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やらなすぎず、やりすぎず

 note記事の中で、文章中に「コロナ」と書いても、記事の上に注意書きが出なくなりました。

 以前はコロナに関連する言葉が少しでもあると、自動的に「この記事は新型コロナウイルスに関連している可能性があります」という注意書きが出ていました。

 私は、今回の感染症の経緯にはひとかたならぬ興味と関心を持っていますが、ネットワーク上では語らない、と決めていました。

 何か語ったとして、それは「私」のフィルタを通したただの意見にすぎませんが、コロナが収束していないうちは、いたずらに人の心をかき乱す要因となり得ると思ったからです。

 運営側が注意書きを記事に貼っていたのも、行き過ぎた過激な記事が増えるのを避けたり、事前になんの心構えもなく関連記事を読むことで、怒りや悲しみを感じて傷ついて落ち込んだりするのを防ぐ目的があったのだろうと思います。

 それを理解したうえで、私はその「注意書き」を少しいとわしく感じていました。

 コロナについて書いていないのに、たったひとことその言葉があるだけで注意書きの対象になってしまい、「ああコロナの話か」と思われるのは不本意だなという気持ちがあったからです。

 「感染症」だけでなく「戦争」「宗教」「思想」「性」などは非常にセンシティブなワードです。

 いいか悪いかは別として、穏やかなSNS空間を作ろうと思ったら、情報にはある程度フィルタやバイアスが必要なのでしょう。
 実際、無法地帯ともいえるSNSでは諍いや炎上により散々な目に遭う人も少なくありません。

  ですからその注意書きが外れた、ということには、素直に嬉しい気がしました。世の中が少し落ち着いてきた証拠のように思われました。

 感染症そのものや、感染症対策、ワクチン、ソーシャルディスタンス、ホームステイ、オリンピック、GOTOといったことへの考え方や感じかたは、人によってばらばらでしたし、今もそうです。

 それが、次第に人と人との間に少しずつすき間を作ったように思います。フィジカルなディスタンスを取っているうちに、意識の上でもディスタンスができていった、とでもいいましょうか。
 私のように「語らない」と決めたことによってもまた、ディスタンスは広がるものだとも感じます。

 このコロナ禍、いろいろなことが変化しました。
 中でも、「清潔」に対する意識には大きな変化が訪れたと思います。

 清潔には、

 清く美しいこと、綺麗なこと、いさぎよいこと、汚れていないこと。

 菌(ウイルス含む)がほとんどなく、衛生的なこと。

身持ちが固いこと。貞節であること。

行いが正しいこと、金銭的にクリーンなこと。

 といった意味があります。

 コロナ禍ではこの中で飛びぬけて衛生面に注目が集まりましたが、実は他の「不潔」に対しても連動するように厳しい目が向けられるようになったと感じています。

 不倫や政治家の不正疑惑に対しての報道が過熱気味になったり、無差別あるいは特定の人を攻撃したり、酷いときには傷害や殺害に至ったニュースが世間を騒がせています。

 不倫や不正を擁護する気はありませんが、何かを「正しい」と信じる人たちが別のことを「正しい」と思う人たちに攻撃をすることや、特段のイデオロギーによらず心の鬱屈を晴らすような事件が頻発している気がしてなりません。

 これらはコロナのせい、というよりは、ネット依存社会の弊害、とも言えるかもしれません。

 Covid-19はウイルスですから目に見えません。

 見えないものによる「汚染」のイメージは、東日本大震災のころにもありましたが、今回のウイルスもまた「汚染」のイメージがあったと思います。

 わたしたちはこの何年かずっと「汚染」されているイメージの中にいるのかもしれません。

 空気のように生命維持に欠かせないものが汚染されていると言うイメージにはたまらない息苦しさを覚えます。
 このコンテストを主催されたパナソニックさんの「ナノイーX」のようなテクノロジーや清潔や衛生に関わる商品の需要が格段に伸び、行く先々で関連グッズを目にするのも道理です。

