年齢というのは、一つの暦にしかすぎないけど、 とはいえ、考えることは変わってくる。 私はいま、36歳で、 まだ0歳にも満たない人を、お腹に宿している。 この子には、これから、 どんなことでもチャレンジできる人生が待っている。 そのことが、嬉しくて切ない。 じゃあ、自分は何かしたいのか考えてみる。 すると、若いころのように、 少々無理だと思われるような「夢」すら、浮かんでこないことに気づく。 だけど、虚しい気持ちばかりではないことにも気づく。 きっと、 その歳にし
夜の星乃珈琲店で、「君は誰と生きるか。」を読んでいた。 思っていた内容とは少し違っていたけど、 大きくは共感できた。 利益のための人脈づくりは、本質的には無駄だということが書かれていた。 私は、元々、利益のためのつながりなんて求めてない。 本当のつながりが欲しい。 じゃあ、本当のつながりって? 今のところ、それは、 無条件に大切に思える人との間に生まれるものだと思っている。 大切に思えるだけでは、だめなのかもしれない。 きっと、その人の間に、何らかの心の重なり合い
最近、悲しい夢をみる。 よく見る類は、母に理解されなくて怒っていたり、 友達とうまく噛み合わず孤独に苛まれる教室の中だったり。 寂しく、その吐口がないまま、泣きながら目覚める。 私には、心の話を気軽にできる、母や友人がいない。 度々訪れる孤独の波の一つに、「死」がある。 人は、生まれながらに「いつかの死」に対しての恐怖を感じない能力を備えているらしい。 どうやら、私はその能力が少し乏しいようで、 幼い頃、自分より先に死んでしまう、台所に立つ母をみて泣いていた。 いま
小学生の頃から日記をつけている。 あの頃は、今より自分とは?について悩んでいたから、 よく、寝る前の枕元で、 「本当の自分が分からない」と書いていた。 自分が分からないから、 人との接し方も分からなかった。 誰とも、心でつながる感覚がなくて、 毎日それを求めて、すごく孤独だった。 あれから25年ほど生きて、 昨日、再び大きな孤独が押し寄せてきた。 まだ、太刀打ちできなかった。 一つ変わったことは、 孤独は無くならないのだと、小さく悟ったことだ。 たぶん、その人の生
9歳の息子が、いつかくる南海トラフがこわいと、泣き出した。 自然の中で生きるってことは、そういうことだから。 とは言えない。 「地震がこわいときどうしてた?」 と聞かれたけど、 私も同じように泣いたりしていた。 ぎゅっと抱きしめてあげることしかできない。 不確かな「大丈夫だよ」という言葉を届けて。 一人寝室で眠るのはこわいから、今日はリビングで寝ている息子。 寝顔を見て思うのは、これまでの思い出たち。いつも、この顔を見て、毎日過ごしてきた幸せと喜びを思い出す。 思
これまで、誰かと一緒に住むことを何度かしてきた。 両親、恋人、夫婦。 それらが終わりを迎える時、 寂しさとは逆の、あたたかな何かに包まれている心地だった。 なぜなら、それまでの日々こそ、寂しさの絶頂だったから。 それは、心の振れ幅の違いだったり、 大事なものの価値観のズレだったり、 生きていくことへの課題感の違いだったり。 趣味や、好み映画や本が違うなんてことは、 ちっとも問題ではなくて、 心が、まるで別世界で生きているモノ同士のように、 見事に絡み合わないと分かった
ここ4年ほど、ずっと年末年始に家から出られないほどに体調を崩しています。 今年も同じく・・ 夫と来年10歳になる息子を夫の実家に送り出し、 酷いつわりとお留守番。 妊娠するのは10年振り。 私は、離婚を2回していて、 どちらも、とても苦い時期を過ごしたので、 前回の妊娠の思い出も、何だかストレスだらけの中、 過酷なシーンしか思い出せない。 あんまり話すと、暗い文章になってしまうので、また徐々に書きたいと思っていますが、 35歳の今、結婚=幸せという考えは持っていない。