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2020年春の出来事

墨田区に住んでいた。イタリアから来て日本橋のレストランで働いていたパートナーのダニーロが、自転車圏内で通える立地という条件でみつけた小さなアパートに私が転がり込んで、2年半ほど同棲した。

2019年の春からダニーロの紹介で私も接客業に従事することになった。その同じ春にダニーロは国に帰ってしまったが、翌年の5月には私もレストランの仕事を辞めて、イタリアに行って結婚するのがプランだった。

私は一人暮らしの気ままさと正社員雇用という安心のもと、接客業は私の性格に合っていたようで、楽しく働いていた。飲食業特有の激務は年齢的に正直キツかったけれど、あまりに忙しくてダニーロと離れても寂しくなかった。

ダニーロがいない一人の生活になってから、オフの日は近所の小さなピザ屋で遅いランチを食べることが習慣になった。イタリア仕込みかと思うほど生地が美味しいピザ屋だった。3回通ったあたりで、シャイでくちべたそうな店主が話しかけてくれるようになって、週に一度はピザを食べて少しだけ雑談をして帰った。

大江戸線の駅前には桜の樹が植えてあって、接客業だと忙しくてロクに花見もできないのでそもそもあきらめていたけれど、仕事が終わって深夜に最寄の駅に戻ると迎えてくれる夜桜をしばし眺めた。2020年の春だった。

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コロナが流行りだした2月はまだシリアスじゃなかったが、キャンセルの電話がぽつぽつと増え始めた。それでも私たちは、少しの間をしのげばインフルエンザみたいに去ってしまう流行だと思っていた。

しかし、まず春以降に入っていた団体の予約からどんどんキャンセルになり、3月に入ると予約台帳はキャンセルの二重線だらけになった。店を開けてはいるけれど、予約がランチ1件、ディナー0件みたいな日ばかりになって、私たちは床を磨いたり窓を拭いたりするしかなかった。調理場も掃除をしすぎてピカピカになっていた。私は予約の管理をする仕事をしていたのだが、キャンセルの電話が入るたびに調理場にある予約台帳に二重線を引きに行くと、予約台帳がほとんど二重線で消されて真っ黒だった。

5月に退職してイタリアに行く予定も、雲行きが怪しくなった。コロナ感染が爆発的に拡大している北イタリアに、果たして5月に飛べるのか。退職予定は職場に伝えてはいたけれど、時期を延長してもらえないか、上司に掛け合った。

3月29日は雪が降った。

志村けんさんがコロナで亡くなって、職場で話題になった。都知事の会見があって、外食を控えるようにとのお触れがあり、いよいよ私たちはどうなるんだろうという雰囲気が濃厚になったところで、突然、本社のお偉いさんがレストランに来た。私は個室に呼び出されて、「店がこういう状況なので、休業をお願いしたい」と頭を下げられた。「本来、あなたみたいに退職予定のある人は早期退職をお願いしているのですが、コロナでイタリアにすぐ行けるかどうかわからないというあなたの状況を鑑みて、休業ということにさせて頂きます」ということだった。退職予定だった5月末までは休業扱い。休業中は何割か休業補償がもらえるけれども、生活していける額には全然達していない。

感染が拡大しているイタリアに行ける見通しもないので、事態が落ち着いたら職場復帰させてもらえないかとかけあってみたが、職場復帰は約束できないとのことだった。

シフトで4月4日が休みだったので、実質4月3日が私の最終出勤日になった。気持ちが追いつかないまま、綺麗な黄色い花束をもらって私は職場を去った。

私が休業に入ったその翌日に、他のスタッフにも休業に立候補するよう本社から募集が入ったとのことだった。

しかしさらにそれから数日後、上司から電話があって「休業ということにしてもらってたけど、他店舗も軒並み休業で、全社員に休業補償を出せないので、社員全員、会社都合の解雇になる。その話が幹部から直接あるので4月10日に本社に出向いてくれ」と告げられた。4月10日、入社手続き以来の本社にいくと、職場のいつものメンバーが見慣れない私服で所在なさげに集まっていた。会社都合であれば失業保険がすぐに出る。会社のせめてものはからいだった。

