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隻手の声が聞こえたら:竹内康浩・朴舜起『謎ときサリンジャー』

 サリンジャーの小説について何か、単純な感想でも疑問でも、何かしら書いてみたいとずいぶん前から思っていた。

 この記事の最初の下書きを書き始めたのが実は2020年の5月、つまりもう1年半ほど前のことだったのだが、途中で迷子になって手が止まり、そのまますっかり忘れていた。
    それからまた今年の春先に『ナイン・ストーリー』を読み返し、この下書きを見返してそろそろ書き上げたほうがいい気がしたので改めて筆を執った。が、やはりうまくまとまらずに再び放置してしまったのだった。

  サリンジャー作品について何かしら書こうとしたいちばん最初の2020年の下書きで、私は次のように書いていたらしい(らしい、というのは、その下書きをまた今年の春に書き直そうとしたせいでこれが原形のままかどうかわからないからだが)。

 最初にサリンジャーの作品を読んだのは、村上春樹訳の『フラニーとズーイ』が出てすぐの頃だった。それから時間をおいて二度ほど読み返したことがあったと記憶している。その度に『私は話の3割ぐらいしかたぶん理解できていないな』と思うのに、最後の最後でなんとなく救われたような気がしてしまう、という妙な読後感を得ていた。最後に読んだのはいつだっただろうか。
 今回はというと、やはり3割ぐらいしかわからなかったなぁと思いながら、そしてやはり最後は、なぜかわからないが快晴の空を見上げるような心地で本を閉じた。

 なるほど、3割ぐらいしかわかっていない感想らしい。しかしほんとうに3割わかっているのかどうかも、全体がわからないのだからはっきりしない。

 粗筋を端的に言うなら、『フラニーとズーイ』は「周囲の人々のエゴ、そして自分自身のエゴに苦しむ大学生」である妹のフラニーを、その兄で俳優であるズーイが救い出すというような話だ。その過程でキリスト教的だったり東洋哲学だったり、宗教や信仰に関わる話が出てくる。始めに「わからなかった」という感想を持ったのはそれによるところも大きかったと思う。信仰の話は、「それに関する知識を持っている」ことと、「わかる」ことが必ずしも一致しないようなたぐいのものだろうから。

 だから、フラニーが抱いている悩みに共感するところはあれど、最後にフラニーが救われる過程がいまひとつわからないという感想にとどまっていたのだと思う。

  そんなこんなで放置されていたものになぜ今になってまた取りかかる気になったのかというと、『謎ときサリンジャー 「自殺」したのは誰なのか』という本を読んで、そうだここが引っかかっていたのだとようやく合点がいった気がしたからだ。

 先ほど挙げた『フラニーとズーイ』は、彼らグラス家の人々を描いたいわゆる「グラス家サーガ」と呼ばれている作品のひとつとして位置づけられる、らしい(また「らしい」と書いてしまったが、私は実のところそれほど熱心な読者ではないので、このあたりの知識は聞き齧りなのである)。

 グラス家サーガの最初の一作というのが長男シーモアを主人公にした「バナナフィッシュにうってつけの日」という短編で、この話はシーモアの拳銃自殺で幕を下ろす。なぜ彼が自殺したのかとか、この短編が描かんとすることが何なのか、様々な解釈があるようだ。

 おそらく一般的な読み方は、作中でほのめかされているシーモアの戦争体験とそれによる心理的な傷が鍵となっているとするものだろう。確かに何かしら説明をつけるとしたらそれが整合的だと思う。けれども、なんだか腑に落ちない。シーモアの死はもっと何か本質的なことに関わるものであるような気がする――というのが、サリンジャーの作品を読んでいて(さっきも書いたとおりあまり熱心な読者ではないが)引っかかっていたところだった。

 それに対して、そもそもあのラストシーンはほんとうにシーモアの自殺だったのか、という問いから出発しているのが先ほど挙げた『謎ときサリンジャー』。何せサブタイトルが「『自殺』したのは誰なのか」なのだからどきりとさせられる。

 この本によると、鍵になるのは因果律の否定と、時間というものの捉え方の転換、生者と死者の関わり方、それから『ナイン・ストーリーズ』の冒頭に掲げられている禅の公案だということになると思う。

両手の鳴る音は知る。
片手の鳴る音はいかに?
――禅の公案――

(『ナイン・ストーリーズ』より)

 片手の鳴る音、あるいは隻手の音とか隻手の声とも呼ばれるものが、結局のところ何なのか。これも私には今ひとつ飲み込めていなかった。

 『謎ときサリンジャー』ではそれを「両手の声」と言い直しているが、個人的には隻手の声はあくまで隻手の声というほうがしっくりくるので、ここでは引き続きそのように呼ぶことにしたい。

