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温故知新(7)孝霊天皇(須佐之男命 八束水臣津野命 掖邪狗 賀茂建角身命 綿津見大神 伊和大神 刺国大神 兵主神 海童神) 押媛 ホケノ山古墳 彦五十狭芹彦命(吉備津彦命 五十猛神 イタテ神 大屋毘古神) 西求女塚古墳 日子刺肩別命(穂高見命)

 孝霊天皇の名前は、『日本書紀』では、大日本根子彦太瓊天皇、『古事記』では、大倭根子日子賦斗邇命で、「根子」が共通しています。須勢理毘売(すせりびめ)が、卑弥呼、すなわち、倭迹迹日百襲姫命と考えられることから、須佐之男命が、第7代孝霊天皇と推定されます。岡山県倉敷市にある真宮神社(しんみやじんじゃ)は、建速須佐之男命を祀っています(写真1)。

写真1 真宮神社

  島根県松江市にある八重垣神社は、素盞嗚尊と櫛稲田姫を主祭神としていますが、伊弉諾神宮とギョベクリ・テペを結ぶラインの近くに位置しています(図1)。

図1 伊弉諾神宮とギョベクリ・テペを結ぶラインと八重垣神社

 須佐之男命と関係があると推定される熊山遺跡とギョベクリ・テペを結ぶラインの近くに須我神社(島根県雲南市)があります(図2)。須我神社の由来は、『古事記』によると、須佐之男命が八岐大蛇を退治した後、妻の稲田比売命とともに住む土地を探し、当地に来て「気分がすがすがしくなった」として「須賀」と命名したことによります。「八雲立つ 出雲八重垣 つまごみに 八重垣つくる その八重垣を」と歌われ、日本初之宮(にほんはつのみや)と称されています。

図2 熊山遺跡とギョベクリ・テペを結ぶラインと須我神社

 伯耆国だった鳥取県西伯郡の孝霊山から続く丘陵にある、妻木晩田遺跡(むきばんだいせき)は、弥生後期に栄え、古代出雲の中心地だったと考えられています。孝霊天皇は孝霊45年から孝霊71年頃まで山陰地方にいたという記録があるようで、鳥取県西部の日野川沿いには孝霊天皇を祭る神社が点在し、凶賊を征したという伝承が伝わっているようです。日野郡日南町には、孝霊天皇やその妻、細姫、娘の福姫を祭る楽楽福神社(ささふくじんじゃ)があり、「ささ」は砂鉄を表し「ふく」は溶鉱炉への送風を表したものであると伝わっているそうです。

 『古事記』で、須佐之男命は、「妣(はは)の國根の堅州國に罷らむ」と言っていますが、『出雲風土記』に、「固堅め立つる加志は、伯耆(ははき)の国」とあることから、母親の出身地の「子(ね)」の方角(北)にある伯耆国に行きたいと言っていると推定されます。島根県の「島根」は、八束水臣津野命が命名したとされ、古くは、西日本の本州を「大和島(やまとしま)」と呼んでいたようなので1)、「大和島」の北を意味するのかもしれません。

 鹿島神宮の境内には、日本を繋ぎ止めているとされる要石(かなめいし)が埋まっており、「」が深いところから、地震をしずめるとされていますが、石破洋氏の「国引き神話」の新研究によると、出雲市国富町の木佐家にも要石が祀られています。中央構造線が、秩父地方で北に湾曲しているのは、伊豆半島の基になった島が、フィリピン海プレートにのって、日本列島のフォッサマグナに衝突したためと考えられています。日本近海は北の北アメリカプレート、東の太平洋プレート、南のフィリピン海プレート、西のユーラシアプレートの4つのプレートの境界が近接しています。ユーラシアプレートにある紀伊半島の地下には、マグマが固まってできた巨大な火成岩体があることが知られていますが、北アメリカプレートにある鹿島神宮や香取神宮の要石も同様な火成岩体の一部と推定され、これらが、日本列島を支えているともいえるのではないかと思います。

