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川崎の道祖神

昨年末くらいに、勤め先が変わった。

そういうわけで毎朝電車に乗って、川崎まで通っている。

自分は仕事とか現実とか社会のゲシュタルトをすぐに見失うタイプの人間である。だから会社に毎日通うという生活はもちろん苦痛でしかない。

今の所は何とか勤まってはいるが、早くも限界が見えてきたような気もする。我ながら限界を見るのが、じつに早い。

さて、そんなことはさておいて。

川崎といえば、日本でも有数の工業地帯として有名である。

川崎の仄暗い空。
何百本もの煙突が天を突く剣山のようにそびえ立ち、モウモウとした黒煙が上空でとぐろを巻く。煙突の下には無計画に増殖を続けた工場群が、昼夜を問わずにフル稼働する。工場のベルトコンベアを流れる物体は一体何のために作られ、どんな製品のパーツとなるのか。それすら分からぬまま労働者はレーンに立ち、部品製造に従事するパーツと成り果てる。生存時間を労働に搾取され、定時あるいは残業後つかの間解き放たれる川崎製のパーツたちは裏町の歓楽街で酒色に浸りながら経年劣化。沼地のぬかるみで羽をたたみ、あるいは自ら羽をむしり取るような中毒症状に陥る。
それら事象をじっと見下ろす川崎の空は、いつもただ仄暗い。

……とまあ、これが川崎に対する自分のイメージであった。

このようなイメージをたとえば川崎出身者に伝えると「大げさな」と呆れられはするが、全面的に否定はしてこない。

きっと川崎のパブリックイメージである「飲む、打つ、買う」は、いまだ健在なのだろう。

最近では「ラゾーナ川崎」という商業施設なども出来て大いに賑わっているようだが、いっそのこと「ドローリ川崎」とかにして、この街の歴史をストリート暗黒ヒップホップ的に展示するコーナーとか設けたらどうかしら。なんて他所者の私が調子に乗ってまくし立てたりすると、さすがにちょっと顔をしかめたりする。やはり川崎の人は川崎にプライドを持っているらしい。それはまあ素晴らしいことだ。私の地元は埼玉の殺伐とした荒野で、たしかに私自身そこに愛憎入り交じるプライドを持っている。

郷土愛とは自分の歴史と郷土のそれとが混じり合って生まれるものかもしれない。混じり合い方は、それこそ人それぞれだろうが。

今日も、そして明日もきっと、川崎の空は仄暗い。
ああ褐色のオイルにまみれた男たちの、たくましくも女々しい前腕部。その静脈に突き刺される注射針の鈍いきらめき。
ああ代わる代わる訪れる男を待つ素振りで自ら引き込んでいる女の雄々しい上腕部。裏町のマリアはやり手ババアに成り代わり、また新しいマリアが処女懐胎する。
「されど生産せよ。生産すること自体が生産の目的であるのだから飽きることなく生産せよ。生産するしかないんだから。生産できるよ生産すれば」
今日も貸しビルの二階のスナックで、クレイジーケンバンドのような歌声を持つ川崎の神がマイク片手にメッセージソングフォー庶民。
永劫回帰にたなびく黒煙が、神話の怪物のように川崎の空を覆っている。だからいつも仄暗い。

こんなポエムを頭のなかでこねくり回しているうちに通勤電車は大きな鉄橋に差し掛かり、多摩川を渡る。

かつて、この川には流された。得体の知れない工業廃液と、得体の知れない鬼神に全身のチャクラを奪われ蛭児と化した赤ん坊。その憐れな蛭児はさる旧家の戸籍から除外された嫡男だというのが当時からの噂であった。奇跡的に生き延びた蛭児は欠落したチャクラを埋めるべく……。(『我が川崎』川崎短太郎 より抜粋)

私の偏見と妄想に呪われた朝焼けまぶしい川を渡ると、そこは川崎。もう都内ではない。彼岸の国、神奈川だ。そして降りた駅の構内にある喫茶店に入り、コーヒーを飲んでいる。それが現在である。

とにかく自分は満員電車というものが耐えられない。だから朝かなり早めに家を出て、出社までの時間をそこでつぶすのを日課としているのだ。

おっと待てよ。

これはよく考えてみたら、いわゆる「朝活」というやつではないか。そんな意識高めの習慣をいつの間にか身につけていた自分にすこし驚いてみせる。

しかし意識高めとは言っても、べつに語学習得や資格取得に向けて勉強したりしているわけではない。ただのんべんだらりと文庫本を読んでみたり、スマホをいじったり、こうして書き物をして曖昧に過ごしているだけなのだ。私には世間的な向上心というものがほとんど欠如している。しかし活動はしている。何のための活動なのかは自分でもよく分からない。でも活動はしている。それが生きるという事かもしれない。そうじゃないかもしれないが。

