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百済系と氏族政治…現代日本没落の病巣   ★大仏製作の謎★

 現代日本の凋落が言われて久しい。特に科学・技術分野において…。
 現代日本の政治行政の姿は、ほぼ千二百年以上前の奈良時代と酷似している。当時の日本を支配したのが、役人・行政官の主力、百済系渡来人達で、これは平城京で発掘された木簡の記載からも読み取れる。相当数が、河内出身の百済人達である(当時は、畿内出身者でなければ出世は覚束ない)。
要は、河内出身の百済系渡来人が奈良時代のエリート官僚だった訳である。
 よく知られたように、いわゆる技術(養蚕、金属加工、道具製作など)に携わる人達(これも渡来の技術集団)は、畿内の周辺に居住させられていた。
  現代に置き換えると、某有名大学経済学部出身者、いわゆる文官が科学技術分野の知見を必須とする所管行政府のトップとなる。何やら奈良時代とそっくりである。
 話は移って、奈良に来てまず感じた事。
 奈良東大寺の大仏は誰が造ったのか?
(これは筆者が、昨年「第22回歴史浪漫文学賞」に応募して、最終受賞候補作品「天平の栄華ー光と陰ー」に掲載した作品からの一部抜粋である)
 私が思うのは、大仏製作は現代の我々からみても、『壮大な国家プロジェクト』だろう、ということである。十年以上の年月と五百万人程度の人口のうち、延べ二百六十万人が働いたのである。
 銅500トン、金(鍍金用)400㎏など当時としても天皇権力の強大さを感じるを得ない規模である。この頃は、合わせて国分寺の建立という、これもビッグなプロジェクトが同時進行していたのである。
 実際に歴史を調べてみる…
すると、大した人数の名前など遺されていないのである。伝えられているのは、せいぜい数人程度とあまりにも少ないのである。また彼らは、百済系の渡来人達であった。
 大仏製作という巨大なプロジェクトを遂行・完成させるためには、現代で考えても企画立案から始まり、制作プラニング(製作スケジュール。人員計画、材料調達、進行管理などなど)と製作現場の維持・管理など膨大な作業と実行が求められる。
 これは現代に置き換えても、米国のアポロ計画にも匹敵するとも思われるほどである。この計画には、ドイツ出身のフォン・ブラウンの名前がよく取り沙汰される。すなわち、破格のリーダーの存在が必須だったのである。
 また巨大プロジェクトを遂行するための各種手法が開発されたのも事実である。
 例えば、PERT(Program Evaluation and Review Technique)という手法がある。これは、主に大規模で複雑なプロジェクトの計画立案とスケジューリングを単純化するために開発された。全作業の正確な詳細と期間が不明であっても、不確実性を含んだままプロジェクトのスケジューリングが可能になっている。開始・終了指向というよりもイベント指向の技法というべきであり、コストよりも時間が主要な要因となる研究開発プロジェクトに向いている。PERTは、科学的管理手法で、非常に大規模で1度限りの紋切り型でない複雑なプロジェクトに向いているものである。しかしこれもコンピュータというツールを利用するからこそ有効に用いられるものである。
 そんなコンピュータの無い時代にも関わらずに聖武天皇の御代に形の上では完成を見たのである。
 飛鳥寺にある『飛鳥大仏』も高さ5m近くの【丈六】であり、お釈迦様を実寸大に表わしたものとされる。よく寺で見かけるお釈迦様の足跡『仏足石』を見れば巨大さが分かる。
 この飛鳥大仏も、制作者として遺るのは、『止利仏師』(鞍作止利)なのである。少なくとも、これまで百済系の【鋳金技術者】についてはあまり聞いたことは無い。『止利仏師』といえば木像がほとんどなのである。しかも、とても一人で出来るものでは無い。
 以上のことからも容易に想像がつくのは、百済系の人達は役人・行政官として携わり、書類に名が残るのと同じように《プロジェクト》担当者として後世に名が残るのであろう。
 従って、『巨大プロジェクト…大仏制作』の裏には、無数の技術者達、現場作業者などが日夜の努力をしていたはず…。
 この視点で当時の裏側や【隠れた巨人】を明らかにして行きます。




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