 兵庫県宍粟市にある播磨国一宮伊和神社は、大己貴神(大国主命)を祀っています。伊和大神は、「播磨国(はりまのくに)風土記」にみえる神で、大国主命と同一化されていますが、「国堅めましし大神(伊和大神)の子・尓保都比売命(丹生都比売命)」とあり、境界を定めて国の基礎を築いたとされ、丹生都比売命の父は、須佐之男命と推定されるので、伊和大神は、須佐之男命と推定されます。奈良県磯城郡田原本町黒田に孝霊天皇の宮跡とされる黒田廬戸宮跡(くろだいおとのみやあと)がありますが、庵戸宮(廬戸宮)とメンフィスを結ぶラインの近くに伊和神社や賀茂地神社(鳥取市佐治町加茂)があります(図3)。

図3 黒田廬戸宮跡とメンフィスを結ぶラインと伊和神社、賀茂地神社

 倭迹々日百襲姫命を祀る香川県東かがわ市の水主神社本殿後方には、祭神の父・孝霊天皇を祀る孝霊神社があります。孝霊神社とオリンポス山を結ぶラインの近くには、大山積命を祀る百射山神社(総社市三輪)や奇稲田姫命を祀る稲田神社(奥出雲町)、奥宇賀神社(出雲市奥宇賀町)があり、また、ギョベクリ・テペと孝霊神社を結ぶラインの近くには賀茂神社(広島県庄原市)や二本杉のある熊野神社(香川県三木町)があります(図4)。図1や図2のラインは、孝霊天皇が須佐之男命であると推定されることと整合します。

図4 孝霊神社とオリンポス山を結ぶラインと百射山神社、稲田神社、奥宇賀神社、ギョベクリ・テペと孝霊神社を結ぶラインと賀茂神社(広島県庄原市)、熊野神社(香川県三木町)

 『出雲風土記』には、須佐之男命はあまり登場しませんが、代わりに、八束水臣津野命(やつかみずおみつののみこと)が、国引き神話などで登場します。八束の「」は、親指を除いた4本の指の付け根の幅をいい、弓矢の長さをいう場合には「そく」と読みます。古代エジプトでは、これをパーム(シェセプ)と表しますが、シュメールから伝わったと考えられています2)。日本では、中国から尺貫法が伝わる以前は、手を握ったときの親指をのぞいた4本指の幅である「」や「」などが用いられていました。

 出雲風土記では、八束水臣津野命が天狗山(熊野山)に住む天狗であるとして、天狗山に祠(ほこら)を造って祀るようになったのが、出雲にある熊野大社の始まりとしていますが、天狗は、後世、本居宣長によって素戔嗚尊と同一神とされました。熊野三山(本宮・速玉・那智各大社)の熊野速玉大社と古王国時代にエジプトの首都だったメンフィスを結ぶラインは、熊野本宮大社船通山(せんつうざん)を通ります(図5)。船通山は、出雲地方では古来「鳥上山(鳥髪山)」とも呼ばれ、『古事記』によれば船通山の麓へ降ったスサノオは八岐大蛇を退治し、八岐大蛇の尾から得た天叢雲剣を天照大神に献上したといわれています。同じラインは、出雲大社の本殿裏にある「素鵞社(そがのやしろ)」の裏手の禁足地「八雲山」を通ります(図6)。八束水臣津野命(須佐之男命)は、古代エジプトと関係があると推定されます。

図5 熊野速玉大社とメンフィス(エジプト)を結ぶラインと、熊野本宮大社、船通山、八雲山
図6 熊野速玉大社とメンフィス(エジプト)を結ぶラインと八雲山、出雲大社、素鵞社

 熊野本宮大社、剣山、元伊勢外宮 豊受大神社をラインで結び三角形を描くと、剣山と元伊勢外宮 豊受大神社を結ぶラインは、図5の熊野本宮大社とメンフィス博物館を結ぶラインとほぼ直角に交差し、元伊勢外宮 豊受大神社と熊野本宮大社を結ぶラインの近くには大仙陵古墳があります(図7)。

図7 熊野本宮大社と剣山を結ぶライン、剣山と元伊勢外宮 豊受大神社を結ぶライン、元伊勢外宮 豊受大神社と熊野本宮大社を結ぶラインと大仙陵古墳、熊野本宮大社とメンフィス博物館を結ぶラインと船通山

