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温故知新(14)加具土命(大物主神 大山咋神 武甕槌神 経津主神 金山彦神 天津摩羅 天目一箇神 建比良鳥命 天穂日命 足名椎命 鬼刀禰命 月読命)

 加具土命(かぐつちのみこと)は、記紀神話における火の神で、『古事記』では、火之夜藝速男神(ひのやぎはやをのかみ)・火之炫毘古神(ひのかがびこのかみ)と表記され、『日本書紀』では、軻遇突智(かぐつち)、火産霊(ほむすび)と表記されます。火之炫毘古神(ひのかかびこのかみ)の「炫(かが)」は、きらきらと輝くことを意味します。『古事記』の垂仁天皇の段に、妃の一人として迦具夜比売命(かぐやひめのみこと)が記され、かぐや姫は、光り輝く女性として描かれているので、加具土命は、光り輝く土(金属を含む)を表すと推定されます。多坐彌志理都比古神社の「おおにいますみしりつひこ」は、「おおいぬ座にあるシリウス」を表しているとも考えられ、「シリウス」のギリシャ語「セイリオス」には「輝くもの」の意味があるので、加具土命はシリウス信仰と関係があるかもしれません。

 大国主命は、葦原中国の国造りの際に、海を照らして輝く幸魂奇魂(さきみたまくしみたま)と出会っていますが、この神は、三輪山(三諸山)に鎮座する大三輪(おおみわ)の神(大物主(おおものぬし))です。大神神社(おおみわじんじゃ)は、三輪山を神体山として直接拝し、主祭神を大物主大神 (おおものぬしのおおかみ、倭大物主櫛甕玉命(おおものぬしくしみかたまのみこと))、配祀神を大己貴神 (おおなむちのかみ 大国主命)と少彦名神 (すくなひこなのかみ)としています。島根県八束郡にある来待神社でも、大物主櫛甕玉命を祀っています。

 真弓常忠氏は、三輪山西南麓にある金谷遺跡などから、三輪山が古代の鉄生産に関わる山であり、この山を神体山とする倭大物主櫛甕玉命が産鉄製鉄に関わる神であることは実証できるとしています1)。香川県には、山王神社が多く分布していますが、滋賀県の比叡山にある山王総本宮日吉大社を勧請して建立された神社で、「日吉」「日枝」「山王」と付く神社が日本全国に約3800社あるようです。大山咋神(おおやまくいのかみ)は『古事記』では別名を山末之大主神(やますえのおおぬしのかみ)と伝え、「大きな山の所有者の神」を意味し、「山の地主神」すなわち「山王」として崇拝されていたそうです。丸亀市、高松市、木田郡三木町の山王神社を結ぶラインの延長線上に、東かがわ市の倭迹々日百襲姫命を祀る水主神社があります。これは、倭迹々日百襲姫命と山王(大山咋神)との関係を示していると推定されます。

図1 山王神社(香川県)と水主神社 (東かがわ市)

 『古事記』の神々の生成では、伊邪那美命は、加具土命を生んだ後、鉱山の神である金山毘古神と金山媛比売神を生んでいます。徳島県徳島市に金山神社(山方比古神社)があり、金山毘古神(かなやまひこのかみ)と金山姫神(かなやまひめのかみ)を祀っています(図2)。金山神社は、香川県に多くありますが、さぬき市にある金山神社は、昔は山王権現(図2)と呼ばれたようです。金山神社(山方比古神社)とギョベクリ・テペを結ぶラインの近くには、金山神社(高松市香南町、坂出市)、岩倉山巨石群(広島県三次市)、天照大神を祀る山辺八代姫命神社(島根県大田市)、恵比須神社(大田市)があり、オリンポス山と金山神社(山方比古神社)を結ぶラインの近くには、須佐之男命と推定される八束水臣津野命を主祭神とする長浜神社(島根県出雲市)、金山神社(高松市栗林町)があります(図2)。これは、金山毘古神と天照大神や須佐之男命の関係を示していると推定されます。

