キルギスの草原、現代の複業遊牧民の台所
乳製品加工の知恵を知りたくて、キルギスの草原の遊牧民の台所を訪れた。
訪れたソンクルは標高は3300メートル、富士山頂くらい。キルギスは中国と国境を接し、国土の大部分を天山山脈が占めるため、3000メートル越えの高原がけっこうある。ところが私は隣接するウズベキスタンやカザフスタンと同じように砂漠をイメージしてTシャツ1枚でよいと思っていたので、日本出発する前に慌ててダウンを買った。
最寄りのまちから車で走ること3時間。ぽつんほつんとユルタ(遊牧民のテント)が点在するエリアにたどり着き、このあたりかなと思っていていたらさらに進んで、10個ずつくらいのユルタが群居するユルタホテルエリアに。紹介されて目指していたのは、想像していたいわゆる遊牧民ではなく、遊牧の副業として宿泊業をやっている家族だった。
そんな家族の台所では、外国人のお客さんにあわせた料理が作られる。野菜の炒め蒸しディムラマやサラダを作りながら、「私たちは肉と乳と小麦粉でいいんだけどね」と言う。
大きな餃子のようなマンテは、通常は牛肉と玉ねぎに牛の脂身を加えて作るところ、「外国人のお客さんには脂っこいらしいから」と、脂身を控えじゃがいもを入れてつくる。
乳製品加工やいずこ。ちょっとがっかりしたものの、こういう複業遊牧民は少なくない。現代のリアルな遊牧民の台所が知れたのも、またよし。
毎食じゃがいもの皮むきから皿洗いまで手伝ううちに、家族のお茶の時間にまぜてくれたり、おやつのミルクを分けてくれたりした。そこは乳と肉と小麦の世界だった。
観光化された暮らしに見えても、生活の土台はやっぱり遊牧。宿のことを女性たちが切り盛りする間、男性たちは馬や牛の世話をする。
家族の生活する小屋に誘われて行くと、馬乳で作ったクムズ(馬乳酒)の樽があり、子どもも大人もグビグビ飲んでいた。
野菜は、ユルタの地下に掘った穴に保存している。近くのまちコチコルに買物に行くのは週一回。外においておくと夜の寒さで凍みてしまうのだろう。ここは電気が通っていない。ユルタの地下が冷蔵庫だ。
水は井戸から汲み上げる。
ペチカ(暖房兼料理用ストーブ)の燃料は、そこらじゅうに落ちている牛糞だ。水を汲んだり糞を集めたりと、馬が草を喰んでいる間もお父さんは忙しい。
3000メートル級の高地になると、木など一切生えていないし、草だって数センチくらいの背丈にしかならない。燃料となる植物がない。そこにきて牛糞燃料というのは、非常によくできている。牛は草食動物の中でも特に消化能力が高くて、4つの胃袋で消化された後の糞は、ほとんどが繊維質。そして草原の牛糞は肥料の牛糞とは別物で、カラカラに乾いて見た目は土壁のよう、匂いもない。牛は、人間が食べられない草を食べてミルクや肉を与えてくれるだけでなく、燃料も作ってくれるのだ。この牛糞燃料を使って、調理をしたり部屋を暖めたりする。
話が逸れるが、SDGsのゴール7「エネルギーをみんなにそしてクリーンに」の議論の中で、「クリーンなエネルギーとは、風力、太陽光、地熱など。石炭や石油はよくない。また貧しい国では動物の糞で調理をする人たちもいる」という話を読んだことがある。ずっともやっとしていたけれど、改めてその文章を読んでみたら違和感の正体がわかった。パキパキの先端技術に囲まれ、草原や動物とともにある暮らしを見たことのない人が書いたのではなかろうか。
話を戻す。
水も食材も燃料も、台所の中にはない。彼らの台所はむしろ草原で、それぞれのものがあるべき場所にあって、人間がそれらを借り集めて料理をしているように見える。IHも水道も冷蔵もすべて手の届く範囲にまとまっている台所に慣れ、人間中心設計というデザイントレンドになんの疑問も持ったことのなかった私には、はじめ「大変だなあ。効率化できそう」と思えて仕方なかった。しかしそういうものを超えて、惹きつけられる何かがあるのだ。当たり前のこととして水を汲み、地下の野菜を取りに行き、毎朝燃料を拾う姿を見ているうち、効率とかなんとか考えていたのが恥ずかしくなってきた。
ところで、ここに住む遊牧民は、6~9月の夏の間だけ草原で過ごし、秋冬春は街の家に生活するという半遊牧の形態をとっている。子どもたちは学校に通うため街に住み、夏休みの間だけ草原のユルタに行く。料理するお母さんの横で子どもはスマホでYouTubeを見ていた(街で動画をダウンロードしてきたのだろう)。完全な遊牧生活を送っている人はほぼおらず、この家族のような複業も多いという。
定住化が進み、生活は変わってきている。けれど、それでも根底に流れる変わらぬ精神はたしかにあるのだ。
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