 『古事記』3)と『出雲風土記』4)は、合わせて読むと、意味が分かるようになっているようです。『出雲風土記』にある「八束水臣津野」の「八束」と「津野」は、『古事記』にある、須佐之男命の「八拳須(やつかひげ)」と「御角髪(みずら)」に対応し、また、「水臣」は、須佐之男命が、伊邪那岐命から「海原を知らせ」と指示されたことに対応していると考えると、「八束水臣津野命」は、須佐之男命であると考えられます。『出雲風土記』で八束水臣津野命が、意宇の杜で「おゑ(おう)」と言っているのは、妻(奇稲田姫命)が、多(意富)氏であることを表しているのかもしれません。

 おのころ島神社とギョベクリ・テペを結ぶラインの近くには、出雲国風土記に「出雲社」とある諏訪神社があり、武御名方命と八束水臣津野神を祀っていますが、同じラインの近くにスサノオ命を祀る磐船神社(安来市)があります(図8)。これは、八束水臣津野神が須佐之男命であることを示していると推定されます。

図8 おのころ島神社とギョベクリ・テペを結ぶラインと諏訪神社(出雲社)、磐船神社(安来市)

 八束水臣津野を祀る出雲市にある長浜神社は、倭迹迹日百襲姫命や五十狭芹彦命(吉備津彦命)を祀る讃岐国一之宮田村神社とオリンポス山を結ぶライン上にあります(図9)。これは、八束水臣津野命が孝霊天皇であることを示していると考えられます。同じライン上にある「吾妻山」の名前の由来は、伊弉諾命が妻伊弉冉命が葬られている比婆山に向かってこの山頂から"吾が妻よ"と、しのんだという言い伝えから来ているそうです。

図9 田村神社とオリンポス山を結ぶラインと長浜神社、吾妻山

 孝霊天皇の母親の押媛(おしひめ)は、天足彦国押人命の娘(和珥氏系)です。ホケノ山古墳とオリンポス山を結ぶラインは、天足彦国押人命(和邇日子押人命と推定)の墓と推定される纏向石塚古墳や素盞鳴尊を祀る阿比太神社(大阪府箕面市)の近くを通ります(図10)。ホケノ山古墳の形状は、纏向石塚古墳と同じ帆立貝形古墳纒向型前方後円墳)で、纏向石塚古墳より新しい3世紀中頃の築造と推定され、ホケノ山古墳の被葬者は、須佐之男命と関係があると推定されることから押媛と推定されます。

図10 ホケノ山古墳とオリンポス山を結ぶラインと纏向石塚古墳、阿比太神社

 『古事記』では、孝霊天皇の時に皇子の彦五十狭芹彦命(ひこいさせりひこのみこと 吉備津彦命)が弟の若日子建吉備津彦命(稚武彦命)とともに派遣され、針間(播磨)の氷河之前(比定地未詳)に忌瓮(いわいべ)をすえ、針間を道の口として吉備国の平定(言向(ことむ)け和(やは)す)を果たしたとされています。須佐之男命を祀る武蔵一宮 「大宮氷川神社」は、「檜川神社」とも書かれ、神戸市長田区に檜川町があるので、針間の「氷河」は「檜川」と推定されます。

 氷川神社は、元々は竜神信仰の神社であったといわれ、氷川神社(大宮区高鼻)は見沼区中川の中山神社(中氷川神社)と緑区三室の氷川女体神社と見沼で結ばれた三社一体の神社であったといわれます。これらの神社は直線上にあることが知られていますが、メンフィスと氷川女体神社を結ぶラインは、氷川神社や中山神社の近くを通ります(図11)。

図11 メンフィスと氷川女体神社を結ぶラインと氷川神社、中山神社

 『東備郡村志』(吉備群書集成)には、旭川について「岡山都下を流るヽ大河也。上古には是を蓑川、或は簸川又は氷川と云ふ」とあるようです。須佐之男命の大蛇退治に記された簸川(肥の河)の「」は、ひる、箕で穀物のぬかやごみを除く意味があり、砂鉄を採った川と推定されます。西播磨には、古代より砂鉄を利用した「たたら製鉄」が行われた宍粟市千種町・一宮町北部・波賀町など宍粟市北部で生産された千草鉄(宍粟鉄)や、マンガン鉱(写真2)を産出した上月鉱山(佐用町上月町)などがあります。主なマンガン鉱床は、丹波や秩父にあり、埼玉県飯能市の龍崖山にはマンガン鉱山跡があります。

