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「甘え下手」の真実

「甘える」ということについて、考える。

先日、数年来の友人たちと話をして、話題はわたしの甘え下手っぷりについて、展開された。

(物理的に)相手に身を委ねたり、(概念的に)事の展開を委ねたりするのが、苦手なわけではないけれど、どこか常に身構えている。

「わたしはこういうスタンスで、あなたと向き合っています」と一線を引く感じ。嫌味でも謙遜でもなく、そうした方がお互い実りのある時間になるでしょう──という心構え。

でも、常にその姿勢のままだと、スタンスとかどうでも良い気分になったときの振る舞い方が分からなくなる。

どうでもいい気分、というのはつまり「あなたがどんなスタンスであろうと、お近づきになりたいワ」という、ドキドキな気分のことだ。

お近づきになりたくても、お互いに、お近づきになる理由がなければ、お近づいてはいけない気がする。

わたしが一方的に「ただ会いたいワ」と情熱のままにぶつけたところで、その思いが上滑りしてゆくのが、こわい。

だからつまり、甘えるということは「相手のスタンスを無視してでも自分の気持ちを伝えること」だと、わたし自身思っているのだ、たぶん。

ゆえにそうすると、特に理由がないのに会ったり話したかったりするケースでは、何かとってつけた理由が必要になったりする。

それっぽい話題を隠蓑に、わたしは相手のスタンスを推しはかり、適切な距離で対峙しようとする。

だから友人からは「あなたと話している相手は、悩んでいることや考えていることを、あなたに話すことで壁打ちして解決できる。モヤモヤはすっきりするかもしれないけど、あなたと話して楽しかったという記憶より、あなたと話すことで自分がすっきりしたという感覚が先に来るのでは」と分析された。

なるほどたしかに、思い当たる節があるなあと思いながら、じゃあその姿勢は、崩すべきなのか否かというと「崩さずとも“抜け感”が必要なのかも」などと自己分析。

慣れというのはこわいもので、「あなたとわたし、それぞれこういうスタンスで、だからわたしたちは時間を共にする」というふうに、常に議題がないと落ち着かなくなってしまう。

「ただなんとなく」という感覚が持つ新鮮さを、ピュアに讃えることもできるのに、とりわけ人間関係のうち、社会に出てからの関わりは、ファイティングポーズを構えがち。

わたしが構えれば、相手も構わずにはいられないのにね。

知らず知らずのうちに、緊張感を与えたり、とっつきにくさを与えているものかと思うと「そんなつもりじゃないのに」と言ったとて、とりいそぎの解決策は、癖になってしまった自分の振る舞い方を改めるしかない。

すべての人に対して、ファイティングポーズを解かなくてもいいと思うけれど、隙あらば、「あなたが何者であろうと、どんな議題を持ち合わせていなくても、対峙することそのものが喜び」という気持ちを、伝えることくらい、思い切ってやってみたい、な。

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