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どうして遺影に語りかけてしまうのか?

父が他界して二年になる。
毎日のように眺める遺影は、母と海外旅行に行ったときの記念写真。
やさしく微笑む父に、心の中で日々語りかける。
「どうか家族を見守っててね、よろしくお願いします」

遺影の写真は、過去のものだ。
旅行の記念写真なのだから、その笑顔はもちろん私に向けられたものではない。
にもかかわらず、なぜか遺影を見ると、その笑顔は私にも向けられているように感じる。
いや、私だけではなく、もっと広く、この世界に向けられているように思えるのだ。

この感覚はもしかしたら、仏像を拝むときと似てるような気がする。
父は「仏様」になったのだから、当然かもしれない。
でも、なぜ過去の写真が仏像化するんだろう?
そんなことを考えていた折、こんな記事が目に留まった。

葬儀社を営む知人の増井さんのnote。
この記事の中で、桜井山真福寺住職の田中さんの文章が引用されている。

誕生を祝い、結婚を祝い、死の別れを悼み、感謝と安寧を願い、悪霊退散を願い、邪気払いをして、清浄な魂となって、現生の子孫を守ってくれることを願う儀式をする。それが葬儀である。

葬儀という儀礼を通して、父は魂となり、家族を見守る「ご先祖様」になったのだろう。
だから私は遺影に向かって「どうか家族を見守ってね」語りかける。
生きている私達とは、違うステージにいるという感覚だ。

一方で、こんな記事も見つけた。

この記事の中に、面白いエピソードが紹介されている。
要約すると、こうだ。

ある会社の創業者が亡くなり、社葬後にお別れの会を開いた。
大きなスクリーンに、創業者の静止画が映し出されている。
参列者が静止画に向かってスピーチを行うのだが、何故か途中で静止画が動画に変わってしまう。
動画になると、登壇者は参列者に向かって話す。
また静止画になると、スクリーンに向かって話す。
さらにまた動画になると、何だか居心地が悪くて話しにくそうで…

これはつまり、静止画は遺影とみなされるのに、動画は遺影として機能しないということだろう。

動画は、過去のある時間がそのまま再生される。
音や動きがあり、周りに誰がいるかもわかる。

ところが静止画=遺影は、動きも音もない。
故人だけが切り取られるから、周りに誰がいるかもわからない。
こうやって情報を削ぎ落とされたからこそ、遺影は仏像のように普遍的な依代のようなものになるのだろう。

遺影の父は、微笑んでいる。
その笑みは、私に向けられたものではない。
でも私には、私にも向けられているように感じる。

それは多分、父が儀礼を通して「あちら側の人」になったからなのだろう。
遺影は、私が父を思い出すためのフックとして、私が死ぬまで大事にすることになるのだろう。

ねえお父さん。
遺影、あの写真で良かったかな?
私達にはあの写真のお父さんが一番うれしそうで、お父さんらしいかなと思ったんだけど。
お父さんはやさしいから、きっと「お前たちがいいなら、それでいいよ」って言ってるよね?

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