写真2 菱マンガン鉱 地質標本館

 俵国一氏は、古代の直刀には、通常の砂鉄に含まれるより多量の銅やマンガンが含まれると指摘されているようです5)。マンガンは酸素及び硫黄と結合しやすい性質をもつため、鉄鋼の製錬時における脱酸・脱硫に使用され、また、鉄鉱石に含有するマンガンは鋼の焼入性と強靱性を高めることが知られています。八岐大蛇(やまたのおろち)の尾にあったとされる「天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」で、十握剣の刃が欠けたとされるのは、「天叢雲剣」の鉄にはマンガンが含まれていて、強靭だったことを表しているのかもしれません。また、マンガンには肥料効果もあるので、「肥の河」の名前の由来かもしれません。岡山県南部の津島遺跡では、水田土壌に鉄やマンガンの層が見つかっています。吉井川の源流には「阿波」の地名があり(図12)、近くに「那岐山(なぎさん)」や土師神社のある「埴師(はにし)」や「智頭(ちづ)」があり、鳥取県八頭郡智頭町にはマンガン鉱床があったので、吉井川が八岐大蛇伝説の簸川(肥の河)だったと推定されます。アシナヅチとテナヅチが肥河の上流で泣いていたというのは、「那岐山」の掛詞と思われます。

図12 吉井川源流の阿波、那岐山、智頭、埴師

 備前の中心だった赤坂郡(現在、赤坂郡と磐梨郡が合併し赤磐郡となっている)は、古くは西は旭川から東は吉井川まで達する広範囲の郡域を持ち、郡北部の山地には、石上布都魂神社(岡山県赤磐市)が鎮座しています(図13)。石上布都魂神社は、備前国の一宮で素盞嗚尊を祭神としていますが、明治時代までは布都之魂を御神体としていたといわれています。和名抄には、赤坂郡に鳥取郷が記載されているので、高天原を追放された須佐之男命が降り立った「鳥髪(鳥上)」は、赤坂郡の鳥取郷の北部を表していると思われます。石上布都魂神社の南南東に、鳥取上高塚古墳があります。石上布都魂神社の北東の吉井川近くの赤磐市戸津野に、御剣を祀ったとされる古社の素戔嗚神社があります。「津野」の地名は、八束水臣津野命に由来すると推定されます。八岐大蛇退治の伝説は、世界中に分布し、「ペルセウス・アンドロメダ型神話」と呼ばれていますが6)、『出雲風土記』に載っていないのは「吉備国」の神話だったためと思われます。

図13 石上布都御魂神社、鳥取上高塚古墳、素戔嗚神社(赤磐市戸津野)

 熊山遺跡、吉備津神社、那岐山をラインで結び三角形を描くと、吉備津神社と那岐山を結ぶラインは、熊山遺跡とメンフィス博物館を結ぶラインほぼ直角に交差します(図14)。吉備津神社と那岐山を結ぶラインの近くに石上布都御魂神社があり、熊山遺跡とメンフィス博物館を結ぶラインの近くに福榮神社(ふくさかえじんじゃ)(鳥取県日野郡日南町)があります(図14)。

図14 熊山遺跡と吉備津神社を結ぶライン、吉備津神社と那岐山を結ぶラインと石上布都御魂神社、那岐山と熊山遺跡を結ぶライン、熊山遺跡とメンフィス博物館を結ぶラインと福榮神社

 『魏志』倭人伝によると、西暦243年に女王は再び魏に使者として大夫伊聲耆、掖邪狗らを送っています。女王は卑弥呼と推定され、「掖邪狗(やじゃく)」は「八尺」で「八束」に由来し、京都市東山区祇園町にある八坂神社は、元は祇園社だったので、「八尺」が「八坂」に変化したとすれば、掖邪狗は、須佐之男命と推定されます。

