見出し画像

【民話ブログの民話】 一昨日のサーモン

 一見の客が店に入ってきてカウンター席に着いた途端に「サーモン下さい」と言った。昔ながらの江戸前の小さな寿司屋をずっと一人で切り盛りしてきた頑固親父は最近めっきり年を取り、それで余計に頑固になっているものだから、たちまち青筋をこめかみに浮かび上がらせ、その客をいきなり怒鳴りつけた。

「うちはそんな店じゃねえやい! 一昨日来やがれってんだ!」

 若い男の一見客は自分がどうして怒鳴られたのか分からない様子で、ただ親父をじっと見つめる。親父の方は年甲斐もなく一気に興奮したので、それがすぐには冷めず、ハアハアと息を吐いている。しばらく両者そのまま動かずにいたが、やがて客が席を立った。

「では、一昨日にまた来ます」
 去り際に一見客が残した言葉。それを聞いた親父は「なにいってやがんだ、あの野郎は」と口の中でモゴモゴと呟いた。

 一見の客は、きっと知らなかったのだ。
 江戸前の寿司屋でサーモンなど頼むものではない。たとえば回転寿司ではサーモンは人気のネタに違いないが、真っ当な江戸前の寿司屋ではサーモンなど扱わない。しかもこんな頑固親父の店で「サーモン下さい」なんていきなり注文したら、こういう事になる。

 そしてもう一つ、若い男の客が知らなかったのは、いまどき珍しい漫画みたいな古典的べらんめえ口調で親父が言い放った「一昨日来やがれ」という決まり文句。それはつまり「もう二度と来てくれるな」という意味の江戸っ子アイロニーなのだ。実際に「一昨日来る」なんて事は、時間を逆行でもしない限り不可能だ。

「……最近の奴は、江戸前ってのを分かっちゃいねえ」
 古びた寿司屋の親父はカウンターの中で一人、さっき起こした癇癪の余韻に浸りながら呟いた。

 あんな客は、自分の店にはいらない。長年守ってきた昔ながらの流儀、真っ正直な江戸前。所詮は客商売にしろ、それを理解してくれる人間しか相手にしたくなかった。いくら時代に取り残されようと、譲れないものは決して譲らない。これまでもそうやってきたし、これからも変わらないのだと、元々頑固な寿司職人は老いてますます頑固な思いを煮詰めていく……。


🍣


「へい、らっしゃい」
「……こんばんは」

 ところが、あの一見客はまたやって来たのだ。よっぽどサーモンが食いたかったのか、ほとんど日を空けずに親父の店を再び訪れた。……いや、「また」「再び」といった表現は厳密には正しくない。この若い男が親父の店を訪れたのは、これが最初なのだ。時系列的にはそうなる。

 つまり「一昨日来やがれ」と親父が怒鳴った二日前、その日から考えて一昨日となる現在。この一見客は親父の店を再び……ではなく、初めて訪れたのだ。

「また来ましたよ」
「また? ……ってえと、以前にもいらした事が」
 まじまじとその客の顔を眺めるが見覚えはなく、やはり一見だろうと親父は思うのだが「ええ。まだ二度目ですけど」なんて返事をしながら、客は迷いのない所作でカウンター席に座った。

 大変にややこしい話ではある。

 とにかく、その一見客は時間を跳躍あるいは逆行して、親父の放った「一昨日来やがれ」という言葉に馬鹿正直に従い、本当に「一昨日」やって来た。つまり、そういうわけだった。

「サーモンを下さい」
 そして二度目の来店ではあるが親父にとっては一見さんでもある客は開口一番に注文する。だがもちろん一昨日のこの時点でもサーモンなど仕入れていない。あくまで江戸前にこだわる昔気質な寿司屋としては「サーモンなんざ邪道」という信条はずっと変わらないわけで、
「てやんでい、一昨日来やがれ!」
 またも青筋浮かべて癇癪起こし、その一見客を怒鳴りつけて追い返す。
「では、また一昨日来ます」
 すると客は大人しく引き上げて、そこから更に二日前の「一昨日」またやって来る。

 そうやって繰り返し「一昨日」へと時間をさかのぼりつつ、一連のこのやり取りが延々と繰り返された。都内にある小さな寿司屋の店内で、このような時の螺旋が発生したのである。

