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低級動物霊が憑いてる

 新藤のスマホにメールが入っていた。大学時代の友人、日暮からだ。しばらくメールアプリを立ち上げていなかったので、気づくのが遅くなった。もう二ヶ月以上前に受信したものだ。まず件名が目に飛び込んでくる。
『低級動物霊が憑いてる』
なんだこれは。
新藤は少し動揺した。ただの悪ふざけのような気もするが、その字面が不穏だ。とにかく内容を確認することにした。

『低級動物霊が憑いてる。
それも一匹や二匹ではない。もう何匹も。さながら動物園のような有様になっている。そして現在も進行形。ちょっと外出しただけでも次から次に憑いてくる。どうしたらよいのか分からない。でも彼女によると「取り憑いている」という表現は的確ではない。むしろ低級動物霊の集合体が僕という存在を形作っているのだという。彼女は巫女であり現代まで息づく呪術の継承者だ。その言葉に間違いはない。
つまり僕は低級動物霊なのだ。憑代である肉体に元来宿っていたであろう魂は、もはやないものになってしまった。有象無象の夾雑物を取り込み続けるうち、むしろ本体こそが夾雑物に、夾雑物こそが本体へと成り代わった。核心部分は雲散霧消した。いや、そもそも核などというものはなかった。枝葉に逸れて本旨を見失う。これも彼女に指摘された僕の気質である。しかし枝葉こそが樹木を形成する本質であると、言えないこともないような気もしないような気がしてきてる。
もう分からない。
いまも不穏な夜風に揺れる木々のように心はざわめいて、自分のものとも思えない声が頭に響く。それは遠吠えする病み犬のようであり、モニター越しの呪詛でもあり、または古びた釘を打つ音。とにもかくにも耳を澄ませども、聞こえるのは不吉なポリフォニーだ。
ああ、新藤。
そういえばお前はバフチンとか読んでたっけ? 僕は中途で断念だ。そういうわけで闇夜に黒々と、さらに色濃い影が浮かぶのは大きく赤い月のお陰なのだ。だからそろそろお終いだ。そうだ僕の脳はいますこぶる調子が悪い。六本木から都営大江戸線に乗るつもりが営団地下鉄日比谷線の改札をくぐっており慌てて引き返して大江戸線の改札に入り直したものの乗った電車は逆方向に走った。これを三日連続繰り返し、いよいよ悟った。
「あなたは向いてない。本当に向いていないね。なんでそんな所にいるの。どこを向いているの」
「どうしたらいいのだろう。どこを向いたら。一体どうしたら」
「光明真言を唱えなさい。それから辛いものでも食べなさい。少し汗をかいたらいい」
僕の問いに彼女は答える。駅地下で人々が絶え間なく行き交っていた。歩く歩く歩く歩く歩く登る登る降りる曲がる歩く歩く繰り返して死ぬ有象無象。
そして取り憑かれる』

 本文を読んで、新藤はさらに動揺した。意味が分からない。しかし考えてみれば、いかにもこんな文章を書きそうな奴ではあった。新藤と日暮はともに文学部にいた。あの頃は皆、過剰な自意識を持て余していた。それにしたって、なんだって突然こんなものを送ってきたのか。やはり心配にはなる。
日暮からのメールはまだ続きがあった。新藤は次を開く。

