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文化的差異なんだってば!

 つい最近,
「西尾さんてナニモノなんですか!?」
とストレートにお聞き下さった方があって,しどろもどろしてしまった。いや,それは自分でもよく分かんなくて・・・色々,中途半端な感じで・・・すみません。と全方位に向かって謝りたい気持ちになりましたです。

 noteの投稿でも看護師してた,大学院行ってた,でもよく分かんないけど哲学の勉強もしてたっぽい・・みたいな散漫な感じで,「???」が飛んで読みにくかったら申し訳ありません。すんごーく簡単にお伝えすると,精神科の領域でデイケアのスタッフをしたり訪問看護などしたりしながら,大学院でデイケアの研究をしていた。デイケアの豊かな営みを研究で明らかにしたいと思って数量的な研究に取り組んだものの,「・・・そもそも数字で表現って無理なんぢゃね?」という根本的な壁にぶつかって挫折&留年。お先真っ暗状態の時に現象学という哲学を手がかりにした記述的研究に出会って,先生がたにとんでもなくお世話になりながら修論をまとめて卒業。という劣等生ぶり。最近のnoteで発達障害や知覚の話を続けてしていたけれども,大学院での研究テーマはそれらと全く関係がなく,「デイケアという場所がどのように成り立っているのか」を記述するというものだった。

 治療とかリハビリとか,そういう既存の概念を棚上げにして,そこで起こっている現象をありのままに記述する。その研究を通して,デイケアにはスタッフとメンバー(患者さん)とがともに築き上げている,固有の文化があるんだなぁということがよく理解できた。まだ明文化されていないけれども既に共有してしまっているような言語以前の営みを,記述によって浮かび上がらせることが(自分なりに)できたということは,自分の経験としても非常に大きなことだった。

 そして思ったわけですよ。
この明文化されていない,「文化」としか言いようのないものに馴染まない人がいらっしゃるなぁと。

 その方々は発達障害をベースに持っておられることが多かったように思うが,ただ「発達障害」というカテゴリーでくくってしまうのは雑であって,やはり脳由来のある認知特性を割と強く持つ方,と表現すべきだろう。実際「発達障害」と大きくくくってしまうと,その中には馴染む人もいらっしゃるので,もっと細かいところで起こっている現象なんだと思うからだ。

 たとえば。本当に小さな一例だけれども。
「居場所」としての機能の強い家族的な雰囲気のデイケアは目標志向型の場所ではなく,予め目標をはっきりとさせるよりはむしろ,関係性の中に(お互い)身を投じながら回復を探っていく営みが成り立っている。そのため当然のことながら,「目標志向≒行為に理由を必要とする認知特性」が強い方が居場所的なデイケアでやっていこうとする場合,認知的な不協和を起こすことになる。でもご自身の認知特性を正確に把握されていることは稀なので,「この場所はどういうところなのか」「ここで何をしたらいいのか,何を求められているのか」が分からずに混乱される。その混乱の中で何とか手がかりを得ようとするご本人なりの模索は,例えば関係性がはっきりしていないと不安なせいで「スタッフはスタッフらしくしていて欲しい(こうあるべき)」というような主張として表現されたりすると,(支援者側の)制度への批判とかクレームとして扱われてしまったりする。というのも(表面的に)構造化されていないということを是とする環境において,「構造化せよ」という主張は相反するものであり,非常に脅かされるものだからである。

 そしてここからが非常に厄介なのだが,そうなると医療の権力構造が突然露呈することになる。表面上構造化されておらず,スタッフと利用者は対等な関係を築いているようであるが,もちろんそこにはある種の欺瞞があって,「支援者」「利用者(患者)」には明白な権力関係はないのではなく,そもそも「ある」のだ。それをもってしてデイケアで築いている家族的関係は「嘘」である,なんていうことは決して言わない。親子関係という家族の枠組みだってそうであるが,明らかに「親」は「子」に対して権力があるが,それを行使して「支配」するか,家族としてあたたかい対話的な関係を築いていくかは「選ぶ」ことができる。でも決して忘れてはならないのは,親は子を支配できる権力を持ち,そうした力の非対称性は実際に「ある」のだということである。権力を行使できる立場にいながらそれを抑制するという,非常に成熟した態度が求められるのが(年長者としての)「親」の役割なのである。それはデイケアという家庭的環境に於いても同じことであり,支援者と利用者の間には明白な権力関係(上下関係)がありつつ,その行使を抑制して関係性を構築していくことに意味があるのだと言える。

 しかし制度を批判されたというふうに受け取った場合,どうしても支援者は「変わるべきはあなた(患者)」「そこがあなた(患者)の課題」というふうに権力を行使してしまいがちである。「だって社会適応を目指しているのは,あなた(患者)なんだから。」と。理屈は通っている(かのようである)。でも「ない」かのように装われていた権力関係が突如目の前に表れれば,利用者(患者)はより混乱する。言語能力の高い方なら,その話の整合性を求めてますます理屈っぽくなり,説明を求めてこられるだろう。一方言葉にしにくい方は,言語以外の,たとえば暴力などによって表現されることもあるかもしれない。下手をすれば面倒くさい攻撃的な人認定されてしまうことさえあるだろう。こうなってくると,事態を鎮静化させようとよりパワーが使われることになっていく。悪循環である。

