本当の救いとは?自分を大切にする大切さとは?

誰も助けてくれない。
仲間なんて要らない。
味方なんて必要ない。

私はこの世界が嫌いだ。
私を"可哀想な人"にした、この世界が…自分が嫌いだ。

よく、アニメでは敵だけど浄化されて救われるシーンがある。
それは、「辛い思いをして(または洗脳されて)闇堕ちしてしまったキャラ」であることが多い。
私は毎回それを見ては感動して「よかったね」と思っていた。
なんだか「救われない自分の代わりに、あのキャラが救われたんだ」と投影していた部分も多い。

けれど、やっと気付いた。
それは、誤魔化しだったのだと。
キャラが救われても、私が救われている訳では無い。

私は人に「浄化」して貰いたかった。
自分が良くない方向に汚れてきたこと…闇堕ちしてきたことに気付いていたから。
誰かに、辛い思いをして積み重なって受け入れてしまった「不幸な常識」を崩して、光を与えてほしかった。
そして、「浄化」されたかった。

けれど、現実にはそんな自分を救ってくれる人なんていない。
皆自分のことで精一杯で、私のような傷付いて来た人は「自己憐憫」に陥っていると思われ、「救いようのない人」「関わらない方がいい人」と邪険にされる。
まるで「しね」と言う様に。

お前達が「自分たちが正しい」と群れて強く主張するから従っただけなのに。
自分で自分のこと守ろうとしていたら、「自分勝手」や「わがまま」になるのだろう?
私はお前達を否定しない為に自分を否定したんだ。
お前達が強く主張するから、怖くて、従った。
お前達が「正しい」くて私が「間違え」だと感じたから。
それなのに…私は何のために。

人の為を考えても、決して報われないじゃないか?

辛い過去を話しても、誰も助けてくれないじゃないか?

じゃあ、どうすればよかったんだよ。
どうすれば、「生きることが許される」んだよ!!


………。


正解は「自分勝手」「わがまま」になることでした。

私はあの時、いじめられた時「自分は悪くない」と全力で主張するべきでした。
言語化力が無く覚束無い表現しかできなかったとしても、誤解されたとしても、「自分のことを守り抜く」べきでした。

大人になって「脳科学」の本や記事を目にするようになってわかったことですが、子供の脳は10歳ぐらいを気に「自立していく方」に成長していくものらしいです。
学校にもよるかもしれませんが、小学四年生になったら「二分の一成人式」というものをすると思います。今もあるのかな?
それは、単に成人年齢まであと半分だからだけではなく、脳科学に基づいたことでもあったのかもしれませんね。

思えば、私がいじめを受けた年齢も10歳ぐらいの時でした。
いじめてきた人達はクラスメイトでした。

いじめてきた人達は、きっと「自立できていなかった」のだと思います。
それは、親によるものかもしれませんし、そこは分かりませんが、「環境から自立できていなかった」のは事実だと思います。

そして、私もまた自立できていませんでした。
私の場合、「自分の課題に気付き処理する能力」が一般よりも遅れていたと感じます。
けれど、この能力は後に"自然に身に付き"ます。
しかし、「人の課題に気付く」ことも苦手でした。
これは大人になって「課題の分離」という言葉を知るまで、この存在自体分かりませんでした。
また、「人の課題に気付いたらどうすればいいか?」を知った(自分の納得できる対処法を見付けた)のも、20代後半になってからのつい最近です。

つまり、私の場合どんなに「自分勝手」や「わがまま」になろうとも、自分自身のことを全力で守り続けていたとしても、必ず『自分の課題に向き合い、胸を痛めながら学習する』ことができた可能性が高いのですよね。
『繊細で傷つきやすい』ということは、自分の様子だけではなく『人の様子』にも敏感になります。
そんな私が、自分の課題に敏感にならない訳がないのではないかな?と思うのです。

勿論、中には幾つになっても「自分は悪くない」と主張する人もいます。
けれど、そういう人も本当は無意識に「自分は悪くないということの矛盾」に気づいているのかもしれない。
ただ、『無知』で「自分の課題に気付く大切さ」を知らないだけなのかもしれない。
とはいえ、例え「自分の課題に気付く大切さ」を教えたとしても、しっかり飲み込めるようになるまで「物凄く時間がかかる」と思います。
そう、私が『自分を大切にする』ことの大切さを飲み込むまでに時間がかかった様に。
私の場合、軽く3年以上はかかっています。
正直、今もちゃんと飲み込めていないぐらいです。

つまり、『知らなかった』のです。

人に縛られて生きるのも
自分の思い通りにして生きるのも

心の中で気付いていた、なんとなくの『違和感』の正体に、またその正体の対処法を…

ただただ
『知らなかった』のだと気付きました。

なので、もしかすると『脳自体はしっかり10歳ぐらいの時から成長していた』のかもしれませんね。
けれど、成長だけして納得する為の『知恵や知識が無かった』つまり『知らなかった』のだと思います。
そして、知らないから『分からない』のだと気付きました。


この経験を通して、私は「人を助ける」という事に違和感を覚える様になりました。
確かに、他人が『明らかに、一人ではどうしようもないこと』で困っているのに対して、『自分が助けられる人』かつ『助けられる状況(判断基準は自分軸でいい)』なのに見て見ぬふりをするのは難しいかと思います。
けれど、「助けられない」また「助けたくとも、どうしてもできることが見つけられない」場合、それでも無理やり人を助ける必要なんてあるのでしょうか?
それに、助ける為に「自分を犠牲にする」必要なんてあるのでしょうか?

もし、それらを人に求めてしまうのだとしたら、それは人に求める以前に、『自分が自分自身でやってきたこと』なのではありませんか?
自分が「人の為に自己を犠牲にしてきた」から「他人にも、自分と同じ様に人の為に自己を犠牲にすることを望む」のではないですか?

この場合、「他人に、自分と同じ様に自己を犠牲にすることを望む人」を救うべき人は、本当に「他人」なのでしょうか?

これが、私の「人を助ける」事に対して感じた違和感です。

それでも、どうしても「人を助けたい」と思うのなら
どの道、まずは『自分自身を助ける』ことが大事なのだと思います。
もしかすると、それによって"本当の意味"で人を助けることができる様になった時に、自分が"結果的"に人を助ける為に与えているものは、今「人を助けたい」と思って与えているものとは『別の形のもの』かもしれませんね。
なので、きっとそれ以前の「何度も人を宛にする必要無く、"本当の意味"で自分が救われる」という感覚も、"本当の意味"で自分が救われたという実感も…。
人に宛にされて人を助けてきた自分、またそれにより人を宛にした自分
の考える「救い」の外にあるものなのかもしれませんね。


以上です。大変長くなりました。
読んでいただきありがとうございましたm(_ _)m。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?