 神武東征の説話で、道案内をした八咫烏(やたがらす)は、『新撰姓氏録』では、葛城を治めた賀茂氏の先祖とされる賀茂建角命(かもたけつぬみのみこと)で、鴨県主(かものあがたぬし)の祖とされています。「八咫烏」の「」は、周尺(19.1cm)のことで、中国の文献に「周代の尺で8寸を咫という」とあるのは、1尺が24cm程度だった三国時代の頃の文献と推定されます。「賀茂建角命」の「賀茂」は「鴨」で、「鴨」の枕詞は「水鳥の」なので「水」と関係し、「角」と合わせると「八束水臣津野命」と同様に、須佐之男命と推定されます。また、熊野三山においてカラスはミサキ神(死霊が鎮められたもの。神使)とされており、八咫烏熊野大神(須佐之男命)に仕える存在として信仰されています。

 ギリシャ神話では太陽神アポロンがカラスを使いとしており、また、中国の神話には、太陽のなかに住むという鳥「三足烏(さんそくう)」が登場します。12世紀のポメラニア公家の紋章にあるグリフィンは、高句麗古墳群に現れる三足烏と形が類似していることから(図15)、黒いグリフィンが三足烏の由来と推定されます。

図15 1194年以降に用いられたポメラニア公家の紋章のグリフィン(左) 
出典:「ポメラニア公家」 wikipedia
と高句麗古墳群の真坡里(しんはり)7号墳出土の6世紀後半の透かし彫りの三足烏(右)
出典:https://lunabura.exblog.jp/15054896/

 ギリシャ神話では、黒いグリフィンは、女神メネシスの車を引き、メネシスはガチョウ(カモ科の鳥)に変身します。日本では「八咫烏は賀茂(鴨)氏の祖」だと言われています。ネメシスは、トルコ西部の都市イズミル(スミュルナ)で崇拝され、アフロディーテに似た性格の女神だったようです。ヘロドトスによれば、イズミルは紀元前1000年頃にアイオリス人によって建設され、その後、イオニア人たちの手に渡り、文化的・商業的中心地として大きく発展しましたが、紀元前600年ごろのリュディアの攻撃によって破壊されたようです。イズミルの付近にはエフェソスなどの古代遺跡があります。

 グリフィンは、クレタ島のクノッソス宮殿の壁画にも描かれ、鷲の頭、ライオンの体、蛇の尻尾を持ち、鷲は天空の神、ライオンは地上の神、蛇は地下・冥界の神を象徴するといわれています。イングランド王室の紋章スコットランドの紋章にあるライオンは、三本の爪の形は鷹に類似し、足や尾の形はポメラニア公家の紋章にあるグリフィンと類似し、キリスト教ではライオンや鷲を聖なる象徴としていることから、鳥類の王と百獣の王の合成獣(グリフィン)と推定されます。グリフィンの生まれた場所は、スーサとされています7)。八坂神社は、一般的には、西暦656年に韓国(からくに)の伊利之使主(いりしのおみ)が来朝し、新羅国牛頭山のスサノオを奉斎して祀ったのがはじまりとされています。したがって、高句麗の三足烏が八咫烏の由来で、須佐之男命と結びついたと推定されます。
 
 須佐之男命は、その子五十猛神(いたけるのかみ)を連れて、新羅の国のソシモリに降りますが、「この土地にはいたくない」といって、土で船を造り、海を渡ってしまいます。新羅国の牛頭山は、韓国慶尚北道の高霊にある「ソシモリ(牛の頭)山」で、須佐之男命が、舟をつくるのに良いとされた楠木を探しても、見つからなかったと伝わっているようです。

 和歌山市内にある伊太祁曽神社には、五十猛命(大屋毘古神)が祀られています(図16)。日前神宮・國懸神宮竈山神社、伊太祁󠄀曽神社に参詣することを「三社参り」といいますが、伊太祁󠄀曽神社とギョベクリ・テペを結ぶラインの近くに日前神宮・國懸神宮があり、これは、五十猛命と天照大御神(大日孁貴)の関係を示していると推定されます。

図16 伊太祁󠄀曽神社とギョベクリ・テペを結ぶラインと日前神宮・國懸神宮、竈山神社

 伊太祁󠄀曽神社とギョベクリ・テペを結ぶラインは、神籠石(ひもろぎいし)が祀られている岩上神社(兵庫県淡路市)、石上布都魂神社、須我神社の近くを通ります(図17)。このラインは、五十猛命と須佐之男命との関係を示していると推定されます。