『前回からの続きです。
さて、なかでも一際に目立っていて、その存在を誇示することが頻繁である私の主たる動物霊、それはイタチ。父方の親族は代々で足立区に住んでおり、男たちは誰もがイタチ憑きなのです。
数年前の法事でのこと。居並んだ親族の顔を見回していると、叔父や従兄弟たちの目つきの異様さに気がつきました。彼らの目は常に大きく見開かれ、爛々と光っています。特に酒に酔っているわけでも、興奮している様子でもない。どうやら平素からその状態らしいのです。それはまさに「目を剥く」という表現がしっくりくるようなものでした。
その「剥かれた目」には見覚えがありました。父です。普段は温厚だった父が突如として怒り出し私や姉を打擲した、そのときの目とそっくり同じなのです。
会場に用意されていた黒い縁取りの額に入った写真。黒縁の眼鏡をかけた父がそこで静かに笑みを浮かべています。その目はいまとても穏やかで、なるほど親族で唯一の大学出であり法科を修めたインテリの父らしいものです。
……けれど時折見せたあの表情、あの目。いまから考えれば、あれは憑きものの仕業でした。父もやはり呪われた一族の男です。努力して積み重ねた教養や強い理性によって蓋されていても、ふとした切掛でその本性が剥き出しになってしまう。
数年ぶりに顔を合わせた血族の男たちは、みな悉く獰猛な獣性をその目に宿していました。その年齢になってみて、私は自らの出自を思い知ったのでした。
「……イタチ憑き」
思わず私が呟くと、傍らで喪服の母がそれに応えました。
「この頃、あなたもあれと同じ目をする。それが恐ろしい」
「よくないよ。気をつけて」
母の言葉に姉も同調します。私の目の奥を覗き込むようにして。』

 メールを読むのを一旦止めて、新藤は考える。前回から極端に文体を変えてきたのは一体。急にですます調になって、なにを意識しているのか。

『その数年後、おれは病室にいた。入院生活は半年以上続いていた。もう耐えられなかった。病院食がとても不味い。自分は死にそうになっていて、それが最後の食事になるかもしれない。なのに毎日ほぼ強制的に不味い飯を食わされている。ふざけるな。そこから堰を切ったように不平不満が一気に溢れ出した。
味気ないパサついた鶏のソテー、その下でぺしゃんこになっているピーマン、付け合わせの人参グラッセの気持ち悪い甘味。それから年配看護婦の粗略な振る舞いもいちいち癇にさわる。融通の利かない病院の管理システム、そして心通わぬ医師の休憩上がりにヤニ臭い口元の締まり……etc。
要は鬱屈とした己の状況そのものを嫌悪して、おれは罵詈雑言を吐き続けた。立て板に水、急勾配の流し素麺のような呪詛の言葉は救いようがなく、個室のベッドに滞積して臭気を放った。なにもかも、自分自身を含めたすべてが気に食わぬ。意に沿わぬ。おれは憤怒した。罵声にはいつしか血痰入り混じり、臓腑から湧き上がる黒い感情にこの身を任せる。その昂りによって、おれの眼は大きく見開かれていく。すっかり引き剥かれそうなほどに。
「ほうれ、その目。その目じゃ。いまにイタチが出るぞえええ」
傍らの母はこれまでの看病疲れで一気に老け込んでおり、陰鬱な旧家の老婆みたいに恐れおののく。
「いやイタチだけでない。その忌むべき舌先、執念深き業の毒。ああまるでお前は蛇蝎の如き。ああ、この子は。ああ、これは……」
さらに老母がなにかを言いかけたとき、黒鳥が窓ガラスを割って病室に飛び込んできた。そしてベット脇のテレビに止まり「カァ!」と一声鳴く。信じられないくらい巨大なワタリガラス。それがエドガー・アラン・ポーの大鴉だということは、すぐに気がついた。不穏を告げる象徴だ。おれを飲み込もうと、大鴉は恐ろしく鋭いクチバシを大きく開いた。
「出よった、黒鳥までも出でよりんした」
そう叫んでから母は一心不乱に念仏を唱えはじめる。
「この流れに身を委ねてしまいなさい。もう仕方がないのです」
巫女装束の姉が部屋に入ってくるなり言った。そして大幣を振り回す。するとおれの身体に繋がった点滴の管が大きくうねり出し、やがて一匹の大蛇へと姿を変えた。
間もなくして、大鴉と大蛇は凄惨な争いをはじめる。老いた母は地に伏してエルサレムに祈りを捧げ、さらにはアメイジング・グレイスを歌う。姉の唱える祝詞、光明真言もそこにシンフォニー。すっかり人外魔獣のバトルフィールドと化した病室、そこに流れるバックグランドミュージック。
「なんなんだよおおお、これはああああ! ざっけんじゃねえええ!!」
その阿鼻叫喚にあって、内なる獣性は完全に剥き出された。そして脊椎の後ろを食い破って、血族の憑神たるイタチがついに顕現した。
獰猛な大イタチは甲高い威嚇の叫びを上げ、組んずほぐれつ喰らい合う大鴉と大蛇に向かって躍りかかっていく。
その三匹の争いに、決着が着くことはなかった。血みどろの闘争の末、傷つき疲弊した三匹はヤクザ組織のように手打ちを固めたらしく、まとめておれの身体に飛び込んできた。その三匹に便乗するように、そこかしこから得体の知れぬ有象無象の魑魅魍魎までもが入り込む。おれの内部は無法地帯、彼らにとっては解放区となったのだった。
結果として、おれの容体は快方に向かった。憑きものたちは最も強大な三匹を中心に軍勢となり、さながら三国志のような状態で群雄割拠。やがて完全な膠着状態に陥った。呪力の拮抗により病は追い出され、宿主であるおれは九死に一生を得た。そうして現実は物語のように書き換えられた。老婆のようだった母は年相応の姿に戻り、亡くなったはずの父はそもそも死んでなどいなかった。姉はいずこかへ姿を消した。
これは現実のようなフィクション、またはその逆だ。どちらにしてもおれは憑かれている。それだけは間違いない。』

