見出し画像

渇き、と生きなきゃと思う。

僕は根っからの水好きで、自分でも不思議なくらい
食事中にがぶがぶ飲む。初めて食事する人にはいつも言われる。

「健康的だねぇ」

一食で飲む水の量は、おおよそ1.5~2.0ℓ。
困るのは水のおかわりがセルフサービスではない飲食店なのです。

「すいません、お冷のおかわりください」

この言葉を繰り返す度、定食屋のおばちゃんの顔色は怪訝になる。3杯目から僕も手を挙げることが億劫になってきて、ついに

「あ、僕、水たくさん飲むのでボトルで置いてもらえますか?」

と言う。
もしくは、おかわりしたい気持ちをグッとを我慢する。

さて、今日書こうとしていた「渇き」は、喉の話じゃなく心の話。

おなかがすいた時の「ごはん食べたい」とか、恋した時の「会いたい」とか、そんな本能に近いところで自分を衝動的に突き動かす根源的な何か。その感覚を、渇き、と呼んでみる。

僕が自分の渇きを自覚するようになったのは、たぶん、東京に来てから。

東京という街が原因なのか、僕がもともとそういう性質だったのかは分からない。けれど満たされることない渇きに素直に僕の頭は思考し、身体は動いてきた。

音楽、親子向けワークショップ、カンボジアの研究、就職活動、仲間と旅する時間。。。恥ずかしい話だけれど、19歳の冬はハリーポッターの読書に没頭していて、一日2時間睡眠を4週間続けた頃、胃に穴が開いた。胃穿孔と診断され、即手術、1カ月の入院。そんな暮らしをしていたら、女の子とのお付き合いなどうまくいくはずはない。

「キミは何と闘っているの?」

学生の頃付き合っていた女の子が無邪気に僕に聞いてきたことがある。うむ、確かに僕は何と闘っているんだろう?

今でもこの問いに対する答えは出せていない。欲しいものを手に入れても、賞をもらっても、それなりのお給料をもらっても。ずっと、ずっと、ずっと、渇きっぱなし。やきもきする。渇き、きみの正体を教えてくれよ。なぜ僕をこうまで突き動かすのか。あなたには似たような渇き、ありませんか?

Rhizomatiksの齋藤精一さんがこんなことを言っていた。

一生をかけて解きたい問題を見つけたから、仲間と会社を立ち上げた。

彼の言う「問題」が、僕の言う渇きに近い存在なのかもしれない。そしてその問題に対する解の追求が、齋藤さんの仕事なのだ。

僕の中にも何かしらの課題意識があって、その解決のためにひたすら貧弱な身体と脳をブラック企業のごとく酷使しているのかもしれない。それとも単に、内なる好奇心や目の前に転がっている課題と無邪気に遊んでいるだけのお子さまなのかもしれない。

確かな答えを出せないままだけれど、『木を植えた男』という名作を遺した故フレデリック・バックさんが堤大介さんに向けて送った言葉を最後に。

君にはアートの才能がある。だが、自分が持っているその才能を社会のため、何かのために活かさなければ意味がない。我々にはすべき使命があるんだ。自分たちに与えられた特別の才能を、何か世の中に伝えていく事に使うんだ。  - Frédéric Back

バックさんも”何か”に突き動かされた一人なのだと思う。
そしてその実体のない”それ”に忠実に、自身の才能を惜しみなく注ぎ込んだ彼の人生には尊敬の念が絶えない。

僕の渇きは、自分以外の誰かの役に立った時に初めて潤されるのかもしれない。

そうだといいなと思う。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?