さて、この朝活タイムにおいて、ほぼ必ず顔を合わせる男女の二人組がいる。

じつは今回の記事は、彼らについてのレポートだったのだ。
(またつい前置きが長くなったけど、これが私のスタイルであります)

○●

その男女のことを、私はひそかに「川崎の道祖神」と呼んでいる。

道祖神とは、いまでも古い街道などに石像として残っている道案内の神様。必ず男女が対になって祀られているのが大きな特徴だ。

そして川崎の道祖神も、もちろん男女のペアである。

「川崎の道祖神」なんて呼んではいるが、別に彼らを信奉しているわけではない。まず第一に、決してありがたく尊い存在ではない。どちらかと言えば禍々しき事象にカテゴライズされる。

しかし姿が見えないと、それはそれで落ち着かない。なんとなく心配になったりする。

とりあえず今日はいつものポジション、ちょうど私と対角線上に向かいあうような奥の席に、二人仲良く並んで座っている。だから安心。ああ、ありがたや。いや別にやっぱりありがたくもないんだけど。

川崎道祖神の女性の方は、ひどいガラガラ声をしている。いかにも工業地帯のうらぶれスナックなんかで限りなく気さくな接客を展開してそうな、がらっぱちで小柄なおばさんである。

一方の男性は恰幅がよく上背もある、前期高齢者位のおじいさん。へんに間延びして甘えた声で、こっちの方もよくしゃべる。

まあとにかく、この二人がよくしゃべる。声のボリュームもやたらと大きい。まだ客のすくない朝の喫茶店に、いつも彼らの声が響き渡っている。どうやら彼らは夫婦者というわけではないらしい。この喫茶店か、他の店(あるいは、おばさんの勤めるスナックとか)で仲良くなった関係らしい。その二人が毎日、とにかくセットでよくしゃべるのだ。

イヤでも聞こえてくる話の内容は、芸能や政治に関するものが多い。それらは総じて昨今の世相に対する「全くどうしようもない。おそろしい世の中だよ」というような類型的批判、つまらない愚痴に終始する。あとは近所や職場の人間の悪口に噂話をエンドレスに垂れ流す。

まあ要するに、はたで聞いていて愉快な会話では決してない。

彼らの表情や口調、佇まいからは絶えずルサンチマンの黒い渦がオーラとなって放たれている。美輪明宏や江原啓之なら、きっと思い切り眉をひそめるんじゃないだろうか。

さわやかな朝活タイムに、これはもう全然ありがたくない。

でもそれが川崎の道祖神なのだ。

御利益としては、悟りに至らぬほどの諦念、つまり人生に対するぬるい絶望とか、そういうものが得られる。

道祖神本来の役割である「道標」的な御利益は期待できない。きっと逆に人生迷子になる。

しかし、これが川崎の道祖神なのである。
(繰り返して強調)

毎朝、割とうんざりしながら彼らの様子を観察しているうち、色々と見えてくるものがある。それから、さっきも書いた通り、姿が見えない日はちょっと心配にもなる。なんだかんだ愛着が出てきているのだろう。

たとえば川崎道祖神の、おばさんの方。
実際の所、彼女は人情味にあふれ、決して芯から嫌な人間ではないように思える。喫茶店のバイトともすっかり顔見知りで、なにかのお土産らしきものを手渡したりして、和やかに談笑してたりする。彼女のいかにも川崎というか下町ぽい情の深さを勝手に妄想しながら、私はブレンドをすする。

その一方で、おじいさんの方はやはりどうも性質が悪いように思える。
まずなんといっても声質がよくない。だらしなく間延びして、しゃがれかけた、じつに僻みっぽい口調だ。

彼の声を聞いていると、私はかつての入院生活を思い出す。病院の大部屋には、よくこんな声のおじいさんが入院していた。
このタイプの声を発する老人は、一見すると気さくで愛想がよいとも思われるのだが、やはり底意地が悪く、限りなくどこまでも利己的というのが個人的な見解としてある。長期入院している当人としてはもちろん大変つらい境遇には違いないのだろうが、そこで理性や人間性というものをあっさりと捨て去り、自己憐憫モンスターと化して暴れ回るのはいかがなものだろう。私だって同じような状態なのだから余計にそう思ったものだ。とにもかくにも、このタイプのじいさんは医師や看護師といった病院スタッフはもちろん、自分の身内にまで嫌われていることも多い。周りの人間は最初に同情するだけ余計にストレスを抱えることになる。悲しく殺伐とした現実がそこにある。

