈴木南音


TeXi'sの“Aventure”は、北千住のBUoYで、12月25日まで。


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