図2 金山神社(山方比古神社)とギョベクリ・テペを結ぶラインと金山神社(高松市香南町、坂出市)、岩倉山巨石群、山辺八代姫命神社、恵比須神社、オリンポス山と金山神社(山方比古神社)を結ぶラインと長浜神社、金山神社(高松市栗林町)、金山神社(山王権現)(香川県さぬき市)

 津山市一宮にある美作國一之宮中山神社は、丹生都比売神社とギョベクリ・テペを結ぶラインの近くにあります(図3)。主祭神は、鏡作神(かがみつくりのかみ)で、金山彦命(天津麻羅と推定)とする説もあり、金山彦命が加具土命で、丹生津姫命との関係を示していると推定されます。

図3 丹生都比売神社とギョベクリ・テペを結ぶラインと美作國一之宮中山神社

 出雲大社豊受大神宮(伊勢神宮 外宮)を結ぶラインの近くに中山神社や建部郷の佐伯部社だった見明戸八幡神社(岡山県真庭市)や奥小屋八幡神社(兵庫県たつの市新宮町)があります(図4)。出雲大社の摂末社には、素戔嗚尊を祀る素鵞社(そがのやしろ)や、宇迦之魂神を祀る釜社(かまのやしろ)などがあります。このラインは、加具土命と須佐之男命や豊受大神や大国主命との関係を示していると推定されます(図4)。

図4 出雲大社と豊受大神宮(伊勢神宮 外宮)を結ぶラインと見明戸八幡神社、中山神社、奥小屋八幡神社

 図4のラインと出雲大社と彌彦神社を結ぶライン、越後一宮 彌彦神社(新潟県西蒲原郡弥彦村)と豊受大神宮(伊勢神宮 外宮)を結ぶラインで三角形を描くと、出雲大社と彌彦神社を結ぶラインは、豊受大神宮とイギリスの「聖ミカエルライン(セント・マイケルズ・ライン)」で知られる聖ミカエルの山(セント・マイケルズ・マウント)を結ぶラインとほぼ直角に交差します(図4)。彌彦神社と豊受大神宮を結ぶラインの近くには御嶽神社 里宮(長野県木曽郡王滝村)があり、豊受大神宮と聖ミカエルの山を結ぶラインの近くには日本武尊を祀る能褒野神社(三重県亀山市)があります(図5)。

図5 出雲大社と豊受大神宮(外宮)を結ぶラインと中山神社、出雲大社と彌彦神社を結ぶライン、彌彦神社と豊受大神宮を結ぶラインと御嶽神社 里宮、豊受大神宮と聖ミカエルの山を結ぶラインと能褒野神社

 岐阜県不破郡垂井町にある美濃国一宮南宮大社は、金山彦命を主祭神とし、彦火火出見命と見野命を配祀しています。ギョベクリ・テペと南宮大社を結ぶライン付近には福井県敦賀市金山の金山彦神社伊吹山があります(図6)。

図6 南宮大社とギョベクリ・テペを結ぶラインと金山彦神社(敦賀市)、伊吹山

 南宮大社とギョベクリ・テペを結ぶラインの近くの南宮大社から3kmほどの所に、美濃国二宮伊富岐神社(いぶきじんじゃ)があります(図7)。尾張連と同祖の伊福部氏が祖神を祀っているとされ、伊福部氏は吉備から移り住んだと推定されます。伊富岐神社の主祭神は、多多美彦命(たたみひこのみこと)(夷服岳神、気吹男神、伊富岐神ともいう 伊吹山の神)で、「たたら」と関係があると推定され、金山彦命(加具土命)と推定されます。

図7 南宮大社とギョベクリ・テペを結ぶラインと伊富岐神社

 島根県安来市にある金屋子神社は、島根県東部に多く分布する金屋子神社の総本宮で、祭神は金山彦命・金山姫命です。安来市には、金屋子神話民俗館があり、金屋子神は、高天原から播磨国に天下った後、白鷺に乗って出雲国比田村の桂の木に飛来し、発見した安部正重らに製鉄技術を教えた「鉄作りの祖」と紹介されています。金屋子神社(安来市)は、熊野速玉大社とギョベクリ・テペを結ぶラインの近くにあります(図8)。これは、金屋子神が加具土命で須佐之男命と関係があると推定されることと整合します。

