自分をすこし受容できた話

自分のことが大嫌いで大好きという矛盾によって歪んだ自己像が、最近すこし整ってきた感じがしている。「こういう人がいたっていいじゃん」と思えるようになってきた。

どうしてかは、はっきりわからないけれど、なんとなくこれかなというのが3つある。
環境の変化と、将来への道がちょっと見えたこと、それから外見への気遣いが程よく落ち着いたこと。

環境の変化は、一番はバイトを変えたというのが大きい。プライドから始めた塾のバイトは合わないと気づいてからもなかなか辞めるタイミングがつかめず、自尊心と自己肯定感と体力をすり減らしながらずるずると続けていた。ちょうど良いきっかけがあって辞められたのだが、心が軽くなるってこういうことかと思える体験だった。今のバイトも当たり前にしんどい時はあるけど、前みたいに自分をすり減らすみたいな働き方をしなくて済んでいるので良好という感じ。

将来への道、というのは、noteも何度か投稿している内容で、進路の話。自分のしたいこと、できることがわからなくて、何もしたくなくなって心がぼろぼろになっていた2021年春から秋。そのころのnoteは自分の迷走っぷりがよく表れている。今はありがたくも進みたい道を取り戻せて、からっとした気持ちで過ごせている。

そして、外見への気遣いが落ち着いた話。「コンプレックスの塊」と言われるほど容姿への自信のなさがひどかったのが、今は多少落ち着けている。ほんの少し前までは、自分の顔も体もだめだめで、みんなからブス、気持ち悪い、と思われていると本気で思っていた。道ですれ違う知らない人から「ブス」と言われる声が聞こえることもあった。あれは幻聴だったのか現実だったのか確かめる術はないけど、それくらいの状態だった。外を歩くには勇気が必要だったし、人の目を見て話すなんていうのはとにかくエネルギーを消費した。仲良くなりたい人がいても、「嫌われているに違いない」と決めつけてひとりでいることを選び続けた。
どうして私はこんなに醜いんだろう、どうしてあの子はあんなにかわいいんだろう、消えたい、消えたい、と、自分も他人も、運命も呪いまくった。
それまでも全くおしゃれに興味がなかったわけではなかったけれど、いわゆる「垢ぬけ」とは程遠かった。そういう状況から容姿の改善に火が付いたきっかけは、好きな人ができたことだと思う。時間とお金と手間をかけて容姿改善に取り組み、結果、今自分を少し好きでいられている。ちなみに恋はあっさり消滅した。全く後悔はないしむしろ自分を好きになる良いきっかけになったのでオールオッケー。

冒頭で「自分のことが大嫌いで大好き」と言ったのは、外見も内面も両方そうだった。小さいころから、ちやほやされることと、こっぴどく人々から嫌悪を向けられることが交互にあった。そんな風に他者評価がぐらっぐらだったので、自然、自己評価も安定せず、心は歪みに歪んだ。プライドは大きいのに、自信がない。ずっとそんな感じで過ごしてきた。
今も安定しているとは言えないけど、あのぐらぐら感はかなりなくなった。自分のだめなところを客観的に見られる時が増えたし、顔も性格も美人ではないけど、私なりのかわいさはある、とも思えている。

私なりのかわいさがある…これはとても大事な気持ち。うざいとかブスとか言われても、それはあくまでその人の意見でしかないのだと思えるから。
他人と自分を比べるって、そうすることで見えてくることもあるけど、自分を追い詰めて苦しくなるほどするようなことじゃないって気が付けた。私なりのかわいさを作るのに時間もお金もかかったし、これからもかける。強迫的な気持ちからじゃなくて、純粋にそれを楽しめていることが、自分のことながら「ほんとに頑張ったね、よかったね」と思える。

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