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読書メモ|アダム・スミスの夕食を作ったのは誰か?|カトリーン・マルサル

プロローグ 経済と女性の話をしよう

子育て支援に巨額の予算を注ぎ込んでいる北欧では、学歴による女性の出生パターンの変化は見られない。一般に北欧の女性は英米より多くの子供を産む。ところが誉れ高い北欧の国々でさえ、女性の賃金は男性より低く、上級管理職のポジションにいる女性の数も他国に比べて多いとは言えない実情がある。なぜそうなるのだろう。経済学の方程式であることはまちがいない。きちんとスジが通るように、そもそもの最初から話を始めたい。

第1章  アダム・スミスの食事を作ったのは誰か 

経済学とは「愛の節約」を研究する学問だ。愛は希少である。隣人を愛するのは難しいし、隣人の隣人を愛するのはもっと難しい。だから愛を無駄遣いしてはいけない。愛を社会の燃料にするなら、私生活に使える愛がなくなってしまう。愛はなかなか見つからないし、消えやすい。
「利益の追求」はどうだろう。利己心ならいくらでもあふれているではないか。「我々が食事を手に入れられるのは、肉屋や酒屋やパン屋の善意のおかげではなく、彼らが自分の利益を考えるからである」人を動かすのは利己心だ。利己心は信用できる。しかも尽きることがない
毎朝15キロの道のりを歩いて、家族のために薪を集めてくる11歳の少女がいる。彼女の労働は経済発展には欠かせないものだが、国の統計には記録されない。なかったことにされるのだ。GDPはこの少女の労働をカウントしない。肉屋やパン屋や酒屋が仕事をするためには、その妻や母親や姉妹がくる日もくる日も子供の面倒をみたり、家を掃除したり、食事をつくったり、服を洗濯したり、涙を拭いたり、隣人と口論したりしなければならなかった。経済学が語る市場というものは、つねにもうひとつのあまり語られない経済の上に成り立ってきた。

第3章  女性はどうして男性より収入が低いのか 

「自分は玄関マットでも売春婦でもないですよ、という態度をみせるたびにあいつはフェミニストだと言われるんです」イギリスの作家レベッカウェストはそう述べる。女性が自己主張をするのを、社会はけっして許さない。でも、経済が利己心でなりたつなら、女性が利他的にふるまうことは矛盾ではないのか。
男性の労働の成果はわかりやすく積み上げられお金に換算される。一方女性の仕事の成果はわかりにくい。掃いた塵はまた積もる。食事をさせてもすぐに腹は減る。やっと寝かしつけた子供はまた起きる。昼食が終われば皿洗いが待っている。皿洗いが終われば夕食の準備が待っている。そしてまた汚れた皿が積み上がる。家事とは終わりのない繰り返し。だから女性の仕事は経済活動ではなく、気遣いの延長としておこう。どうせいつも同じことをやっているのだから、わざわざ計量するまでもない。これは経済の話ではない
仕事をしている女性は家に帰っても家事をしなければならず、疲れが取れない。ゲーリーベッカーはそれが低賃金の理由だと考えた。一方女性が家事を担当するのは賃金が少ないからだという逆向きの説明もある。要するに女性は家事をするから賃金が低く、賃金が低いから家事をする。そういうことだ。出口のない堂々めぐり。


第4章  経済成長の果実はどこに消えたのか

今の世界はケインズが想像もしなかった種類の経済問題を抱え込んでいる。途上国では栄養不良で人が死に、先進国では肥満で人が死ぬ。米国の裕福な地域では大学教育にかけるよりも多くの費用が刑務所に費やされている。親は子供を養うために働きすぎて、子供と話す時間すらないみんな将来が不安で、お金の心配ばかりしている。
1991年当時は世界銀行のチーフエコノミストを務めていたサマーズはある内部文書に署名した。「ここだけの話だが、環境汚染型産業の最貧国への移転を世界銀行は推進すべきではないだろうか」「アフリカの人口の少ない地域では環境汚染が不当にすくない、所得水準のもっとも低い国に有毒廃棄物をごっそり移転するのはきわめて経済合理性のある話である
彼らのいう合理性とはつまり、利益がすべてだということだ。