図8 熊野速玉大社とギョベクリ・テペを結ぶラインと熊野本宮大社、金屋子神社

 『古事記』祀る天照大御神と須佐之男命の誓約の段で、天之菩卑能命(天穂日命)の子が建比良鳥命であり、出雲国造・无邪志国造・上菟上国造・下菟上国造・伊自牟国造・津島県直・遠江国造等の祖神であると記されています。松江市大庭町の神魂神社(かもすじんじゃ)は、現存する日本最古の大社造りで国宝になっていますが、社伝では、出雲国造の祖であるアメノホヒが高天原より大庭釜ケ谷に鉄釜に乗って降りて来たと伝えられ、神釜が祀られています。また、天穂日命の子孫が出雲国造として25代まで神魂神社に奉仕したとされています。伊弉諾神宮とギョベクリ・テペを結ぶラインは、神魂神社の近くを通ります(図9)。これは、天穂日命と伊弉諾尊の関係を示していると推定されます。

図9 伊弉諾神宮とギョベクリ・テペを結ぶラインと神魂神社

 兵庫県西脇市に天目一神社(あめのまひとつじんじゃ)があります。金属の精錬の神で、製鉄・鍛冶の神である天目一箇神の別名が天之御蔭命(あめのみかげのみこと)で、出雲国造家の始祖とされています。武夷鳥命(たけひなどりのみこと)、建比良鳥命(たけひらとりのみこと)、天夷鳥命とも記され、「高天原から 夷(鄙・ひな=出雲国)へ飛び下った鳥」の意味とされ、建比良鳥命と同一の神格と考えられています。

 徳島市多家良町にある立岩神社は、山方比古神社(金山神社)の末社で、祭神の天津摩羅(あまつまら)は鍛冶の神様です。川崎市の金山神社に、かなまら様の俗称があるのは、祭神の金山比古神が天津摩羅であるためと推定されます。古事記によると、八咫鏡は「…天の金山の鉄を取りて、鍛人天津麻羅を求ぎて伊斯許理度売命に科せて鏡を作らしめ…」とあり、この地で八咫鏡を製作されたものと推定されています。天津摩羅は、全国の氏族の系図を集めた『諸系譜』では天目一箇神の別名とされているようです。したがって、天目一箇神(建比良鳥命、天津摩羅)も加具土命と推定されます。

 東京都府中市にある大國魂神社(図10)は、大国主神と同神の大國魂大神を祀っていますが、出雲臣天穂日命の後裔が初めて武蔵国造(むさしのくにのみやつこ)に任ぜられ、大國魂神社に奉仕してから、代々の国造が奉仕しているといわれています。かなまら様の俗称がある金山神社(川崎市)とギョベクリ・テペを結ぶラインの近くに大國魂神社があります(図10)。金山神社は、関東では武蔵国とその周辺に多く分布しているので、天穂日命は、加具土命(金山比古神、天津摩羅)と推定されます(図10)。

図10 金山神社(川崎市)とギョベクリ・テペを結ぶラインと大國魂神社、金山神社

 記紀において、ツクヨミは伊弉諾命によって生み出されたとされ、長女天照大御神の弟神にあたり、建速須佐之男命の兄神にあたります。『古事記』は月読命、『日本書紀』は月読尊と表記し、一般的にツクヨミと言われています。『古事記』の三貴子の分治のところで、伊弉諾命は、月読命に夜の食国(をすくに)を治めるようにいいます。夜の食国は、昼すなわち太陽の国である山陽地方に対して、山陰地方を表すと推定されます。大山祇神(伊弉諾命)の子は、神大市比売神、加具土命、須佐之男命なので、神大市比売神が天照大神で、加具土命が月読命と考えられます。宮崎県西臼杵郡高千穂町にある天岩戸神社(あまのいわとじんじゃ)は、岩戸川を挟んで東本宮と西本宮があり、東本宮では、天照皇大神(あまてらすすめおおみかみ)、西本宮では、大日孁尊(おおひるめのみこと)を祀っています。天照皇大神天押帯日子命で、大日孁尊(大日孁貴)は、「日孁」が「日の女神」を表すので、神大市比売と推定されます。

