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自分の子どもを「かわいい」と思えてほんとうによかった


*下書きにあったやつです。いつ書いたんだろう。体裁を整えて公開。


さいきん、子どもがかわいい。毎日子どもに「おまえはかわいいねえ」って言ってしまうし、子どもの寝顔を見ながら家族と「うちの子は実にかわいい、控えめに言って天使、いや間違ってうちだけ天使が授かったんじゃない?」って言いあってる。わりとマジで。それくらい、親ばかになってる。

正直、子どもを授かった時、子どもがかわいいとおもえるか不安だった。もともと、子ども自体にそんなに興味はなかった。子どもを作ったのは、次の世代に引き継いでいくべき遺産がある上、配偶者の優秀な遺伝子はこの世に残したいと漠然と思ったからだ。

世の中には自分の子どもをかわいいと思えなくて肉体的虐待、精神的虐待、自尊心を認めない、などなどの展開を我が子に繰り広げる、という親の事例が多々報告されている。自分がそうならない自信はなかった。

自分は世の中のマジョリティから離れている方だという認識がある。留学先の選択肢に、マレーシアかオーストラリアがあったらマレーシアを選んだし、木村拓哉とえなりかずきだったらえなりかずきのほう好きだった。世の中のマジョリティが「自分の子どもをかわいく思う」だとして、自分もそっち側にいけるのか、自信がなかった。

(「自分が自分の自信がない」というと親との関係を聞かれるのだが、自分の両親との関係は良好だ。ただ、幼年期、いまの基準でいうと、肉体的な虐待ゾーンすれすれの折檻を受けていたと思う。実行者の父も「あれは今でいうと虐待っていわれてしまうだろうな」とつぶやいていた。生育環境に関係なく、自分の子どもがかわいいと思えない人は、いる。)

世の中の毒親には、子どもがかわいくて毒親になるタイプと、子どもがかわいくなくて毒親になるタイプがいる。子どもがかわいくて毒親になったタイプの人は、子育てしているときに毒親なんて言葉はなかったはずで、まさかそのように後ろ指さされるようになるとは思わなかったと思う。

今は子どもにとって良かれと思っていることも、後年になって虐待という基準に入ってくるかもしれない。そういう怖さはある。「子どもにかわいいかわいいという→子どもを自意識過剰にさせる、精神的虐待だ」という流れがいつきてもおかしくない、と思うのは私がひねくれているのだろうか。

まあともかく、私は「自分の子どもが可愛いと思えてよかった」。それは、「自分がマジョリティである」という安心感と、単純な子供の愛しさと両方ある。

じゃあ、「自分の子どもを可愛いと思えない人」はどうすればいいか。今は自分のことしか考えられないけど、その人と子どもにとっていいような仕組みなりを作る方法を、そのうち考えていければなあ。


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