 「隻手の声」は、生者と死者が出会う瞬間に鳴り響くものである、というのが一応の答えだ。原語ではmeetという単語で言い表されている瞬間。

 ちなみにこの話に辿りつくまでに『謎ときサリンジャー』では作中の様々な描写や、シーモアとその弟バディーとの関係性などを取り上げてタイトルの通り「謎とき」をして見せている。その過程で出てくる「どちらか問題」(生者と死者の入れ替わり可能性というような話)だとか、「海のような時間」概念(過去から未来へと一直線に流れる不可逆な時間ではなく、過去も未来も現在と同じ平面にあるような時間)とそれに基づく死生観の話もしたいところだが、それは私にとってかなりのエネルギーを要すると思うのでまた改めて。

 今日のところは「隻手の声」についてだけ、もう少し書こうと思う。

 『謎ときサリンジャー』では、「バナナフィッシュにうってつけの日」で死ぬ人物は、まさにその銃声が響く瞬間まで、「シーモアでもバディーでもあり得た」とされている。引き金を引いたのは「シーモアでもあり、バディーでもあった」のであって、だからその銃声は片手の音ではなく両手の音だったのだ、というのがこの本で提示されている解釈の核になる。

 この両手の音の文脈で、サリンジャーの作品に出てくるビリヤードやビー玉遊びの描写が多く引用されている。

 ビリヤードでは2つの球がぶつかって、ひとつは盤上にとどまり、もうひとつが穴に落ちる。ビー玉遊びでも、2つのビー玉がぶつかって、ひとつがそこにとどまり、もうひとつが弾き出される。

 そのぶつかる音というのが両手の声(あるいは隻手の声)なのだという。入れ替わり可能である生者と死者の出会う(meet)瞬間に響く音。その一瞬の間、生と死の区別は無効なものになる。隻手の声を聞くというのは、直線的な時間の流れとともにある因果律や論理を離れて、その瞬間に立ち会うことかもしれない。

 『謎ときサリンジャー』で示されている解釈に従うと、「バナナフィッシュにうってつけの日」のラストでシーモアが死ぬことには整合的な理由といえるものはなく、『ハプワース16、1924年』という作品の中で幼少期のシーモア自身が予言していたことがただそのおりに起きた、ということになる。こう書くと運命論のように見えてしまうが、そこが要ではないように思う。

 サリンジャーはその後のグラス家の物語や、代表作にもなっている『ライ麦畑でつかまえて』の中で、弾き出されずにとどまった方のガラス玉についても描いている。要するに、とどまった生者の側が、死者にどう関わるべきかという問いに答えようとしていたのではないか。

 『謎ときサリンジャー』でも、かなりの紙幅を割いて、生者の側の話である『ライ麦畑でつかまえて』について論じている。そして、あくまでも生者と死者の関わり方というのは「つかまえる」のではなく「出会う」という形でなされ、その瞬間にもやはり隻手の音が響くとしている。

 だからこれは、死者と生き残った者とが再び新たな関係で結ばれるまでの物語であって、救いの物語として読めるということになるのだと思う。

 初めに挙げた『フラニーとズーイ』でも、フラニーの心境の変化にシーモアのことばが大きくかかわっているところを見ると、もしかしたら描かれていることは同じなのかもしれない(というのは今これを書きながら思いついただけなので、読み返してみないと何とも言えないが)。

 ところでこれは蛇足になるのだけれど、サリンジャーの作品を読んでいてBUMP OF CHICKENの「orbital period」の時期の歌詞とか、People In The Boxの「Ghost Apple」、「Family Record」あたりの曲を連想することがある。

 とはいえ単語の一致という程度のものでしかないのだが、前者でいうと、たとえば「カルマ」の歌詞。

ガラス玉ひとつ 落とされた 落ちた時 何か弾き出した
奪い取った場所で 光を浴びた
(中略)
ここに居るよ 確かに触れるよ
一人分の陽だまりに 僕らは居る

忘れないで いつだって呼んでるから 同じガラス玉の内側の方から
そうさ 必ず僕らは出会うだろう 沈めた理由に十字架を建てる時
約束は果たされる

僕らはひとつになる

(カルマ/BUMP OF CHICKEN)

 People In The Boxでは、連想する曲は色々あるのだけれど、今回の話でいうと「日曜日/浴室」の、誰のことばなのかが不明瞭なまま繰り広げられる会話だろうか。

「もういいかい?」
「まだだよ まだだよ」
「僕はずるをして もう一回生きてしまって」
「許せないよ だから、
わたしのいのちを、君にあげる
パンケーキみたいに切り分けて、あげる」

(日曜日/浴室/People In The Box)

 これが「隻手の声」を聞く瞬間だというのは少し無理があるかもしれないが、やはりここで描かれているのもある種の救いなのかもしれないと思う。

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