 日前神宮・國懸神宮鹿島神宮を結ぶライン上には富士山や皇居があります(図11)。また、香取神宮とオリンポス山を結ぶラインは、茨城県の筑波山や栃木県日光市の男体山の近くを通ります(図12)。これは、経津主神が金山彦命(大物主、山王)であるためと思われます。香取神宮の祭祀氏族は、経津主の子の苗益命(なえますのみこと、天苗加命)を始祖とし、敏達天皇年間に子孫の豊佐登が「香取連」を称し、文武天皇年間(697年-707年)から香取社を奉斎し始めたといわれています。

図11 日前神宮・國懸神宮と鹿島神宮を結ぶラインと富士山、皇居
図12 香取神宮とオリンポス山を結ぶラインと筑波山、男体山

 アシナヅチ・テナヅチは、日本神話のヤマタノオロチ退治の説話に登場する夫婦神で、『古事記』では足名椎命・手名椎命、『日本書紀』は脚摩乳・手摩乳と表記します。手摩乳、脚摩乳がそれぞれ主祭神となっている神社として長野県諏訪市の手長神社足長神社があります。両社とも、かつては諏訪大社上社の境外末社とされていたようです。また、島根県出雲市の須佐神社、兵庫県姫路市の廣峯神社、埼玉県川越市の川越氷川神社などでも祀られています。茨城県那珂市にある静神社の末社に手接足尾(てつぎあしお)神社があります。静神社に祀られている建葉槌命(倭文神)は豊玉姫命と推定されるので、手接足尾神社の祭神は、手名椎命・足名椎命と思われます。

 須佐神社では、代々須佐神社の神職を務める稲田氏(後に須佐氏)は大国主の子孫としています。足名椎命・手名椎命はオオヤマツミ神の子ですが、須佐之男命の妃である神大市比売も、オオヤマツミ神の娘なので、足名椎命・手名椎命は、神大市比売の兄弟である加具土命と推定されます。オオヤマツミ神は、『古事記』では大山津見神、『日本書紀』では大山祇神、他に大山積神などとも表記されます。愛媛県今治市に、大山祇神社があります。

 川崎市にある稲毛神社(いなげじんじゃ)は、旧称が山王権現、武甕槌神社であることから、武甕槌神は、加具土命(金山毘古神、山王)と推定されます。したがって、武甕槌神は、倭大物主櫛甕玉命(大物主)と推定されます。加具土命は、神産みにおいてイザナギとイザナミとの間に生まれた神で、『古事記』によれば、加具土命の血から、甕速日神(みかはやひのかみ)、樋速日神(ひはやひのかみ)、建御雷之男神(たけみかづちのをのかみ)別名、建布都神(たけふつのかみ)、豊布都神(とよふつのかみ)などの神々が生まれています。建御雷之男神鹿嶋神宮の武甕槌大神と同一神で、建布都神と豊布都神の「建」と「豊」は、敬称なので千葉県香取市の香取神宮(かとりじんぐう)の経津主神と同一神と考えられます。

 甕速日神や武甕槌大神の「(みか)」は、水や酒を貯えたりするのに用いた「かめ」で、「水瓶/水甕」は、 辞書には、飲用水や工業・農業用水となる、湖やダムなどの貯水池や水源のたとえとあります。さいたま市大宮区にある武蔵一宮氷川神社の摂社に「門客人神社」があり、足摩乳命、手摩乳命が祀られています。元々は「荒脛巾(あらはばき)神社」と呼ばれていたもので、アラハバキ神が「客人神」として祀られ、氷川神社の地主神とされています。菊地栄吾氏は、「アラハバキ」はシュメール語で、天は AN、土地は KI で、「貯める」という意味の単語にHUBがあり、天と地、その間に貯めるものは、水や空気(風)で、AN・HUB・KI、(アン・ハブ・キ)が日本に渡り、アラハバキになったと推定しています。「アラハバキ」がシュメール語の「AN・HUB・KI、(アン・ハブ・キ)」とすると、「HUB」に貯めるという意味があるので「甕」と似ています。また、樋速日神の「(ひ)」は、池水や河水を放出・流下させる水門の意味があるので、治水を行ない農地を開拓した神と推定されます。加具土命は、縄文の神の「アラハバキ」と見なされたのかもしれません。スサノオが出雲国のヤマタノオロチを退治した時に用いた神剣の「天羽々斬(あめのはばきり)」の名前は、加具土命の作った刀であるからかもしれません。