図17 伊太祁󠄀曽神社とギョベクリ・テペを結ぶラインと岩上神社、石上布都魂神社、須我神社

 エジプト・ギザのピラミッド付近で発見された「太陽の船」の部材は多くにレバノン杉が使われていますが、古代エジプトにおいても、ナイル周辺では良質の木材は得られず、遠くレバノンまで求めていたようです。紀元前15世紀頃から紀元前8世紀頃に地中海沿岸の広い地域に広がり、海上交易に活躍したフェニキア人は、レバノン杉を伐ってガレー船建造や木材・樹脂輸出を行い、全地中海へと進出しました。カディーシャ渓谷と神の杉の森は、ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されています。須佐之男命と五十猛神は、日本各地に木の種をまき、木の神として知られています。京都府与謝郡には、木積神社(きづみじんじゃ)がありますが、五十猛神(木の国の大屋毘古神)と大物主神を祭神としています。須佐之男命は、海洋民族のフェニキア人と関係があったのかもしれません。

 長崎県対馬市にある海神神社(かいじんじんじゃ)は、豊玉姫命を主祭神とし、彦火火出見命、宗像神を配祀神としています。また、対馬市には、彦火火出見命(山幸彦 珍彦 大国主命)と豊玉姫を祀る和多都美神社(わたつみじんじゃ)があります。古くから竜宮伝説が残されていて、珍彦は浦島太郎のモデルともいわれています。和多都美神社は、北緯34度22分にありますが、広島県福山市にある沼名前神社(ぬなくまじんじゃ)は、北緯34度23分でほぼ同緯度にあり、神功皇后が綿津見命を祀り、海路の安全を祀られたことにはじまるとされ、鞆の祇園さんとも呼ばれ、須佐之男命も祀られています。千葉県銚子市にある渡海神社(とかいじんじゃ)は、綿津見大神・猿田彦大神を祀っているので、「ワタツミ」には「海を渡る」という意味があると推定されます。

 兵庫県神戸市垂水区に海神社(わたつみじんじゃ かいじんじゃ)があり、綿津見大神を祀っています。大阪市住吉区の住吉大社(北緯34度36分)は、航海の守護神を祀っていますが、海神社(北緯34度37分)とほぼ同緯度にあり(図18)、住吉大社が西を向いているのは、西に海の神(須佐之男命)が鎮座しているためではないかと思われます。

図18 住吉大社と海神社

 ヘブライ人のモーゼは、実在を疑問視する人が多いですが、古代イスラエルの民族指導者で「出エジプト記」では、葦の海(紅海)を渡ったとされています。ミケランジェロの彫刻やレンブラントの絵画にみられるように、中世ヨーロッパ美術においては、モーゼはしばしば角のある姿で描かれ、須佐之男命と推定される「賀茂建角身命」や「綿津見命」と関連があると思われます。ギョベクリ・テペの遺跡などから、太古から、豊穣神たる「角を生やした(主に牛の)神、有角神」への信仰があったと推測されています。古代中国の伝承に登場し、医療と農耕の知識を人々に広めた三皇五帝の一人である神農(しんのう)も、頭に角があります。神農は初代炎帝ともされ、伝説では炎帝と黄帝は異母兄弟であり、共に関中を流れる姜水で生まれた炎帝が姜姓を、姫水で生まれた黄帝(こうてい)が姫姓を名乗ったとされています。黄帝は、神話伝説上では、三皇の治世を継ぎ、本来は「皇帝」と表記されましたが、戦国時代末期に五行思想の影響で「黄帝」と表記されるようになりました。彼以降の4人の五帝と、夏・殷・周・秦の始祖を初め数多くの諸侯が黄帝の子孫であるとされています。

