「優しさ」と「弱さ」は紙一重?について考えてみた。

「優しさ」と「弱さ」

これらを考える上で、まず大切になるのは『強さ』について知ることだと思う

『強さ』
それは、人によって答えが異なると思う
あえて、私の答えを言うならば
強さとは『自分を持っていること』なのではないだろうか?

この『自分』の定義も中々難しい

よく「好きなことに夢中になるとき」とか「自分の意見を持っているとき」とか『自分らしさ』とか言うけれど

そういう時に限って
案外「これが自分なんだ」とは意識しないもの
つまり、自分では自分の確認の仕様がない

ただ
「我慢」していたり、「やりたくないこと」をやっていたりしている時は、なんだか息苦しい気がする

どうも『自分じゃない時の方が意識している』様だ

もしかすると
人は嫌なものに出くわした時に、初めて『自分を認識する』のかもしれない

つまり
好きなことをしている『無意識の状態』

嫌なものに出くわした『意識している状態』
こそが、自分なのかもしれない

『強さ』についての私の答えで言うならば

強さとは
『好きなものは好き』
『嫌なものは嫌』
と貫き通せることなのかもしれない

だとしたら
『強さ』とは、一方で「嫌われる」可能性もあることは否定できないのかもしれない

というか
『好き』『嫌い』があることで嫌われることが、まずおかしい

プリンが好きな人が、プリンを嫌いな人を否定できるはずがない

それは
給食の時のように
プリンが嫌いな人からプリンを貰える可能性があるから
だけではない

自分も『プリンが嫌いな人の好きな食べ物を苦手な可能性がある』からだ

そんな『好みの違い』で争いが始まるなんざたまったものじゃない

話を戻して
「嫌われるから、好き嫌い無い」なんておかしいという私の自論を元に言うと

やっぱり
『好き』『嫌い』を貫き通せることが『強さ』なのは間違えないだろう

では、いよいよ
『優しさ』とはについて

これらの答えを元に考えるに
私の自論としては

『優しさ』とは『許し』ではないか?と考える

勿論、悪い事をした事実を許せという訳ではない

ただ、悪い事を”しなければならなくなる”精神には
『誰しも陥る可能性がある』
のではないだろうか?

勿論、これは逆にも言えることで

『誰しも幸せになれる』
ということでもある

私の言う『許し』とは

『悪い事をする可能性がある邪悪な部分』

『幸せになる可能性がある光の部分』

その
『どちらの存在も認識し、共存することを許す』
ことだ

そう考えると

改めて
『優しさ』がどれだけ難しいことだかを思い知らされる

人には『感情』がある
それは、当然私にも言えることだ

どんなに、人を平等に見ようとしても
「好き」な人に対しては甘く
「嫌い」な人に対しては厳しく
なってしまう

ま、それを楽しむのも感情の醍醐味かもしれないが

『優しさ』という観点で言うなら
それはとても『優しさ』とは言えないだろう

これらを踏まえて言うと

結論
「優しさ」は「弱さ」と紙一重
なのではなく

寧ろ
『優しさ』は『強さ』と紙一重
なのではないか?

と考えることができる

よって

「優しさ」が「弱さ」
になるときは
そもそも『優しさ自体が破綻している』
つまり『優しさではなく甘さになっている』
時なのではないだろうか?


【まとめ】

優しさは弱さと紙一重
⇒‪優しさは強さと紙一重

強さ
⇒自分を持つこと

自分とは
⇒「好き」「嫌い」があること

優しさとは
⇒「邪悪さ」と「光」の存在を認識し、共存することを許すこと


というのが、私の答えだ

私はこれが『正しいことよりも大切』なことだと思う

正しさは、楽だけど苦しいから

正しくあろうとすれば
正しくあろうとするほど
『自分を見失ってしまう』から

そして、見失った自分には

きっと、何も分からなくなる

大切なモノも
良いか悪いかすらも
分からなくなってしまうから

そうなった時の自分は

きっと、『間違えた自分よりも怖い』

だから
『優しさ』と『強さ』は大切なのだと思った


読みづらい文になってしまいすみません。
読んでくださった方ありがとうございましたm(_ _)m

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