見出し画像

読書メモ|チョンキンマンションのボスは知っている アングラ経済の人類学|小川さやか


たまたま見たYouTubeで小川さやかさんを知りました。話し方も姿もキュートでかわいいのと、話の内容も興味深くて注目し、すぐに著書を探して読みました。この本、2019年が初版なのですが、翌2020年には10刷になっていて、たいそう売れているのがわかります。香港のタンザニア人についてすごくよくわかって面白いです。
★あとで知ったのですが「河合隼雄学芸賞」と「大宅壮一ノンフィクション賞」をダブル受賞されてました。売れてるわけです!


「うまく騙すだけではなく、うまく騙されてあげるのが仲間の間で稼ぐ上では肝要だ」など商売の鉄則を指南し、その独特の知恵と実践を通して「騙し騙されながら助け合う」社会的世界を創出する方法を教えてくれた

ボスとの出会い

「私たちは他のメンバーに干渉しないことにしている。だから、それぞれがいくら払えるかを知ることはできないはずだ」「寄付額はそれぞれの財力に応じて変化させるべきた」「今回寄付できない者に裏切り者のレッテルを貼るのはおかしい。たまたまビジネスが不調であるだけで、次回は寄付するかもしれないのだから」「寄付は寄付であり、1000香港ドルはあくまで目標に過ぎないのだから、余裕がないものは可能な範囲で寄付をすればいい」「それぞれ他人には言いにくい事情があるのだから、寄付を強制してはならない」ともあれ1週間後、タンザニア香港組合は11700米ドルの寄付を集めることに成功した。

交易人の多くは香港や中国からタイやインドネシア、アメリカへとビジネスの場を拡大し、複数のビジネスの拠点をつないで商売をしているが、このことは「商業的旅行者」「頻繁な移動者」として居所が定まらない彼らが、どこでも生きていける、あるいはどこで死んでも故郷に戻ることができる可能性を強めている。

互報性を基盤に組合が運営されていると仮定した場合、組合活動に貢献しない者をも支援する理由はなんだろうか?彼らたちを暮らしていると、実質的な貢献度や困難や窮地に陥ることになった「原因」をほとんど問わず、たまたまその時に香港にいた他者が陥った結果だけに応答して、可能な範囲で支援するという態度が広く観察される。曖昧なままにしておきたいという思惑もあることがわかる。「色々な事情があるんだから、細かいことを言うのはやめようぜ」と言った結論に落ち着く

サヤカ、香港のタンザニア人が病気になる一番の原因は何だと思う?多くの人は最初に物事の調整ができなくなるという病にかかる。その後に(アルコール依存などの)本当の病気になるんだ。(香港と母国は物価が違うので)俺たちは母国ではあり得ない額のお金を稼ぐ、誰でも考えるさ、香港で一皿を買うお金でタンザニアでは何人が食べられるのかとか。それでもっと稼ぐために何をしたらいいか、どんな商売に投資しようなどと仕事のために頭を働かせる。けれども思いがけずボロ儲けをする日が続くと、これからもどうとでもなる気がしてくる。逆に全然稼げない日が続いたら、突然全てのことが虚しくなる。こんな遠いところまで来て俺は何をしているんだと。きっかけは人それぞれだろうけど、もうどうでもいいやって気分に陥ることは誰にでもある。そうして仕事を辞めて暇になると、稼ぐことに頭を使っているうちには考えなかったことに悩まされる。母国と香港の生活のギャップとか残してきた家族とか、せっかく香港にいるのだから人生を楽しもうとか犯罪行為をして楽に稼ぐ仲間が羨ましいとか、あいつが稼げて俺が稼げないのはなんだとか、さ。この時点では大した病じゃない。だけど、商売は大事なんだよ。頭を働かせるのを辞めたら、そこから先の転落はあっという間だ」そしてこう付け加えた。「こじらせて犯罪者になったり、不治の病になった仲間がいたとしても、そんな奴はどうでもいいとはならないよ」

「ついで」が構築するセーフティネット

「限界費用がほぼゼロの経済は、経済プロセスというものの概念を根本から変える。所有者と労働者、売り手と買い手という古いパラダイムは崩壊し始めている、生産消費者(プロシューマー)は生産し、消費し、自らの財とサービスを協働型コモンズにおいてゼロに限りなく近づく限界費用でシェアし、従来の資本主義市場モデルの枠を超えた新しい経済生活のあり方を全面に推しだす」※「限界費用ゼロ社会」ジェレミー・リフキン

タンザニア人のプラットフォームはあくまで厳密な互報性を期待するのが難しい。誰かに負い目を固着させることなく、気軽に無理なく支援し合うための試行錯誤の過程で構築されたものである。親切にすることは他者への共感や仲間との共存のためであり、それが「商売」にもつながったら喜ばしいし、幸運なことである。しかし、「商売」のために仲間を格付け・評価したり、競争が目的になったりしたら、親切にすること自体が味気ないものになる。「楽しくない」「面倒くさい」といったごく自然な感覚や、実績や能力で友人を格付けするのはおかしいと言った平凡な公平さでもってあえて「カオス」であり続けることに、市場交換と贈与交換や分配の価値が逆転しない接続の仕方があるように思う。

