同じ魔法にかかった

 フジファブリックの新曲「光あれ」を聴いた。なかなか感想がまとまらないが、今の時点で感じていることを書いておきたいので筆を執る。すこし感情的になりすぎる節があるかもしれないが、大目に見ていただけるとありがたい。

 昨年の大阪城ホールでのライブを終えた後、雑誌『音楽と人』のインタビューで「もっと新しい世界を見たい」「自分たちが驚くようなことをやっていかないと」「次にやるべきことは〈みんなの歌〉を唄うこと」だと話していたのが思い起こされるような曲だ。小林武史さんを初めてプロデューサーに迎えて作った曲であること、その上での曲のアレンジ、それから歌詞においても、バンドにとって、もっと新しい世界に向かうための大きなチャレンジだといえるものだろう。

 はじめに正直に言うと、わたし自身にはあまり好みのアレンジではなかった(とはいえこれは最初に聴いた時の印象で、何度か聴いているうちに慣れもあって少し変わってきたし、今後も変わるような気はする)。自分の感情から一歩引いて聴けば、90年代のポップスを思わせるようななつかしさがありつつ、フジファブリックの鳴らす音の個性も生きていて、メロディや歌声も引き立つ、とてもいいアレンジだとおもう。ただ、そのポップスらしさを持った曲というのを、たまにどうにも受け付けがたく感じることがある。これについてはなぜかよくわからないが、なんにせよわたし個人の問題なので今回はひとまずおいておく。

 そういうわけで最初は、まぶしい光がここかしこに反射する中を、目を細めながら進んでいくような心もちで聴いていった。けれども、目が慣れてきたあたりで、ああここに光源があったのか、と思うようなことばが飛び込んできた。

「同じ魔法にかかった 会えて嬉しかった」

 結論としては、この一行の歌詞をもって、わたしはこの曲を好きだと思うようになった。というのは、この曲が「みんなの歌」だというのを、ここを聴いた時に感じたから。

 先のインタビューに出てきた「みんなの歌を唄いたい」という話の中に、自分の伝えたいことから一歩踏み出して、誰かの気持ちと重なるような歌、人の心の中にある感情を歌いたいという発言もあった。つまりは、普遍的な感情、自分から伝えるだけでなくて、人との相互のつながりの中でみえてくるものを歌おうという試みなのかな、と考えながら記事を読んだ。
 これまでも、フジファブリックの曲には聴き手の記憶や感情を呼び起こすもの、普遍性をもったものが少なくなかったとおもう。季節と共に移ろう情景を歌った曲や、自分の心の奥深くまで潜って、潜って、そこにあったものをすべてさらけ出すような曲。それらはきわめて個人的な、その人固有の記憶や経験、思考に根差したものでありながら、むしろその固有性によって、普遍性をもった曲として昇華しているような気がする。いわゆる「四季盤」に感じる郷愁や切なさであったり、「若者のすべて」が毎年夏の終わりに多くの人に聴かれていたり、「CHRONICLE」や「LIFE」の楽曲がファンから愛されているのは、そういうことなのではないか、と。
 けれども、次に進むためには、そこからもう一歩踏み出さなくてはいけない。フジファブリックはそう考えているらしい。
 そうして、そのインタビューを読んだ後、わたしたちが最初に触れた新曲が、「光あれ」だった。それは、確かにこれまでの曲よりも「一歩踏み出した」ものだったと言っていいとおもう。

 「同じ魔法にかかった」ということばを自分なりに解釈せよと言われたら、わたしは「同じものを見て、聴いて、あるいは感じて、心動かされたこと、見える景色が変わるような、あるいは自分自身が何か変わるような経験をしたこと」だと答えるだろう。
 いちばん近い話で言えば「光あれ」という曲を知ったわたしというのは、それを知る前のわたしとはちがっている。フジファブリックの音楽を知る前のわたしというのは、それを知る前のわたしと同じではないし、それを知らなかった頃のわたしにまるっきり戻ってしまうということはできない。そう考えると、この「魔法」にかかるというのはなかなかのおおごとだ。
 「魔法」をかけるものは、バンドなら第一義的には音楽そのもの、あるいはライブの体験だとか、そういうことなのだろうけど、それに限ったものではない。ほかの芸術作品にしても、なにか美しい風景を見たときでも、誰かほかの人の言動が心に留まったときでも、なんでも「魔法」になりうる。そして「同じ魔法」にかかるというのは、それを共有する他者があって初めて成り立つ。
 それは、他者との関係において生活する中で、日々起こっているし、起こりうることだともいえる。

 そうして、その「魔法」を共有したこと、その瞬間に相手と同じ時間を生きたこと。それに気づき、感動するとき、「会えて嬉しかった」ということばは深い愛情と切実さをもったものとして聞こえてくる。「同じ魔法」にかかれたこと、それがあなただったこと、「わたし」と「あなた」との間で、それが起こったことへのよろこび。
 わたしはそれで、この曲が、これまでとはすこしちがった形の普遍性を持っているのかもしれないと思うようになったのだった。

 アルバム「CHRONICLE」の中の「バウムクーヘン」という曲で、志村正彦は「言葉では伝えられない 僕の心は臆病だな」と唄った。その5年後、山内総一郎は「LIFE」で「LOVE ME/言葉だけじゃどうも伝えきれないけど/LOVE YOU/少しでも君に届いたらいいな」と唄っていた。
 ずっと長いこと「伝えられない、けど伝えられたら」というようなことを(フロントマンが代わってもなお)歌っていたバンドが、「光あれ」では、そういう「わたし」の気持ちを「あなた」に伝えたいという一方通行の願いから一歩踏み出して、「わたし」と「あなた」が同じ魔法にかかったのだという、その一瞬の交わりを歌にしている。
 わたしはそれがなんだか嬉しいとおもった。

 何度も書くとくどいようだけれど、特別好みの曲調と言うわけではなくて、初めて聴いた時に手放しで「この曲すごく好きだな」とは言えなかった。けれども、そう言えない自分をやや腹立たしくおもうぐらいには、「光あれ」という曲は既になかなか強い魔法をかけてくれたらしい。

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