「あ? ……あ、あ、あ、あ」
 たまらないのは親父だ。より正確に言えば、最初に「一昨日来やがれ」と言い放った時点の親父。怒鳴られた客が建て付けの悪くなった入り口の格子戸をガラガラと閉めて退散していった直後、親父の脳内の記憶領域には突如として「一昨日」の記憶が出現する。その記憶からはすぐにまた次の一昨日の記憶が連想……というか新たに生まれる。

「あ、あ、あああああああ……」
 もはや呻き声しか出ない。鍋の底からひっくり返されて、さらに煮え立つように記憶が次々あふれては吹きこぼれる。目は虚ろに見開かれ、口の端からは涎が垂れた。「サーモン」と「一昨日来やがれ」の連鎖が瞬間的に更新され続ける。その記憶の再生に脳内メモリをすっかり占有され、その場にただ立ち尽くしフリーズするしかない、哀れな頑固親父……。

 この親父は、知らなかったのだ。
 自分が怒鳴りつけた相手が、額面通りにしか言葉を受け取れない、ましてや江戸っ子の決まり文句、洒落た皮肉など微塵も理解しない、極端な性質の人間である事。それに加えて、自分の意思で自由に時間をさかのぼれる、人知を超えた能力の持ち主だという事を。

 親父は知らなかった。
 いや、知らなかったというより、そもそも認知のしようがない。

 この若い男は永遠の一見客にして、親父の店にとっては最も付き合いが古い常連客でもあった。もっともこの店の寿司を彼が食った事はまだ一度もないのだが。このようなSF的な存在、またそれによって引き起こされる事態を、一介の寿司屋の親父が認識不可能なのは当然である。しかし結果的にそれを知らなかった事、あるいはサーモンを仕入れていない事が罪となり、寿司屋の親父は永劫回帰のような罰を受けているのだった……!

「サーモンありますか」
「一昨日来やがれ」
「サーモン」
「一昨日」
「サーモン」「一昨日」「サーモン」「一昨日」「サーモン」「一昨日」「サーモン」「一昨日」「サーモン」「一昨日」「サーモン」「一昨日」「サーモン」「一昨日」「サーモン」「一昨日」「サーモン」「一昨日」「サーモン」「一昨日」「サーモン」「一昨日」「サーモン」「一昨日」「サーモン」「一昨日」「サーモン」「一昨日」「サーモン」「一昨日」「サーモン」「一昨日」「サーモン」「一昨日」「サーモン」「一昨日」「サーモン」「一昨日」「サーモン」「一昨日」「サーモン」「一昨日」……

「ああああああああああああああ……?」

 しかし果てしなく無限に思われるこの連鎖も、やがては一つの終点に辿り着こうとしていた。親父の古い記憶の中で、時の螺旋はようやくその先端、あるいは根源にまで達したのである。


🍣 🍣


 ガラガラ、ではなくカラカラと入り口の格子戸が軽やかに滑り、若い男の客が店にスッと入ってくる。

「へい、らっしゃい!」
 真新しいカウンターの中から、威勢のよい声をかける。

 どうも一見さんらしい。もっとも、いまは大抵の客が一見さんに違いねえやと店の親父……いや、親父と呼ぶにはまだ若く初々しい青年店主は思った。なにせ店を始めて、まだ三日と経っていないのだから。

「どうぞ、こちらへ、ずずずいっと。まずは何を握りやしょうか」
「それでは……」

 この一見客は、一昨日から一昨日へと何百回と繰り返し時を跳んで店を訪れた結果、とうとうそれ以上過去にさかのぼりようのない時点、つまり一昨日以前にはこの場所自体が存在しない、まだ開店したばかりの寿司屋に到達したのだった。

「サーモンお願いします」
「……サーモン、ですかい」
「はい。出来たら炙りで」

 江戸前寿司の店主としては正直「とんちんかんな客が来ちまったな。そんなもんある訳がねえや……」と内心苦々しく思ってはいるのだが、開店したてホヤホヤの店である。折角の客を無下には扱えないという思いもあり「サーモンていうと、やっぱりシャケの事ですかい」なんて念の為に確認する。

「そうですね。サーモンは鮭の事です」
「そいつあ……」
「やはり、ないですか」
「へえ。申し訳もありやせんが」
「そう、ですか……」

 さすがに落胆したような様子の一見客。これまで何度この店を訪れ何度サーモンを注文したのか分からない。その長い繰り返しの道程、そして結局はサーモンが食べられないという結末は、基本的に無表情な彼にも疲労の色を滲ませたようだ。
 そんな彼を見て、しばし思案顔をした後に、若い店主はボソリと言う。

