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人生で初めて嘘をついた話

こんにちは。
ホリプロインターナショナルの「こたつのテーブルと布団の間に挟まっている下敷き」こと実島大喜です。

今回は自分の人格形成の一つにもなっているであろう話。
最後に「この話も嘘って言ったら、どうします?」なんて洒落臭い冷めることは書いてないのでご安心を。


実家に帰るたび目にする小さなトロフィーがある。大きな棚のガラスの奥に置かれた安いメッキのそれを見る度に、子供の頃は悔しく、大人になった今は孤独感を感じる。

そのトロフィーを手に入れたのは保育園生の時。
自分は絵とアニメと一輪車が好きで、かけっこが速くて、地味にババロアが好き。そんなイメージの子。保育園では年に一度園の外周を走るマラソン大会があり、練習では必ず1位を獲っていた。しかしある時風邪をひいてしまい、暫くの間保育園をお休みしていた。当然自分が休んでいる間にもマラソン大会の練習はある。当たり前といえば当たり前だが、そうなると別の誰かが1位になる。その別の一位はSくん。園内では自分とSくんどちらが一位になるのかと話題にもなっていた。

そして本番当日、保育園の運動スペースに全員が集められて準備体操をする。緊張と興奮から僕はSくんに声をかけた。

「絶対手を抜くなよ。」

アニメに影響受けてるであろう全力でカッコつけた言葉に、Sくんは「負けないぜ。」と応えてくれた。それが凄く嬉しかったのを覚えている。勝負は好きだし、真剣に約束を交わせたことでやる気が俄然出た。

結果は1位。王様みたいな気分だった。
マラソン大会がある日はそれで一日の予定が終わるため、普段よりも早く帰れるし、チョコの入ったパンと牛乳を貰える。しかも勝ち取った1位とトロフィーもセットとなると達成感に肩までどっぷりと浸かれた。

後日いつも通り保育園に行き、いつものように過ごしていると先生に呼び出された。誰もいない夕日の光が入ってくる影の強いオレンジ色の部屋で先生と二人きりになり、子供の自分でも良くない雰囲気だなということはぼんやりと感じ取れる。重たい空気の中先生は、マラソン大会の時のことなんだけど、と口火を切ってこう続けた。

「Sくんに手を抜けって言ったんだってね。」

全く身に覚えないことを、良く見知った人間が唐突に言ってくるものだから一瞬理解が追いつかなかった。しかしそんな事実はない為、言ってませんと答えると先生は「でもね」と続けた。先生曰く、別の園児から実島くんがSくんにそう言っている所を見たという主張だった。
自分にとって正々堂々の約束が、八百長の口合わせにされていたのだ。
初めての経験に恐怖心を感じ始め、何度も否定をしたが先生は話を信じてくれなかった。どうしてこの人は信じてくれないのだろうか。当時大人という存在は絶対的な者のように感じていて、大人は間違えないと勝手に思い込んでいた。
その絶対的な存在から責め立てられている状況で、トドメの言葉をかけられた。

「Sくんにも聞いたらそう言われたって言ってたよ。」
それを聞いた時に急に涙が止まらなかった。Sくんがなぜ嘘の証言をしたのかは分からない。別に悪意があったわけでなく、何の気なしにそう答えただけなのかもしれないし、カマをかけるため先生がその場で適当に言ってきたのかもしれない。
誰も信じてくれない。という絶望感にもう完全に心が折れてしまっていた。だから、

「言いました。」と嘘をついた。

他人にも自分にも初めて嘘をついた。
嘘をつくというのはこんなにも気分の悪いものなのかと驚いた。
言質を取った先生の説教は勢いを増したが、自分の鳴き声で頭には入ってこなかった。肩を掴まれて怒られても、只々この時間が早く終わって欲しい祈りと、偽りの懺悔に費やした。
努力と結果を他人の嘘で汚され、その汚れに自分で蓋をして事実にしてしまった。嘘をついたのに、白状したことにされる。何から身を守る為に嘘をついたのか、そんなことも分からず後悔しながら泣く。なんて情けなく臆病で愚鈍で小さな自分。
この件がトラウマのようになってしまったのだろう。それからは、
「やってないことをやったと決めつけられること」
「やったことをやってないと決めつけられること」
に関して強く感情が出てしまうようになってしまった。時には感情的になりすぎて人と口論になってしまうことも何度かあった。
今はこの弱点を自覚している分冷静に対応できるようになっているが、結局対応できるだけで内心には畏怖と悲しさは生まれる。

この件は自分にとって長らく恥や汚点になっているから話題には出さなかったし、忘れるべきだったのだろうが、トロフィーが忘れさせてはくれなかった。
あの時に「言っていない」「本当は手を抜くなよと言った」と本当の事実を貫き通せたのなら、今の臆病な自分はいないのかもしれない。
だけどこの件があったから、人伝の良くない話には口調やニュアンスに誇張がないか、内容によっては事実と決めつけないように気を払うようになった。

そういう考え方になった今、あのトロフィーを見ると「あの時そばにいて欲しかった大人になろうとする自分」になぜか少しだけ孤独感を感じるのだ。

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