 神戸市灘区にある西求女塚古墳(北緯34度42分)は、孝元天皇(大国主命)の陵墓と推定される備前車塚古墳(北緯34度42分)と同緯度にあり(図19)、前方後方墳で、西暦250年すぎ(3世紀中葉)には造営されていた可能性が高いとされています。三角縁神獣鏡(開花天皇の陵墓と推定される椿井大塚山古墳などの出土鏡と同笵)などが出土し、石室の石材は、阿波や紀伊などからも運ばれており、出土した土師器は山陰系の特徴をもつことなどから、須佐之男命の子の五十猛神で、大国主命の後に邪馬台国の大夫となったと推定される、孝霊天皇の皇子の彦五十狭芹彦命(吉備津彦命)の墓と推定されます。大屋毘古神(五十猛神)は、『古事記』によると、八十神に迫害された大穴牟遅神(大国主命)を、紀伊で木の股をくぐらせて、須佐之男命のいる根の堅州国へ逃がしたと伝えられ、彦五十狭芹彦命(五十猛神 吉備津彦命)は、孝元天皇(大国主命)と友好関係にあったと考えられます。

図19 備前車塚古墳と西求女塚古墳

 孝霊天皇の皇子の彦五十狭芹彦命の「狭芹」は「狹城(佐紀 さき)」と推定され、「五十狭芹(いさき)」は、邪馬台国の大夫の「伊聲耆(いせき)」で、須佐之男命の子、五十猛神(いそたける いたける イタテ神)と思われます。姫路市の北部にある広峰山の山頂には古くから牛頭天王を祀った広峯神社があり、牛頭天王は須佐之男命とされています。播磨には、イタテ神(五十猛神)と兵主神(ひょうすのかみ 須佐之男命と推定)の両神を祀った射楯兵主神社があり、真弓常忠氏は、両神分布の接点となった地域であることをうかがわせると記しています6)。

 名古屋市周辺には、須佐之男を祀った神社が多くありますが、浜松市中区にある須佐之男神社(浜松市中区鴨江)は、須佐之男命と木花咲耶比売命(櫛稲田姫との娘と推定)を祭神とし、ギョベクリ・テペと結ぶラインの近くには、氣比神宮須佐之男神社(岡崎市切越町)などがあります(図20)。レイラインにある「スサノオ」を祀る神社は、「素戔嗚」ではなく「須佐之男」と表記されています。

図20 須佐之男神社(浜松市中区鴨江)とギョベクリ・テペを結ぶラインと気比神宮、須佐之男神社(岡崎市切越町)

 愛知県津島市にある津島神社(つしまじんじゃ)は、主神に建速須佐之男命、相殿に大穴牟遅命(大国主命)を祀っていますが、社伝によれば、須佐之男命の和魂は、孝霊天皇45年に一旦対馬(旧称 津島)に鎮まった後、第29代欽明天皇元年(540年)に、現在地近くに移り鎮まったと伝えています。津島神社は、豊受大神宮(伊勢神宮外宮)のほぼ真北に位置しています(図21)。須佐之男命と豊受姫命を関係付けていると推定されます。

図21 豊受大神宮(伊勢神宮 外宮)、津島神社

 『古事記』において、刺国若比売は、八十神(やそがみ)たちに2度殺された息子の大国主神を、2回目に蘇生させて息子に大屋毘古神(おおやびこのかみ 須佐之男命の子の五十猛神)の木の国に行くよう施します。刺国若比売は、刺国大神(さしくにおおかみ)の子とされ、「刺国」は「標」を刺すことで、領有を表し、「若」は娘の意とする説があります。刺国大神は須佐之男命で、刺国若比売は、稚日女尊(丹生都比売命)と推定されます。

 大国主命と高志国の沼河比売の子が建御名方神ですが、『古事記』によると、孝霊天皇(須佐之男命 八束水臣津野命)と倭国香媛(神大市比売)の子に、日子刺肩別命(ひこさしかたわけのみこと)がいて、高志之利波臣の祖とされているので、沼河比売は、日子刺肩別命の娘と思われます。日子刺肩別命は、須佐之男命(刺国大神)の子で、長野県安曇野市穂高にある穂高神社の祭神の穂高見命ではないかと思われます。

文献
1)若井正一 2004 「ヤマトの誕生」 文芸社
2)松本 弥 1996 「古代エジプト美術手帳」 弥呂久
3)倉野憲司 2017 「古事記」 岩波文庫
4)荻原千鶴 2018 「出雲国風土記」 講談社学術文庫
5)黒岩俊郎 1976 「たたら 日本古来の製鉄技術」 玉川大学出版部
6)松本直樹 2016 「神話で読みとく古代日本」 ちくま新書
7)林 俊雄 2006 「グリフィンの飛翔」 雄山閣