 今度は能力バトルとか、ジョジョのスタンドバトルみたいな話に転調したようだ。やはり意味が分からない。しかし新藤はそのメールを読んでいるうち、最近借りた本の内容を思い出していた。

小松和彦著『憑霊信仰論』

 タイトルに引かれて図書館で借りたのだが、期待に違わず面白く読めた。憑きものというのは説明体系なのだという。村落など共同体のなかで「限られた富」の分配を巡る理由付けに機能する。例えば「隣村が栄えたのはクダギツネを使っているから」「あの家が急に没落したのは狗神憑きの祟りだ」というように。
新藤には、本の内容と日暮のメールがリンクしているように思えてきた。「憑きもの」という表現を持って、奴はなにかを語ろうとしている。数年前に日暮が大病したことは聞き及んでいた。そんな己の状況を「憑きもの」というタームで説明しているのかもしれない。

『「そうして調和がとれた」って彼女が説明してくれた。巫女から呪術師にメタモルフォーゼした姉とは数ヶ月前、三〇分二万五千円の密室空間、新宿の性風俗店を兼ねた託宣場で運命的な再会を果たした。いまは客と嬢の関係、また姉と弟の血縁すら超えて、すっかりマイスイート。同伴出勤は何度もしている。
「憑かれる、取り込む、喰らい合う、混ざり合う、そして排出する。その経過のなかで、あなたはバランスを取ってきた。いまや数多の低級動物霊を取り込み続け、もはやその集合体としての存在に成り果てた」
彼女はそのように言う。だから僕はさしずめ歩く低級動物霊園だ。』

 メールはこれで最後だった。ここに来てまたテンションが変わった。
日暮の彼女とは何者か。まず、その女が怪しい。新藤はそう考えた。これまでのメールも総合して考えてみるに文中で「姉」または「恋人」として登場する女、その存在が問題なことは確かだ。取り憑いているのは大鴉に大蛇、イタチなどではなく、彼女なのではないか。
そもそも日暮に姉などいたのか。一人っ子だと言っていたような気がする。もし本当に姉を恋人としたのなら、それはそれで大いに問題がある。民俗学めいた近親相姦。いかにも日暮の好みそうな設定だ。だからこれは嘘くさい。しかし現実の事象がどのようなものであれ、メールから感じとれる日暮の心象風景は病んでいる。心象こそがその人間を規定する。ある位相において現実はそれに隷属するのだ。日暮のメールにもそのような旨の記述があった。だが奴は肝心な認識を狂わされている。その女によって。そしてまた解釈を女に委ねる。だから自分をさらに見失う。
つまり彼の病める心象世界を支配しているのは、巫女であり呪術師でもあると自称する、その女なのだ。彼女こそが彼を狂気に陥らせている「憑きもの」に他ならない。
……よし。その憑きもの、おれが落としてやろう。
新藤はそう決心して電話をかけた。

