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考えた2.がんばる

つい、最後、「がんばります」でしめてしまう。
ツイッターでもらった応援に返事するときとか……

一行で:できないときにはがんばらない

首を痛めて、仕事ができなくなった旨を仕事先を含む諸方面に伝えたら、反応が三種類に分かれた。

1.すぐ休め、無理するな。(こちらのことはまかせておけ)。
2.大変だ、期限を延ばしましょう(量を減らしましょう)。
3.それ、ホント? 
 (診断書を提出しろ・よその仕事とかしてないですよね?)

特に印象的だったのは、1番の内容を言ってくれたひとびとだ。
わたしが彼らにかけた累積迷惑数でいうと、3より2より、1が断然多いんである。(主観・本当は比べるものじゃない)

いつも、1の人たちには申し訳ないと思っていた。ちょいちょい、存在してごめんとか、ああもうだめだ仏の顔も何度目だとか、思ってた。

だから今回の首の負傷で、また迷惑かけてしまう、とうとうダメになる、と残念に思ったのも、1に対してが一番強い。
2の人たちは今までも交渉上手な人たちが多くて、結構、ごり押しをごり押し返してきたので、申し訳なさみたいなのはわりと低めだった。こちらも代替案を持っていたりして。

1の人たちは、だいたい口をそろえて、
「いつもがんばってもらってるんで、こちらこそムリさせて申し訳ない」
と言った。

一番迷惑かけてきてたのに、がんばってもらってたとか、がんばらせすぎたとか言わはるんである。
や、そりゃできるかぎりのことはしてきたけれども、それを上回る迷惑をかけてきたと思っていたものだから、正直びっくりした。

がんばるってなんだ。

わたしは、考える1の「休む」のときにも書いたけれど、応援されると奮起する性質で、その応援の内容が、「楽しみにしています!」でも「心配です、ちゃんと休んでね」でも

「がんばります!」

って力が入ってしまう。そのことには、うすうす気づいていた。
特に後者、心配してくれている方は、「休め」って言っているのにも関わらず、わたしが受け取る情報は、「もっと前進しろ」なのである。

おかしい。
わたしの中に、誤作動をしている変換器があるのは間違いない。

ふと周りを見渡してみると、仕事でもなんでも、成果を出し続けているように「見える」人というのがいる。

成果とか結果とかが大好きなわたしは、ちいさい頃から常にそちら側に行きたくて、いつも、どうにかならないのかな~どうしたらいいのかな~と思って眺めていた(最近解放された)。
彼らは、同業者に限らない。

とてもタフで、ハッピーそうで、大変なこともあるんだろうけど(がんばります! とも言うけど)、なんというか余力感がある。

余力。

彼らに比べると、わたしは常に余力がない、と言えるのでは? 

「がんばります!」
って返事をして、ぞうきんみたいに自分を絞って、一滴も出なくなるところがわたしの限界。限界を超えたら、もうピクリとも動けない。

「できないときはできないんですよ」
と彼らは言う。

わたしは、つい最近まで、できないんならなんとかしてできるようにならないといけない、と考えていた。

わたしにとって、「がんばる」「できなくてもやる」に近いんだ。

だからつまり、わたしは、
応援に、「がんばります」と答えている限り、自分に対して「やれなくてもやれ」というメッセージを送っている
ことになるのでは?

あかん、あかんわ……。そら休み方もわからんようになるわ。

余力のある人がうらやましい、ああなりたい、という季節は、最近ようやく抜けることができて、気持ちがとても楽になったところだった。

そこへきての首の負傷で、またがんばり癖が出て、やらなきゃ病にかかっていたんだなー。そういえば、余力チームに首のことを伝えたら、わりと強めに「おとなしくしてろ」って言われたっけなあ。

しばらくがんばる禁止
自分をぞうきんしぼりするのは、もうやめたはずでしょ? 

ぞうきんみたいに自分を絞ったあげく、迷惑かけることになるところまでやるのは、

本当に「がんばる」なの?

健康第一 首をやり、開腹手術をして、また検査で引っかかったり風邪をひいたりで、なにはともあれ健康がほしい! サポートいただきましたらこつこつ体力づくりするために使わせてもらいますね。ありがとうございます!