 偽書とされる『東日流外三郡誌』には、縄文の神「アラハバキ」を「荒羽吐」または「荒覇吐」として書かれ、遮光器土偶が載せられています。遮光器土偶が見つかった青森県つがる市にある縄文時代晩期の亀ヶ岡遺跡(かめがおかいせき)の名前は、「甕が出土する丘」に由来するともいわれます。遮光器土偶がアラハバキ神とすると、アラハバキ神の手足の形は、縄文式甕形土器を模っているのかもしれません。埋甕(うめがめ)という縄文時代の深鉢形土器を土中に埋納する風習があるので、甕の神(アラハバキ神)を埋めたのかもしれません。亀の甲羅を使った占いは、殷王朝時代に行われ、皇室にも残っていますが、遮光器のような目は、「亀ヶ岡」という地名からウミガメの目を表しているのかもしれません。

 アシナヅチ・テナヅチの娘が、奇稲田姫(くしなだひめ)なので、丹生氏系図から、久志多麻命(くしたまのみこと 瓊瓊杵命 饒速日命)の兄弟と推定され、アシナヅチ、すなわち、加具土命が、鬼刀禰命(きとねのみこと)で、大山祇神が、比古麻命、すなわち、孝安天皇(天太玉命 伊弉諾尊)と推定されます。木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)は、大山津見神の娘とされていますが(図13)、火照命(海幸彦)と火遠理命(山幸彦 大国主命)を生んだ木花之佐久夜毘売は、市杵島姫丹生津姫名草戸畔と同一人物と推定され、木花之佐久夜毘売は、大山祇神の孫(奇稲田姫)と須佐之男命の娘と考えられます。木花之佐久夜毘売は『古事記』の別名で、本名を神阿多都比売(かむあたつひめ)といい、「阿多」は薩摩国(鹿児島県)にちなむ名とされることから、木花之佐久夜毘売の説話は、薩摩国の伝説が基になっていると推定されます。

図13 天皇系図 神代 「古事記」より 出典:「コノハナサクヤビメ」Wikipedia

 石川県加賀市の愛宕神社や、福井県の愛宕神社などでは、加具土命を祀っていて、加具土命は加賀国と関係がありそうです。また、石川県鳳珠郡穴水町の白雉神社(はくちじんじゃ)や、福井県の秋葉神社でも加具土命が祀られています。丹生氏系図によると比古麻命の子である「鬼刀禰命」の「」は、大和政権などの体制に従わない人々をいい、「刀禰」は、地域を治める代表者につけられた称号なので、「鬼刀禰命」は、大和政権に従わない地域を治めた(つかさ)をいうのかもしれません。『古事記』には、八千矛神(大国主命)が高志の沼河比売(ぬなかわひめ)のもとに妻問いに行った神話が記されています。『先代旧事本紀』では建御名方神(たけみなかたのかみ)は沼河比売(高志沼河姫)の子となっています。

 高志国は、ヤマタノオロチ(八俣遠呂智:八岐大蛇)の出身地ですが、九頭竜川があり、ヤマタノオロチは、俣が8つあるので、頭が9つの九頭竜だったのかもしれません。九頭竜川には、治水神の禹王の碑があり、「禹」には「龍」の意味があり、「九」も龍を表すようです1)。韓国の「禹」姓一族のルーツは禹玄とされ、高句麗期に朝鮮半島中部の丹陽に移住して官職についたようです3)。高志国は、中国最初の王朝「夏」の禹王と関係があるのかもしれません。

 島根県出雲市の西谷3号墳は、突出部を含むと長辺約50メートルの大規模な四隅突出型墳丘墓で、墳頂部に並列する木槨墓(もっかくぼ)があり、岡山県倉敷市の楯築墳丘墓の木槨墓と類似し、吉備地方の特殊壺形・特殊器台形土器がみられます4)。楯築墳丘墓が神大市比売神の陵墓とすると、西谷3号墳には、加具土命(月読命)が葬られているのかもしれません。木槨墓は、中国では殷代にすでにみられ、周・漢代の墳墓の基調をなし、韓国慶尚南道金海市にある金官加耶の大成洞遺跡でも3世紀後半から5世紀前半の大型木槨墓が見つかっています5)。

