“ネオヒッピー”という生態系

正確に、すべてを把握しているわけではない。

けれど、あまりにも腑に落ちたので、書かずにはいられない。

今日は、そんな、他愛もないひとりごとを(だいたいいつもひとりごとだけれど)。

わたしがこの町に来て、1年と8ヶ月が経った。

年が明ければ、すぐに丸2年。

新卒で入った会社を2年で辞めたわたしにとっては、会社員をしていた期間よりも長く、この町で過ごしていることになる。

はやい、なんてものではなかった。

毎日、おっかなびっくりな期待やリクエストを受け止めながら、力不足で歯がゆい思いばかりした。

起きることに、いちいち一喜一憂せずにはいられなくて、めまぐるしかった。

「下川町での生活、どうですか」という質問に対して、わたしはよく「光の速さで過ぎてゆきます」と答える。

実際、その速さに振り落とされないようにするので必死だった。

東京では、その“速さ”のほとんどが、人の働きによってもたらされているけれど、この町では人の働きかけに加えて自然の移ろいもまた、ダイナミックに暮らしを先導してゆく。

タイミングが合って、飛び込んだ町。

何も考えていなかったわけではないけれど、何も知らなかったな、と今もなお思う。

電車が通ってなくて、寒いときはマイナス30℃にまで下がる気温、容赦ない長い冬はトイレの水を凍らせ、きれいだと思った花は猛毒を持つ。うっかり鉢合わせるかもしれない人の倍以上ある躰の熊、食用に似た得体の知れないキノコ……などなど。

常に人間は、“生かされている”環境だ。

同時に、「生かされているのは当たり前」──という感覚を、暗黙のうちに了解している人も多いと感じる。

だからこそ、“生かされている”環境で“生きぬく知恵”は、自然と身につけざるをえない。

どんなに文明の利器が発達しても、同じような寒冷地が世の中に幾多あったとしても、暮らしている人は、たったその人、ただ一人ずつだから、生きぬく知恵も、人の数のぶん、あまたある。

その知恵は、暮らしている人たちの生活力を底上げしてきた。

ただ、過酷な環境でわざわざ暮らし続ける理由を語るには、鍛えられた生活力だけでは、足りない。

知恵を絞ってでも住み続けたい理由があるからだと感じる。

隔絶された半径ウンキロメートルの中で、循環するエネルギーや資源をできるだけ生成&消費しながら、自分の生活をつむいでゆく──

そうしたサイクルが回る(もしくは回したいと模索する)コミューンに所属し続ける人々は、“生かされている”環境で、生活の知恵を分け合い、暮らす。

この、隔絶、循環、コミューンという3つは、かつて1960年代から湧き出たカウンターカルチャーとしての「ヒッピー」というライフスタイルを定義づける要素だったという。

ヒッピー、と言って思い浮かぶのはドレッドヘアに、ゆるっとしたシルエットのワンピースやサルエルパンツなんかを履き、もしくは裸でドラッグをキメてトンで歌ってお酒を飲んでフリーセックスを楽しんでるラブ&ピースな人たち……という、安易すぎるイメージ。

ヒッピーという言葉の成り立ちは、諸説あるらしい。

ジャズ用語の「hip」から来ているとか、「Hipstar」という言葉からきている……とか。

この「Hipstar」が、わたしにはあまり馴染みのない言葉だったから調べてみたけれど、「もともと貧困層が暮らしていた地域を再開発して富を得た地域の、若者によって勃興したサブカルチャー」という部分がとても興味深かった。

The hipster subculture is stereotypically composed of young adults who reside primarily in gentrified neighborhoods.[1][2] It is broadly associated with indie and alternative music and genres such as chill-out, folk, modern rock, pop rock, and post-Britpop.( Wikipediaより)

“ヒッピー的な人”としては、ジョン・レノン、オノ・ヨーコ、寺山修司、スティーブ・ジョブズなんかも名前が挙がっている。(Wikipedia参照)

ヒッピー的なライフスタイルや、価値観としてよく登場するのは、サステナビリティや、オルタナティブ、ナチュラル、禅、ヨガ、アミニズム……などなど。

カルチャーは、人の営みで濃淡が生まれる。

グラデーションだから「これとこれとこれがそろったら、ヒッピーです!」というチェックリストがあるわけではない。

実際、わたしはヨガが好きだし、アミニズム的思考もおおむね同意する派なのだけれど、ざっと調べたヒッピー文化の概要には、違和感を覚える部分もある。

ただ、ヒッピー的な生態系や生活文化に、学べるところも多い。

同時に、隔絶、循環、コミューンという3つの切り口においては、この町にもヒッピー的な生活文化・文脈が、多かれすくなかれ、当てはまるように感じる。

加えて、1960年代に生まれたヒッピーカルチャーとは、また少し毛色の違う、“ヒッピー的生態系”が育まれているような気がしてならない。

現代版ヒッピー、言うなれば“ネオヒッピー”的生態系が、じわじわと、築かれている、ような。

何がどう現代版なのか、何が“ネオ”なのかは、まだしっかり言葉にできるわけではない。

“生かされている”環境で、自らの暮らしのこまごまとしたことをつど選択して、生きてゆく──それは、“選択できない者”には手厳しい地域であることも表していると思う。

選ばなければ、生きていけない。

誰もかれもは、生きていけない。

世知辛くとも、そういう地域が、静かに、根気よく、そしてしぶとく、残り続ければ、“ネオヒッピー的生態系”は、未来の生存戦略の実例になるかもしれない。


……余談ですが、いま猛烈に興味があるイスラエルにも、そういえば「キブツ」という農村コミュニティがある。

イスラエルが建国される前からキブツは存在していて、暮らしている人々が小さな集落を作って住んでいる。行ってみたいな。

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20180101〜/雑記等

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