例えば、ケニアさんは貧しくて飢えている。ドイツさんは金持ちでお腹いっぱい食べている。さて、ドイツさんの庭にはポリバケツいっぱいの放射性廃棄物があって、これが邪魔である。ドイツさんはケニアさんに200ユーロやるから引き受けてくれないかと持ちかける。200ユーロはドイツさんにとっては大した額ではないが、ケニアさんにとっては一財産だ。放射性物質だかなんだか知らないが、金をくれるなら引き受けよう、とにかく腹が減って放射線どころではないのだ。ウィンウィンだ。この話は全てが利益のために動く前提で語られている。もし、そうでなかったらドイツさんが自分で放射性廃棄物の責任をとろうとするなら、将来を見据えた技術的な解決策が見出されるかもしれない。ところがドイツさんはケニアさんに押し付けた方が安上がりだということしかアタマにない。放射性廃棄物の問題は未解決のまま世界に残され、やがて世界中のみんなが環境汚染に苦しむだろう。いったいどこが合理的なのか?

 

第5章  私たちは競争する自由が欲しかったのか 

私たちはいい男と結婚するかわりにいい男になったのだ。それはたしかに進歩かもしれないが、話の中心にあるのは依然として男性だ。しかし、フルタイムのキャリアはフルタイムの家事労働がなければ回らない。掃除婦の家をだれが掃除するのか、ベビーシッター自身の娘を誰が世話するのか。家事労働の雇用は、雇う女性と雇われる女性の恒久的な格差を前提にしているのだ。「男性が自分の雇っている家政婦と結婚したら、国のGDPが減ってしまう」これは経済学者が口にするジョークだ。逆に彼が高齢の母親を老人ホームに入れればGDPは増加する。ポイントは同じ種類の労働でもGDPに含まれたり含まれなかったりするということだ。カナダの統計局が無償労働の価値を測定して試算したところ、GDP全体の30.6%(有償で依頼した場合の金額)〜 41.4%(家事に費やす時間を有給の労働に費やした場合の金額)という数字になった。フェミニスト作家ナオミウルフの言葉を借りるなら、私たちは娘の世代に「ありのままでいい」という成功の定義を残すことができなかったのだ。もっとうまくやれ、もっとたくさんやれ、相手を蹴落とせ、西洋で推し進められた女性の解放は、やるべくタスクをどんどん増やし、野心のリストになってしまった。本当はもっといろいろな種類の自由が得られるはずだったのに。ありのままでいられる自由が。みんな男らしくなくていい、バリバリ戦えなくてもいい。

第6章  ウォール街はいつからカジノになったのか 

問題は経済学と物理学ではその性質が異なることだった。物理学では同じ実験を何度も繰り返し、その度に同じ結果を再現できる。だが、経済学ではそうはいかない「電子がものを考えるとしたら物理学がひどく難しい学問になっていたでしょう」と言ったのはノーベル物理学者のマレーゲルマンだ。市場は人間で成り立っていて、人間はものを考える。それどころか感情まで持っている。ロジックで動くゲームとはわけが違うのだ。

第7章  金融市場は何を悪魔に差しだしたのか 

ウォール街でゴードンゲッコーが言うように投資はいまやゼロサムゲームだ。金融市場が暴走すれば、大量の失業者が生み出されるだろう。数百万人が色を失い、国の財政は逼迫し、政府は苦肉の策として高齢者介護の予算を削減するかもしれない。しかし介護を必要とする数は変わらない。誰かが食べさせ、寝返りを打たせ、手を握ってあげる必要がある。介護士の数が減らされれば少ない人数で同じ量の仕事をこなすしかない。負担が増えた介護士は腰を壊し、膝を痛めるだろう。金融というカジノで繰り広げられるコンマ何秒の駆け引きが、めぐりめぐって介護職の女性の膝を押しつぶすのだ。アダムスミスや金融の大物たちのアタマのなかには存在しない、その膝を。全世界の富を一瞬で売買できる高性能なシステムが開発されようと、エレガントな数式がわたしたちを誘惑しようと、経済の根本にあるものは、わたしたちの身体だ。仕事をする身体、ケアを必要とする身体、別の身体を生み出す身体、生み出され、老いて、死んでゆく身体、わたしたちの身体と、身体を支える社会だ。