……って、なんでこんな毒を朝から吐いてしまったかというと、この類いのじいさんと何度か(それぞれ別人)同室になった記憶が、いまフラッシュバックしているからである。

ただでさえ辛く気が滅入る入院生活が余計にしんどくなったのは、あのとき同室のジジイどもが……なんて暗い過去を思い出して絶望的な気分になってくるのは、やはりこの道祖神ジジイの声を朝から浴びせられているからに違いない。

「政府はねえ、やっぱり年金を上げたらいいんだよ。とにかくもっと年金をさあ……」
「そうねえ。そうかもしれないわねえ。本当そうねえ」

ジジイはさっきから「年金あげろ」とずっと繰り返している。

いま現在リアルタイムで店内に響き渡っているルサンチマンVoice。その声質が呪われた私の過去を呼び覚まし、この朝を彩る。

「ほんとに年金がなあ……」
「ねえ、煙草吸いたくない?」
「よし吸おう」
「一本ちょうだい」
「あんた、いつもおれから貰うのな」
「そんなことないわよお。でもいいじゃないの、煙草くらいさあ」
「まあいいけどさあ。おれ年金あるから」
「いいわねえー」

そんな会話を楽しみながら、彼らは喫煙ルームに入っていく。
ガラスのドアに隔てられている空間から、それでも大きな声がまだ漏れ聞こえてくる。

「あー、煙草美味しい」
「うん。年金がもっとなあ……」

インスタント呪術フィールド。ジジイのリードボーカルと、それに適当な相づちや合いの手を入れるオババとの見事なコラボレーション。朝からたまらない場末感が漂っているチェーンの喫茶店。

「ねえねえ。今日そこのスーパーでサーロインステーキが100グラムで400円だってよ。これは買わなきゃ」
「それは安いの?」
「安いよ〜。絶対得だよ。肉うまいよお。あ、そうだ。隣の部屋のお婆さんにも電話して教えてあげよう!」
「へー。親切だね。よくそんな汚い婆さんと仲良くするね」
「何言ってるの、可哀想な人なんだよ。あの歳でひとりぼっちで……」
「ふーん、それで色々親切にして、何か貰えるわけ?」
「いや、そんな貰わないけど、細々とは……。まあ、お小遣い位だよ。でもそういう助け合いだから」
「へー。よくやるね、あんたも」

食べかけのホットドックが、私の目の前でみるみる萎えしぼんでいく。マスタードとケチャップの鮮やかな色が妙に毒々しい。いかにも不味そうに見えてくる。もう残りを食べる気はしない。ついさっきまで普通に美味かったモーニングセット。

「とにかく年金がもっとあればなあ。おれなんて若い頃あんなに……」
「そうねえ。そうねえ。そうねえ……」

きっと彼らは零落した道祖神なのだろう。

ジジイの工業廃液と僻みや恨みが入り混じった涙や涎を身体中ぬりたくられ、かつて菩薩だった彼女は苦海に身を落とし近所の独居老人から小遣いをせしめるババアになり隣のジジイからはタバコをタカる。さらに身を落としていく奈落の気配も漂わす。老いはじめた彼女の手を、すこし先に老いた彼が引いている。毎朝毎朝、耳元で妬みの汁が滲むようなしゃがれ声を聞かせ続ける。年金支給額が上がるまで無限地獄にそれを繰り返す。きっといつまでもサティスファクションしない。

でもそれはお互い様だとも言える。なんだってこの世の中はお互い様で出来ている。たとえば若い頃のジジイはこんな声ではなかったし、こんなつまらない事はしゃべらなかったかもしれない。粋でいなせな男振りだったかもしれない。彼もまた何かによって零落した。それは抗いようのない、あるいは抗う必要のないものだったのかもしれない。彼の手を引いているのは彼女の方かもしれない。かもしれないと言えば、なんだってかもしれないのだから。なんだってお互い様だと言えばそうなのだから。

「でもお互いのためにならないのなら、そうやってダラダラと一緒にいることはない。さっぱりと離れてしまえばいいのに」

まだ若いつもりの私は、そんな事を頭で呟く。

「でも離れたら、どうしたらいいのか分からない。寂しくて[わたし/おれ]死んでしまうじゃない。ニンゲンは、ひとりでは生きていけないもの」

ガラガラと乾いたオババの声が、あるいはしゃがれて湿ったジジイの声が、店を出る私のすぐ耳元でささやかれた気がした。

でもそれは私の心もまた病みかけているからだろう。この所の自分はまた病んでいる。それは今日もこれから会社に行って仕事をしなければならないからだ。ああもう出社時間じゃねえか、この野郎ちくしょう。なんで毎日あんな所に行って働かなきゃいけないんだ。今に見てろ。これが自分の呪いである。川崎の道祖神を横目に私はまた迷子になっている。それでは行ってきます。今日も皆さんお元気で。

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