「なんだ新藤か。どうした」
予想に反して、あっさりと日暮は電話に出た。声の調子もごく普通で、新藤は拍子抜けした。「……メール、送ってきただろう」
「メール?」
「いま霊的におかしなことになってるんだろう。憑きもので。でもそれはお前が考えてるような低級動物霊とかじゃなく」
「ああ、あれか。なんか送ったかも。ちょっと病んでたな。時期的にも。それで気晴らしにメール打ったんだっけ。面白かった?」
「いや、お前は間違いなく憑かれてる。ここはプロに任せろ。いまからおれ」
「そうだな。たしかに疲れてた。いまだって、まあまあ疲れてる。このところ残業続きだ。おれ就職したんだよ」
「えっ」
「話せば長いけど、年上の彼女が出来た。で、まともに働こうと。まあ年齢的にもな。それで職探しって病むのな。結局なんとかなったけど」
「いやだってお前」
「新藤はまだニートか? おれらの周りでいまだにフラフラしてんの、もうお前くらいじゃねえの」
日暮の言う通りの状況だった。新藤は動揺した。
「せめてバイトくらいしろって。……そろそろ社会的にヤバいぞ、お前」
「いや日暮お前はやはり憑かれてるそれは例えばその『社会』という曖昧な同調圧力も一種の『憑きもの』と言えるしお前の年上の彼女だって現実には」
「あ、昼休み終わるわ。じゃあ」

 それで電話は切れた。新藤は実家の部屋でしばらくそのまま固まった。とりあえず煙草に火を点けて気を落ち着けることにする。
三日前に祖母の家の庭仕事を手伝って小遣いを貰っていた。だから差し当たって日銭には困らない。愛用のギターを手に取ってお気に入りのフレーズを軽く弾いてみる。ギブソンのレスポール。かなり値が張った。学生の頃にコンビニの夜勤で貯めた金で買った。買っておいて良かった。そのバイトも随分前に辞めてしまった。最近は他人や社会と関わることが基本的にない。その現実を改めて突きつけられた。いきなり。とても無遠慮に。
……あいつはなんなのだ。心配で電話してやったのに。やはり日暮は取り憑かれたに違いない。それは『社会』という実態のない概念であり、また年上の彼女という形象の『女性』というアニマでそれはおれにおれにはとても女それはしかし女ああ女……。新藤は高学歴ニートであり、さらに童貞でもあった。とにかく相当に色々と拗らせている。
しかしそんな新藤だからこそ『憑きもの落とし』も現実に可能だった。社会から切り離され、人々に蔑まれる『ニート』という存在は異界との狭間で生きている。怪異に触れて狂気を飼い殺す。ニートであるが故に本質を見抜く。神秘と親和する。また肉体的に純潔を通すことで身体に宿る呪力も高まっていくのだ。
……そうだ、おれこそが能力者。新藤はそこを起点にして自信を呼び戻し、なんとか自我の統一を保った。そして決心する。
これからは『異界探偵』という肩書きで活動していこう。
オカルトの知識は豊富にある。いつも暇だから、そういうサイトを幾つも巡っている。そして実体験にも事欠かない。ニートには怪談がよく似合う。そういうことだ。さらに今後はスピリチュアル方面への展開も視野に入れる。差し当たって日暮にはもう一度くらい忠告してやらんでもない。奴とも古い付き合いだ。どうにか救ってやりたい気持ちがある。しかし憑かれている本人が幸せだというならば、それはそれでいいような気もする。
しかし考えているうちに新藤はすべてが面倒になってきて、その日はもう寝てしまうことにした。

——こうしてニート新藤は異界へと招かれる。
この「異界探偵ニート」シリーズはなんと次回へ続く予定もある。

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