「明後日」
「はい?」
「明後日くらいにまた、来てくださいやすかね」
「今度は、明後日ですか」
「築地でね、ひとつ仕入れてきやすんで」
「……分かりました。では、明後日にまた来ます」
「へい、お待ちしておりやす」

 そうして一見客は去り、今度はその日から二日後の明後日に店を訪れた。そして彼はとうとう念願のサーモンを口に入れたのだった。

サーモン握り


「……てなわけで、うちはあくまで江戸前なんですがね、むかーしからシャケはやってるんで」
「なるほど」

 そして時間軸は差し戻る。鍋の底から再度またひっくり返されたように親父の記憶はひっくり返ってかき乱され、開店当初のサーモンを巡るやり取りを起点に、倒されたドミノが逆再生で次々と立ち上がり、今度はそれが逆倒しに連鎖していく……そんなふうに事実もまたひっくり返った。

「ま、他所様からは邪道だなんだって言われた事はありやすがね、どうにも譲れませんよ。うちのシャケ握りは年季が違うんで」
「そうですね。とても美味しかった」

 この店は開店当初の客の要望に応え、本格的な江戸前でありながらも何十年も前からサーモンを握っている……そういう歴史に、すっかり改変されていた。よって一見客は親父にいきなり怒鳴られて追い返される事もなく、最初に注文した時点ですんなり出されたサーモン握りを無事食べ終り、それに対する親父の長年のこだわりを聞かされている。いまはそういう場面であった。

「ところで、お客さんはうちは初めて……でもないのかな?」
「ええ。一見ではありませんね」
「ですよね。どっか見覚えが……。でもおかしいなあ、お客の顔は忘れねえ方なんだが。すいやせん、どうにもよく思い出せねえ」
「いえ、無理もないと思いますよ」

 若い男の客は親父自慢のサーモンを食べて満足そうな表情を浮かべている。しかしまだ一品目である。いきなりサーモンにいったが、さて次は……。

「お次は、どういたしやしょう」
「そうですねえ。……鰻かなあ
「へ、鰻?」
「ええ。うなきゅう巻き、いただこうかと」

 頑固な江戸前寿司の親父のこめかみには青い血管が筋となって浮かび、細かく痙攣しはじめる。

「……ねえよ」
「はい?」
「そんなもん、ねえって言ってんだ。こちとら何年何十年ここで寿司屋やってると思ってやがんだ」
「それはよく知ってますが」

 サーモンと同じく、鰻は本式の江戸前では扱わないネタである。江戸前ならば、穴子だ。関西の方では鰻は定番のネタらしいが、そんな事はこの親父には関係がない。もう何度となく繰り返したが、この店は昔ながらの江戸前の寿司屋だった。

「鰻なんざ、置いてねえ!」
 親父はまた簡単に癇癪を起こした。

 ……うちはシャケこそ扱っちゃいるが、開店以来ずっと鰻なんざあ置いてない。舐めてもらっちゃ困るぜ、このとんちき野郎め。妙に腹立つ面ァしてやがんなと思ったら、ヌメヌメと鰻みてえだな、よく見りゃよお……。親父の頭の中で、いかにも江戸っ子めいた罵詈雑言が飽和していく。

「てめえみてえのは……」
 そして親父はまた客を怒鳴りつけてしまうのだ。

「一昨日来やがれ!」

「……分かりました。一昨日また来ます」

 自在に時をかける一見客はそう言って大人しく席を立ち、格子戸をガラガラと開け、後ろ手でまたガラガラ閉めて去っていった。昔気質な寿司屋の頑固親父はカウンターの中に一人残され……そしてまた、


おわり


以上は、築地の市場で長年働いていたという老人に飲み屋でたまたま隣り合い、採集した民話である。濃いめのハイボール何杯かで自分はすっかり酔っていて、その老人もまた相当に酔っている様子だった。醤油で煮しめたような赤茶けた顔の御老体から、このようなSF的小咄が出てきた事に自分は驚き、またひどく興奮した覚えがある。しかし「コレは正真正銘、神掛けてホントの話なんだけどヨ」と語る老人が実際どうやってこの話を知ったのかは大いに疑問であり、当時も疑念に思ってそれを本人に投げかけたはずなのだが、そこら辺の記憶はボヤッと曖昧、これはきっと誰かに時間軸を改変されたのだろうなと思っている……そんな民話でありました。

お読みいただき、ありがとうございます。他にも色々書いてます。スキやフォローにコメント、サポート、拡散、すべて歓迎。よろしく哀愁お願いします。