第8章  経済人とはいったい誰だったのか

ダニエルカーネマンとエイモストベルスキーが、経済学者の仮定をくつがえし、ひとの意思決定は客観的でもなければ合理的でもないということを示してみせた。カーネマンはその功績によって2002年にノーベル経済学賞を受賞した。人は自分の利益よりも他人の幸福を優先することが多々ある。合理的に考えれば損失になるような状況でも、人は利他的に行動しうる。現実の人間はさまざまな状況で協力しあうが、経済人は自分の利益になるときしか協力しない。私たちは経済学者のいうことを素直に聞いてきた。それなのに経済はここ数十年のあいだ危機の連続だった。ソビエト連邦が崩壊したとき、経済の原則は普遍的なのだ、共産主義の衣さえ剥ぎ取ってしまえば、資本主義はどんな国でも機能する。ところが、ロシアの一人当たり所得は減少しつづけた。ウクライナも同様の運命をたどった。それにくらべると国際通貨基金のアドバイスに耳を貸さなかったポーランドはかなり調子がよかった。 

第9章  金の卵を産むガチョウを殺すのは誰か

経済的要因が人を動かすと信じて経済的インセンティブを設定すれば、それが他の動機をすべて押しつぶすことになりかねない。経済人がやってきて、良心も感情も文化的要因もぜんぶ壊してしまう。そして失ってしまってからそれが経済の営みを支える大事なものだったと気づくのだ。市場原理は大事なものを殺す斧なのかもしれない。

第10章  ナイチンゲールはなぜお金の問題を語ったか

フィリピンでは2000年から2003年のあいだに3500人の医師が看護師になる再教育を受けている。看護師の資格を身につけてアフリカに渡れば、故郷フィリピンの医師に比べて4倍から6倍の給料が稼げるからだ。市場経済では、ひとはお金のあるところに流れる

第11章  格差社会はどのように仕組まれてきたか 

上海はあまりのスピードで開発が進んでいるため街の地図を毎週書き換えなければならないほどだ。中国で製紙業を営む女性、ちょういんの資産はオブラウインフリーの2倍以上になるという。その一方で国土の1/3には酸性雨が降り、大気汚染による死者は年間40万人にも達する。JPモルガンはかつて経営者の平均報酬を従業員報酬の20倍程度にするべきだと言ったが、2007年にはその数字が364倍となっている。米国では下位90%を合わせたより、さらに多くの金額が上位1%の懐に入ってる。富と権力を手にした少数者は世界経済のルールを書き換えることもできる。

第12章  「自分への投資」は人間を何に変えるのか

労働者は朝起きて仕事に行き、他の誰かが所有する工場で、ほかのだれかが考えたものをつくる。その生産物は見知らぬ誰かが買い、売上は自分ではなく工場のオーナーのものになる。労働者の手に残されたものといえば、自分を束縛する鎖だけだ。シカゴ学派の経済学者たちは、人的資本という言葉を自分たちの理論に取りいれた。フーコーが語るのは、新自由主義の文脈における人的資本の概念がいかに人々の考え方を変えたかということだ。あるのは自分への投資だけだ。利益とコストを計算して賢く自分に投資すべきだ。こうして経済と人間性は同義になり、人の本質は経済になった

第13章  個人主義は何を私たちの体から奪ったか

子供であるとはすなわち、他者に完全に依存することだ。それ以外にどうしようもない。他者への依存のなかに生まれついて、そこから自分のアイデンティティを見いだし、自分の空間をひろげてゆくのが自立という作業だ。世話をする側にとっても子供の世話が生活のすべてになり、依存されることに生きがいを見出してしまうと、お互いに依存が強すぎて離れられなくなる。この過程でひとは心に癒えない傷を負う。きっとわたしたちは経済人みたいになりたかったのだ。誰にも頼らず、合理的に生きられる世界が欲しかったのだ。でも、そうやって現実から目を逸らしてきた結果、私たちはいったい何を得たと言うのだろう。