 私には以前から強迫性障害の傾向がありました。
 いわゆる「潔癖症」です。

 ようやく治りかけてきたころに、このコロナ禍を迎えました。

 清潔に対する私のルールは、すでにコロナ禍前から清潔の域を軽々と超えて「潔癖のマイルール」となっていたのですが、それがこの病の流行によってさらに強化されてしまいました。

 そんな「潔癖ルール・超」を、ワクチン接種や感染症対策の浸透、幾度もの流行の波を経て、だんだんに緩めてきました。人々が感染症対策を強めていく中、私は「どのあたりまで緩めても許容できるか」という、逆の方向性を探っていたとも言えます。

 コロナ禍以前、消毒と度重なる手洗いで手荒れした私の手は、ひび割れ、血が流れ、皮が薄くなっていました。
 かといって薬やクリームの成分も怖いから塗れない、そんな時期もありました。
 でもそんな手には逆に菌やウイルスが付着しやすくなります。

 当初はとにかく品薄だった消毒や洗剤をかき集めていたように思います。
 薬局で見かけるたびに買って、通販で買って、実家にも見かけたら買っておいて欲しいと頼んだりしました。

 何度目かの波のときには、学校の集会に行ったときに教室の窓が開いていなかったので、終わってからこっそり担任の先生に窓を開けない理由を聞きに行ったりしたこともあります。

 そのくらいなら自分もやっていたよ、とおっしゃるお優しい方もいると思います。
 
 私のとっていた過剰な対策を列挙するつもりはありませんが、ここに記したら確実にドン引きされるレベルなのでこの程度でとどめておきます。

 この3年、なるべくよそ様にそれ勝手な潔癖マイルールを押し付けないように貝のように閉じこもっていました。コロナについての発言を避けたのもそのためです。

 自分を苦しめるほどの潔癖は、他人にとっても不快なものです。
 
 過ぎたるは及ばざるがごとし。

 過剰な「清潔」への希求は、自分も周囲も辛くさせてしまいます。

 果たしてどのあたりでバランスがとれるのか。

 そんなことを悩みながらの3年間。

 今年の高校・大学受験生は、入学してから同級生の前でほとんどマスクを外さないで学校生活を送った子供たちです。

 たくさんのことをあきらめて、たくさんのことが体験できなかった子供たち。

 先日、NHKクローズアップ現代の沢木耕太郎さんのインタビューで、2023年をどのように生きたいか、という問いに対し、沢木さんがこんなことをおっしゃっていました。

 かつて、かの有名な『深夜特急』のあとがきの最後に、次のような言葉を若い読者に向けて書いたのだそうです。

恐れずに。
しかし、気を付けて。

 そしてその言葉を、コロナで失われた年月を経た今の若者に向けて、

気を付けて。
だけど恐れずに。

 という言葉にして贈りたい、と言っていました。

 「人類」という単位での、これまでのこの病気との向き合い方が良かったのか悪かったのか、WHOや各国が右往左往しながら行っている今の対策がいいのか悪いのかは、後の世にならないとわかりません。

 もしかしたら、もっとうまくやれたのかもしれませんし、本当はもっといい方法があるのかもしれません。

 それでも、意見の違いを乗り越えて、病気を知ろうとし、何とかその病を克服して生きていくために、その都度精一杯知恵を出し合ってきたのではないかと思います。

 現在は、インフルエンザの同時流行もあって、ひきつづき対策強化の警鐘が鳴らされています。

 でも我々は、水が豊かで洗剤もあり、消毒もあり、性能のよいマスクや換気設備もあり、希望すればワクチンも打てる、医療もなんとかいきわたる、世界でも有数の「清潔国」に住んでいます。

 なにもかもダメダメダメでは、自由に生きる楽しみまでがなくなってしまいます。

 コロナでもインフルエンザでも、基本的な対策は同じ。

 やらなすぎず、やりすぎず。

 そうやってバランスを取りながら「気をつけて、でも恐れずに」、少しずつ自由を取り戻していけたらいいなと思っています。

 ※「#清潔のマイルール」に応募しています。

#清潔のマイルール

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