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近世ヨーロッパのことを中世ヨーロッパと申す異端の異端審問会を始める


俗説 中世ヨーロッパは窓から汚物を投げ捨てていたので空から💩が降ってきた

 中世ヨーロッパの住居に高い建物が存在しない。中世前期だと竪穴式住居が現役で、古代ローマ由来の街ぐらいしかない。しかし2階から💩を投げ捨ていたケースもあるから油断は禁物である。まぁ12世紀あたりになると木造三階だてと石造りの建物が増えるけど。

 問題の多くは中世後期から近世にかけて起こっているようである。

 14世紀のイングランドでは窓から物を投げ捨てると罰金刑だった。少なくともイングランドで💩投げ捨ては命がけの行為だったようで記録として残っているのは恐らくキ◎ガイの類だろう(リンク先間違えた気がするけど良いか)

 しかし中世ロンドンが💩だらけだったと言う情報を流したのはBBCであるため筆者はこの案件に対してBBC以上のエビデンスを集め無いとロンドンは💩都市では無かったと断言するのが不可能な事に気がついた。日本に関してはBBCは嘘ばかりなので調べるのはたやすいのだが。本国の案件を嘘だと暴くのは難しい。

 実際に中世ヨーロッパの都市が💩だらけだったかはともかく、中世ヨーロッパの都市は💩問題に対して問題意識を持っており対策は行われていた。川の水質汚染に関しても気を使っていた。しかし、その実効性に関しては推測の域を出ない。しかし少なくとも多くの都市では💩ばらまきは罰金刑だった。また水の供給にも気を遣っていた。

 近世ヨーロッパに入り都市人口が増えると建物が密集し、火災が多発したため、一部の都市で木造建築禁止令が出る。このとき石造りの建物が増えた。ロンドンでは1666年のロンドン大火のあと、リスボンは1755年の大地震のあと、パリはロンドン大火の後で1667年らしいが、高さ制限や張り出し建築の禁止も出ている為、脱法建築だらけだったと思われる。都市部では禁止された木造建築はドイツや地方都市には残っている。

 近世パリなどでは都市人口の増加に対して建物が足りないので、従来あった建物の上に脱法建築を建てまくった。しかも設計がいい加減なので上層階が前にせり出ていた。危険なので上層階に住んでいたのは貧困層だ。ポンプが無い時代、例え水道があろうとも下まで汲みに行かないと行けないし、汚物も下まで捨てに行く必要がある。しかも住んでいるのは下層市民。おまるに溜めた💩を捨てにいくのが面倒だから窓から投げ捨てていた。特にパリはひどい状況で都市整備が行われるのが19世紀で、上下水道のアクセスもままならなかった。18世紀に入ると入浴の習慣も消滅していたと言う。💩都市としてのパリのピークは18世紀になる。

 しかし💩都市パリは概ね近世から近代ヨーロッパの出来事になる。ベルサイユ宮殿が出来たのは1682年であるからこれも近世ヨーロッパである。ベルサイユ宮殿の💩の話もすべて近世ヨーロッパになる。

 つまり近世都市において人口増加に都市整備が追いつかなかったから💩が空から振るようになったのだ。都市人口が少ない中世ヨーロッパでは、この問題は余り起きなかった。💩問題は人口に比例するからだ。しかしパリは例外で中世後期には10万-30万(諸説有り)の人口を抱えていたとされており、2000人居れば中堅都市、1万で大都市のドイツとは桁が違うため人口問題を抱えていた。しかし中世盛期のパリでは市民の半分が豚を飼っていたとされおり、言うほど不潔でなかったはずだ。なぜなら豚はイルカより賢く、パリジャンより清潔好きだからだ。この時代のパリは道路は💩まみれではなく豚さん天国だった。しかし12世紀頃には問題が生じており、道路はゴミだらけだった。これはフランス王子フィリップが豚に衝突して死んだため豚飼い禁止令が布告されたことが原因とも考えられるが真偽は定かではない。この時代、ゴミをゴミ捨て場に捨てろという布告が何度も出ており、その深刻さがうかがえる。ただでさえ酷いパリの衛生は16世紀に入るとさら酷くなり、人間の💩も道路に流れはじめる。近世ヨーロッパのパリは💩都市だった。パリは1867年にようやく下水道が整備されるがまだ不完全だった。しかしパリは今も汚い、道路は犬の💩だらけだしションベンの匂いがそこはかとなく漂う。

 筆者はこのパリの💩都市のイメージが中世ヨーロッパに拡大解釈されたのではないかと考える。少なくともパリ💩話は1980年代にはパリ観光で聞く鉄板ネタにすぎなかったため、拡大解釈されたのはその後だと考える。