 でも,ベースにあるのは認知特性による「安心できて居心地のいい」環境が異なるという文化的差異であり,相性の悪い環境での不安が招いている事態である(場合の話をしている)。単に「文化的に合わないね」っていうだけのことが,正しい医療,正しい(治療)関係をめぐる覇権争いみたいなことになり,ひどいことに権力者が必ず勝つに決まっている。結局医療が,「ここですらやっていけなかった」自分に打ちのめされる,というような人を生み出してしまっているのも事実である。

 他人事のように書いているが,そう短くない間医療者としてやってきた私もそこに加担していたのである。それこそ懺悔の気持ちでいっぱいだし,その気持ちこそが今の私の原動力となっている。

 念のために言っておきたいが,私は何も医療を批判したいのではない。デイケアが好きでデイケアの研究をし,デイケア固有の文化を愛している。この世界から失われてほしくない豊かさを内包する場所であると思っている。でも一方で,ある認知特性から別様の文化を持ち生活している人々もいる。それはどちらが正しいとか,間違っているとかいう話ではなく,文化とは優劣ではなく「多様」なのである。そこを押さえずして,「ここに適応せよ」と一方的に強いるのは,医療においてだって,教育(学校)においてだって,それは「暴力」なのだ。医療だけではなく,不登校を巡ってなど,教育でだって同じことが起こっている。どこの社会においても「多様な文化」を担保する,その制度設計が急務になっているという話をしているだけであって,医療が悪い,教育が悪いという枝葉の問題を批判したいのではない。

 たとえばですよ。
日本語話者ばっかりのところに,英語話者の人がやってくる。日本語の文化も,英語の文化もそれぞれに固有で素晴らしい。でも日本語話者たちが英語話者たちに,「あなたが望んでやってきたんだから,日本語を話せ」とか,「日本語を話さないなら,英語文化圏へ行け。」とか言ったら,それは「排除」とか「差別」っていう暴力になる。そうじゃなくて,文化が違うという認識をきちんと共有した上で,日本語話者の環境で英語話者の人が暮らしていきたいのかどうか,そしてそれを望むならどうやって一緒にやっていけるか考えなくちゃいけないし,いやいや日本語話者しかいないんだったらやっぱり英語話者の環境に行きますって選べる選択肢もないといけない。どう転んでも「日本語話者の中でやっていけないのは,英語話者の自分が悪い。自分の課題だ。でも居場所がない。」なんていう傷つき体験にならないような,そういう社会になっていけたらと思う。

 そしてそういった対話(コミュニケーション)のコストをまず払うべきなのは,常に権力を持つ側(医療だったら支援者,教育だったら先生)である。そのための権力構造だろう,とさえ思う。フラットな関係性においては,そのコストをどちらが払うかという利害関係が生じてしまうからだ。最近「聲の形」という映画を観たが,聾者の子どもが何の配慮もなされずに健聴の子どもたちのクラスに入れられて壮絶ないじめにあうという状況が描かれていた。友達というフラットな関係において,配慮というコミュニケーションコストを一方に負わせ「続ける」ことの難しさを感じずにいられなかった。授業についていけない聾の少女をクラスメートがフォローする,というような状況が放置されずに,まず学校側がその少女の学習をしっかりと保証(合理的配慮)しなければ,少女とクラスメートの関係は「負担」と「負い目」がつきまとってしまう。もちろん友情関係において自然と配慮が生まれもするが,映画ではその手前でつまづいてしまう様子がリアルに描かれていた。

 だからね。
医療にしても,教育にしても,文化的差異が問題になったような場合は,まず真っ先に支援する側が対話のテーブルにつかないといけないんだと思う。こっちの文化ではこうなんだけど,どこが違って困ってる?あなたはどうしたい?私たちに何ができる?それを投げかけるべきは,支援する側であるはずだと私は思う。でも現状は・・・支援する側が「文化的差異」に気づいていなかったり,そう認識することを拒むことさえあり,支援を受ける側が「サポートブック」や「私の取説(取扱い説明書)」を作って「お願い」する形になっていないか。

 ・・・とやっぱり批判めいた結論になってしまったが,自戒をこめて書いている。いつだってどこでだって覇権争いを起こしたり,あるいは巻き込まれるリスクはあるんだから,「ちょ待って!これは文化的差異の問題なんだってば!」って引き戻してもらえるような関係や場所があるって大事だよな,と思っている。それは私にとって,当事者研究(的活動)だったり,Twitterだったりしている。

 その話はまた今度。

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