社員全員が解雇になった。
私は埼玉の実家に戻ることにした。

海外生活が長くて百戦錬磨の職場の仲間の一人は、もう単発バイトの登録をしたとアッサリ言って「これはただの会社の一時的な処置だから、また呼ばれれば職場に戻るよ」とサッパリしていた。5月の退職予定を伝えてしまっていた私は、少しでも人件費を削減したい職場にもう戻れる見込みもなさそうなので、両国のアパートを引き払うことにした。

仕事がなくなって、ただ家にいるしかなくなった私は、毎日をどう過ごしていたのかよく覚えていない。

4月も後半になると、3年半住んだ小さなアパートはゆっくりと解体されていった。ダニーロと買ったクイーンサイズのベッドや家具、私の勉強机でもあり、ダニーロの握ったお寿司やイタリア仕込みのパスタを食べたり口論したり電卓を叩きながら割り勘の計算を一緒にしたテーブルと椅子を友達にタダであげてしまってからは、がらんとした部屋の床に布団を敷いて寝た。急に広々としてしまった眠れない部屋にラジオが響いて、岡村さんが失言を謝罪している。私は気が狂わないようにひたすら絵を描いた。

深夜の仕事帰りにお腹が空くので24時間営業のスーパーに寄って買ったマカロニサラダやカマンベールチーズをいつも入れていた小さな冷蔵庫と、私たちの服を何度も洗った洗濯機が最後だった。退去の日ぎりぎりにタダで引き取ってくれる人に渡して、アパートは本当にまっさらになってしまった。声がよく響くので、私はaikoのカブトムシを何度も何度もうまくなるまで大声で歌った。

端的に言って、私の生活の全てだった仕事場から急に引き離されてしまった喪失感と哀しみと、気持ちがついてゆかないまま部屋の、生活の形態をどんどん自ら壊していかざるを得ないことに耐えられなかった。

嫌な奴も性格が歪んだ奴もいたし、昭和な頭の上司もしんどかったけれど好きな職場だった。私にとっては初めての飲食業勤務だったけれど(学生時代のアルバイトをのぞいて)、運よく職場の仲間にも恵まれて、職場に行けば心躍る憧れの人もいて、私は働くことが楽しかった。新しいことを覚えるのは楽しかったし、15以上も年が下の男の子からも学ぶことがたくさんあった。お客様の表情で気持ちがわかることとか、海外から来たお客様に日本の接客で喜んで頂きたいと思う気持ちとか、お店を素敵に見せる工夫とか。
嫌なことも沢山あったけれど、かなり遅ればせながら、自分が楽しく働ける職種に出会えた職場だった。

5月2日に退去予定だったのに、電気を止める手続きの時に日付を間違えて伝えたせいで、最後の夜は、真っ暗な部屋で過ごすことになった。何もなくなってしまった部屋を懐中電灯で灯して、深夜に親友と電話で話した。職場で憧れてた人(っつーかあれは恋だったな)の話とか、人生の話とか、私の退職劇の話とか。整理のつかない気持ちを溢れるように話した。ゆっくりと夜が明けてついに朝が来て、窓から5月の風が吹いたとき、もう季節がすっかり変わったように感じた。両国を歩くのもこれで最後かと思いながら、一睡もしないまま朝マックを買いに出た。


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あれからもう9ヶ月も経つのに、気持ちの整理がまだついていない自分がいたようだ。ちゃんと過去にしないと前に進めなかったみたい。

ただ時間の流れだけでは葬れなかった思いがあったみたい。死んだのにまだわからなくて両国をさまよっている魂みたいに。

こうやって書いて、噛みしめることでしか過去にできなかったんだろう。

時間かかったね。

さよなら。
さて、次に進まなきゃ。

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