俗説 ハイヒールは💩を除けるため

 これも💩都市だった近世パリの話で全部終わるのだが、少し深掘りしてみよう。

 ハイヒール自体の歴史はかなり古く4500年前に遡れるらしい。しかし、現代に通じるハイヒールは、サーサーン朝ペルシャで10世紀頃発明されたものと考えられる。ペルシャで発明されたハイヒールは馬に乗るための靴で、鐙に足を引っかけやすくするためのものだと考えられる。4500年前には鐙が存在しないので、4500年前のハイヒールは無関係。しかもハイヒールは男性の履き物だった。このペルシャのハイヒールが17世紀にサファヴィー朝から持ち込まれヨーロッパ(しかし、このヨーロッパは、ほぼパリのことを差す)で大流行した。特にルイ14世はハイヒールを好んでいた様である。

 つまりヨーロッパにおけるハイヒールは男性の履き物だった。ヒールの高さで上級国民達がマウントを取る様になるとヒールの高さがどんどん高くなった。マウント合戦が酷いため当局が規制するありさまだった。女性用ハイヒールが登場するのはその後。女性用ハイヒールは男性ハイヒールを改良したもので、裕福な女性がマウント取りの為に女性用のハイヒールを作らせて履きだしたらしい。つまり💩説自体が俗説の様だ。本来騎乗するための靴だし。騎乗したまま道路の💩を踏むのは難しすぎる。そういえばハイヒールもパリ💩話の鉄板ネタだったからここが出所だろう。

 やがて男性用ハイヒールは丈夫さと頑丈さを追求するようになり、女性用ハイヒールは細さをマウントするようになり別物に変わる。18世紀に頑丈な乗馬用ブーツが流行り始めると男性用ハイヒールは廃れていく。さらにフランス革命で男性用ハイヒールが禁止され女性用のみが残ったとされる。ヒールがあるとナポレオンがシークレットブーツを履けないからな

 ハイヒールは家父長に基づく女性を支配する道具と言う設定すら成立しない。女性が男性のマネをして履きだしてマウント合戦の道具にした挙げ句逆ギレしているだけだし。

俗説 中世の人々は風呂に入らない

 ヨーロッパ人が風呂に入らなくなったのは17-18世紀の話。

 中世には銭湯が存在し、入浴していた。💩都市パリですら13世紀には32件の銭湯があったとされる。ローマ時代に比べれば風呂にアクセスするのは難しくなっていたが、当時の絶対風呂に入らないマンは修道士ぐらいのものである。銭湯が消滅するのは16世紀であり、パリの場合、入浴の習慣自体が消滅する。一度も風呂に入ったことが無いフランス王がいるのもこの時代の話だ。つまり近世ヨーロッパ人が風呂に入らなかっただけである。銭湯が消えた理由はどうも梅毒の流行が原因らしい。近世ヨーロッパ人はその啓蒙思想と言う疑似科学を盲信した結果、風呂が不潔であると言う理由で絶対風呂に入らないマンと化した。ルイ14世は76年の生涯で風呂に入ったのは3回だけとされている。フランス随一の金持ちですら風呂に入っていないのだから他も知るよしもがな(その3回は、産まれた時、洗礼の時、死んだ時なのかな……)つまり、不特定多数が同じ風呂に入っているから病気がうつると考えた訳ではなく風呂に入る事自体が病気の原因と考えたのだ。要するにいつもの様にヨーロッパ人が疑似科学を盲信した結果に過ぎない(クリーンディーゼルとか何度騙されても懲りないなこいつら)。💩都市の上に風呂に入らないからパリでは香水が流行った。日本で香水つけると香水の方が臭い。スメルハラスメントだからホント辞めてほしい。

 一方キリスト教や啓蒙思想と言う疑似科学の影響を受けなかったフィンランドにおいては中世から近世の間、サウナが存在しつづけた。しかし啓蒙思想の猛毒を食らったスウェーデンでは18世紀にサウナ廃止に関して議論しており、そのときスウェーデンの一部だったフィンランドのサウナも廃止されそうになった。しかしフィンランド人はスウェーデン人の様に簡単に疑似科学に騙されるバカではなかったのでスウェーデンによるサウナ廃止の圧力にも負けずサウナを使い続けた。その時、スウェーデン人は入浴を貧乏人の習慣として見下していた訳である。

 どうやらパスツール以降のパリの上級国民18世紀のヨーロッパ人が風呂に入らないのを見て中世ヨーロッパ人が風呂に入らなかったと清潔マウントを始めたのが原因の様である。不潔だったのは近世の上級国民なのにね。

#中世ヨーロッパ #近世ヨーロッパ #疑似科学 #世界史 #ヨーロッパ史




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