第15章  経済の神話にどうして女性が出てこないのか

世界の女性の20%は貧困ライン以下で暮らしている。グローバル経済の頂点で政治的、経済的な影響力を強める超エリート層には女性がほとんどいない。そんな世界でジェンダーが問題でないわけがない。
女性の無償労働を無視したままでは、見えない労働力がどのように貧困とジェンダー格差に結びついているかを理解することはできない。
たとえ水と食べ物があっても、人は寂しさから死ぬことがある。たとえ栄養が与えられても、人の手で世話をしてもらえなかった赤ちゃんは生きられない。お金持ちであっても盗みを働くことはあるし、巨額の詐欺事件も起こす。 

第16章  私たちはどうすれば苦しみから解放されるのか

世界最大の屋内スキー場はドバイにある。外の気温と室温の差は平均で32度もある。冷やすためにどれほど膨大なエネルギーが使われているのだろう。それでも経済的にはここにスキー場を作るのが合理的なのだ。問題は採算がとれるかどうか、それだけだ。
経済人の性格はあらゆる面で「男性的」と呼ばれてきたものに一致する。『オデュッセイア』は西洋人の自己意識の雛形がある。男と女は対立するものであり、女は抑圧されるべきものだ。でも、すべての文化がそう考えるわけではない。老子の「道徳経」には陰陽が互いに互いを生むという世界観が描かれている。ヒエラルキーも対立もない。しかし、こうしたジェンダー観は世界の主流にならなかった
労働者階級の男性がフルタイムで働いて独立するためには、女性に家の世話をすべてやってもらう必要があった。でも歴史はその部分については語らない。アダムスミスが母親について語らないのと同じように。アダムスミスが母親を養っていたのか、それとも母親がアダムスミスの面倒をみていたのか、本当のことをいえば、私たちはみんな誰かに依存している。自分が全体のなかで生かされている、それを語る言葉が必要だ。
自分の利益と他人の利益を対立させるのはもうやめよう

詩人ウェイ・ウ・ウェイはうたう。

あなたはなぜ不幸なのか?
なぜならあなたがおもうことの
そしてあなたがすることの
99.9%はひたすら
自分のためだから
そんなものはどこにもないのに

エピローグ 経済人にさよならを言おう 

フリーランチなどというものはないと経済学者はもっともらしく言う。そこにもうひとつ付け加えておきたい。無償のケアなどというものも存在しない。
孫を愛しているし、自分がやらなければ誰も面倒をみられない。娘も夫も仕事で忙しい。共働きでも家計はギリギリなのにどちらかが仕事をやめるなんて不可能だ。育児のために仕事を休みそのせいで経済力を失うのはたいてい女性だ。キャリアが中断されることで将来の賃金が下がり、年金の支給額もさがる。
英国で失業中の女性のうち、17%は誰かのケアをするために前職をやめている。男性の場合たった1%だ。
お金持ちは夫の稼ぎだけで暮らせるので働かないし、貧しいひとは保育園やシッターに払うお金がないので働けない。最低賃金の労働が保育の費用にまったく届かないとき、貧しい家庭は解決不可能な方程式を突きつけられる
2014年アリゾナの女性シェンシャテイラーが逮捕された。子供を暑い車内に45分放置したためだ。幸い2歳と6歳の子供は無事だった。テイラーはそのころ、仕事も家もない状況だった。その日は面接のためになんとか工面してシッターを手配していた。ところが面接当日になってシッターからキャンセルの連絡が入った。これが大多数の女性にとってのワークライフバランスだ。

この本はジャーナリストが書いたものなので、テンポがよく、共感しやすい。自分が直面しつづけた問題なので今回は長くなってしまった。

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