それでも、分かり合えないあなたと生きていく
ここ数年、ずっとずっと。
わたしのなかで繰り返し、声にも出すし、言葉として書き留めていることがある。
それは「人と人とは分かり合えない」という、現実。
初めて、こう思い知ったのは、一人で海外をふらふら旅していた、5年前。
動物的な分類で言えば同じ生き物だとしても、もう人間の力ではどうしようもできない、湿度や雨の頻度や日照時間、植物の種類や空の広さで以って、
何億年もかけて培われた細胞の影響を受けた世界に生まれるわけで
まったくもって、個別に違ってあたりまえなのだということを
数え切れない言語のはじめましてとさようならを繰り返して学んだ。
けれど日本に帰ってしばらくしたら、猛烈な劣等意識は「分かり合えない絶望と希望」を呑み込んでしまって、「どうして分かってくれないの」という心のささくれが、元に戻ってしまった。
けれど、今でも鮮明に思い出す。
ある日、好意を寄せていた人から問答無用の拒絶を受けて、「わたしはあなたを理解したい」というわたしの想いは一切叶わず、受け止められることなく抹消された。
ばたん、と閉じた重たい扉。
いつもは外まで見送ってくれていたけれど、その時は扉を片手で抑えて少し開けただけで顔すら伏せて、よく見えなかった。
分厚い扉で分断された、わたしの「あなたを理解したい」という“欲”。
それは満たされることなく宙ぶらりんにこっちをじっと見つめて、ぽつりと言った。
「あの人を理解したいと思う、この欲望は、あなたのただのエゴ。あなたはあの人を理解しようという振りをして、自分を理解してほしいだけでしょう。あの人はあなたを理解したいとは思っていない。その事実に、本当は気づいていたでしょう?」
あれれ、とわたしは思った。
「あなたを理解したい」という欲が、いつのまにか「わたしを理解してよ」という欲に裏返ってしまっていた。
あなたを想うことが、わたしのエゴに、なって、しまって、いた。
はたと、気付く。
わたしはいつだって自分がかわいくて仕方なかったということ。
焦燥に駆られて自虐的に自分を貶めて這い上がることばかり誘発していたけれど、
誰かに傷つけられるくらいなら、自分で自分を痛めつけておけば誰もわたしを傷つけないと、勘違いしていたみたい。
ボロボロの自傷行為を見たところで、誰が慰めてくれようか。
誰が、手を差し伸べてくれようか。
他人を理解したいと思う前に、わたしはわたしを理解しようともしていなかったくせに。
本心に気づいてしまえば、後戻りできないことに気づいていたから。
でもさ、ともう一人のわたしが言う。
後戻りできなくたって、いいじゃない。
何も死にゃしないさ。
失くすものも無いしさ。
体が裂けてしまうんじゃないかってくらい、傷ついて傷つけられて、それでも明日もどうせ生きていかなくちゃいけないんだから。
どうせ迎える明日なら、ズタボロに虐められたわたしを押し退けて誤魔化す日々を重ねるより、
傷が痛いよと、泣いて泣いて泣いて泣いて泣いてしまえよ。
さすれば知らないうちに、1週間くらいたってるよ。
分かり合えないところから、わたしたちは始めなければならなかったね。
分かり合えないから、細かい違和感や視線の歪み、1日の始まりが億劫になってゆくその理由を、言葉少なでもいいから、相手に伝えなければいけなかった。
伝えないことは、怠慢だ。
伝えようとしてくる人に対して、同じように答えたいと思えないなら、それは怠慢か逃避か、はたまた本当に肌が合わないか。
わたしがあなたを理解しようとして、いつのまにか我儘に、わたしの話ばかりしていたとしたら、ごめんなさい。
今度は黙って、あなたの話を聞きましょう。
わたしとあなたは分かり合えない。
でも分かり合えないから、分かり合える瞬間なら分かち合えるかもしれない。
そのまたたきを、見逃さないでね。
その一瞬を、ないがしろにしないでね。
あなたがわたしを理解したいと思うなら。
あなたがわたし以外の誰かにも、想いを馳せることがあるとしたら。
その人の言葉が、あなたの塞いだ耳を突き刺して、全てをえぐりとるようなことがあったとしても
あなたが
わたしが
その人を理解しようと両手を差し伸べた時から
世界はあなたにひらけている。
理解されなくて片隅で泣いていた世界が
少しずつ、あなたの世界と溶けてゆく。
だから、どうか怖がらないで。
わたしがあなたを傷つけること、あなたがわたしを傷つけること。
それは分かり合えない者同士の、必然。
そして、分かり合えない者同士が、なんとか人間を諦めないで生きていく、たった一粒の、希望の光。
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