シェアリング経済を支える「Trust」

仲間に裏切られたという話は頻繁に出てくる。また彼らが裏切られて被ったと語る損失も決して少なくない。他者は簡単に信頼できないことを理解しても、それでも誰かを信じることに賭けて見せることでしか商売は切り拓けない。そして人生の落とし穴は裏切り以外にも無数にある。

裏切りと助け合いの間で

私もひとときではあるが、このわけ与えることの快楽に浸ったことがある。博士課程の院生としてタンザニアで調査していた頃、友人の路上商人や居住区の隣人たちに毎日のように「助けてくれ」「少し融通してくれ」と金品をねだられることにうんざりしていた。当時の私は調査費を稼ぐためにアルバイトをしていたし、実家の両親に調査費の不足を前借りするのも心苦しかった。タンザニアと日本の間に構造的な経済格差があることは承知しているし、彼らの困難に共感しないわけでもない。調査に協力してくれる人々の恩にできる限り報いたいとも思う。それでも気軽に支援を求められると、日本人だからといって「水道の蛇口をひねるようにお金を手にしているわけではない」と言った不満がふつふつと湧いてくる。
ある日、私はお金について悩むことが心底嫌になり、気持ちがプツンと切れてしまった。そして、私に日々たかり続ける仲間たちを集めて、ジーンズのポケットを引っ張り出してみせ、スーツケースを開いて宣言した。「私が持ってきたお金は、これで全部よ。今からこのお金をみんなに分配するから、もう2度と私にお金をねだらないでほしい。それから私は、これから5ヶ月は何がなんでも日本に帰国できない。その間の私の面倒はあなたたちが見ると約束してよね」
集まった仲間たちは提案に賛同し、私の二人の調査助手が全てのお金を全員に分配した。私はそれから約5ヶ月間、彼らにねだる側にまわって暮らした。誰にもお金を無心されず(親しくない人に無心されても仲間達が「彼女はもうすっからかんだ」と説明してくれた)多くの仲間たちに奢られ、助けられ、贈与される日々は幸せであり、降りかかる問題をお金を使わず解決すべく頭を使う日々はスリリングでもあった。隣人のバスコンダクターは無料で毎日バスに乗せてくれた。私が調査のために○○に行きたいと言えば、彼らはその都度私が行きたい街に向かうトラックの運転手を探してきて「この子を乗せていってくれ」と頼んでくれた。古着の露天商たちは、どうせ古着だからと私に商品を貸してくれたので、私は多くの露天をクローゼットのように使っていた。幸いに仲間の大半は商人だったので、食べ物からサンダルまで様々な売れ残りをもらうことができた。いくつかは転売して金銭に変えたり、交換したり、儲かった日には仲間と酒を飲み、儲からなかった日は水をたくさん飲んだり、歯が欠けそうな硬い焼きとうもろこしを食べて空腹を誤魔化した。治療費のかかる近代病院ではなく、親切な近所の伝統医に診てもらうようにした。行商を手伝って稼いだ金もその場で仲間たちに分配した。実際、困ったことなんてほとんどなかった。

私はいつでも、してもらったことやもらったモノと、してあげることや与えるモノとの帳尻に囚われる。彼らの「ついで」を組織する知恵を理解していても、いざ自分ごとになると、私の方が与えていることを不満に思ったり、過剰な要求をしていることに鈍感な彼に怒りを感じたりしながら、相手に気を使わせないように「大丈夫、大したことじゃないから」などとやせ我慢をしていたりする。けれども、そんな不満は、私自身が知恵を絞って解決すればいいだけなのかもしれない。

愛と友情の秘訣は「金儲け」

私が投機性の高い商売に挑戦して一文なしになった場合、どれだけの人が「自業自得」だと責めずに受け入れてくれるだろうか。そんな事態には普通に暮らしていれば陥らないと考えるかもしれない。ただ、「真面目に努力してリスクの管理をし、できる限り誰にも迷惑をかけずに生きる。それこそが大人であり社会人である」と言った規範があまりに強固になりすぎると、無謀な挑戦だけでなく、「案ずるより産むが易し」に見えるような挑戦すらも思いとどまらせることになりうる。

今私たちが生きている世界では「安心」「安全」が叫ばれ、未来を予測可能にし、リスクを減らすべきだという考え方が全面に押し出されている。この考え方は「くれるという確約がないと与えることができない」社会的習慣を強化し、即時的「貸し」「借り」を精算しようとする態度を生み出す。そうした関係では、どちらかが「損をしている」と感じると、好循環の相互性はやすやすと悪循環への相互性へと転化する。

モノやサービス、情報がその時必要な誰かに自然に回るシステム、誰かに過度な負い目や権威を付与することなく回っていく分配システムが市場経済の只中に形成されていくことに私は期待している。ひとときだけ私が経験したような、分け与えることで仲間になり、仲間がその時偶然に有する資源(無賃乗車のメンバーや売れ残りの商品)を分け与え続けるシステムが広いネットワークで実現したらどうだろう。それによって特に秀でてもいないし、時に不真面目でもあるけれど、それでも誰かの気まぐれによって必ず生きていける分配経済のユートピアが築かれることを夢想している。

「彼/彼女は、私を好きに違いない」という幸せな確信が繰り返し人生に起きるためには、バグやエラーが時々起きる不完全なシステムの方がいいのかもしれない。不条理さを都合よく試練だとか愛だとかに勘違いできるくらいのキャラクターが備わっていれば面白い。

最終章 チョンキンマンションのボスは知っている


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?