 プルタルコスによると、エジプト人はナイル川だけでなく、およそ水に関わるものをオシリスと呼び、この神を祀る祭礼の行列では、常に水瓶(みずがめ)が先頭を行くそうです5)。クノッソス宮殿の壁画にも、水瓶を捧げて並んだ女性のフレスコ画が描かれています。また、水というのは万物の始原、万物が生まれる元で、自分自身から最初の三元、地と気と火を作り出したとされていたようです6)。プラトンは、後期の著作『ティマイオス』で、世界の物質は、火・空気(もしくは風)・水・土の4つの元素から構成されるとする概念(四元素説)を受け継いでいます。

 神社の神紋や、丹生氏、西園寺家などの家紋の巴紋は、水に関する模様なので、これを表しているのかもしれません。また、三元から作られる土器や刀剣を神聖なものとするのは、このためかもしれません。籠神社丹生都比売神社の神紋は「左三つ巴」です。西園寺家の巴紋は、平安後期に西園寺実季がこれを自家の車の文様に定めたといわれ、西園寺嫡流は「左三つ巴」を用いたのに対し、その庶流家は「右三つ巴」を使用しています。丹生氏が「右三つ巴」を使用しているのは、菟道彦(山幸彦)が庶流家だったためかもしれません。

 新羅の慶州鶏林路14号墳出土の5世紀の「装飾宝剣」(写真1)には、「三つ巴」に似た装飾が見られますが、カザフスタン出土品のガーネット(ザクロ石)を使った宝剣と同じものだそうです7)。「古代韓国の外来系文物」 KBS WORLDによると、新羅の「装飾宝剣」は、インドで産出するガーネットが使われ、銅の成分からクリミア半島で加工された可能性があるようです。トルコのギョベクリ・テぺと、淡路島にあるおのころ島神社を結ぶラインは、アララト山やカザフスタンや韓国東部を通り(図14)、ギリシャのオリンポス山とおのころ島神社を結ぶラインは、クリミヤ半島北部や朝鮮半島北部を通ります(図15)。

写真1 慶州鶏林路14号墳出土の装飾宝剣 出典:「古代韓国の外来系文物」 KBS WORLD
図14 ギョベクリ・テペとおのころ神社を結ぶラインとアララト山
図15 オリンポス山とおのころ島神社を結ぶラインとクリミヤ半島(赤印)

  クリミア半島の東、黒海とアゾフ海を結ぶケルチ海峡に面した古代ギリシアの都市ケルチは、紀元前7世紀後期から紀元前6世紀初期にかけて、アナトリア半島西海岸にあるギリシア人植民市のミレトス人が、パンティカパイオンという都市国家を建設した時から始まったとされますが、紀元前17世紀〜紀元前15世紀には既に人が居住していたようです。ミレトスが建設される以前の後期青銅器時代にはこの地にミノア人やミュケナイ系ギリシャ人が居住していた痕跡があるようです。

 クリミア半島は、古代には「タウリカ」と呼ばれていました。タウリカの地の由来であるタウロイ人は、スキタイ系民族で、ギリシア神話において、タウリカは父王アガメムノンによって生贄に捧げられたミケーネの王女イピゲネイアが、女神アルテミスに救い出されてから送り込まれた地として登場します。タウリカの最初の住人は、ヘロドトスの『歴史』などによると、紀元前9世紀頃に南ウクライナで勢力をふるった遊牧騎馬民族のキンメリア人です。クリミアは、クリムと呼ぶこともあり、語源は確かではありませんが、古テュルク語で「丘」、「尾根」、「山の頂」などを意味する言葉に当てる説や、黒海北岸の古代地名である「キンメリア」と関係があるとする説などがあります。

 キンメリア人の遺物の骨角器装身具(写真2)には、「渦巻模様」で「丸に十字」を形作った模様が見られ、紀元前1000 年頃の青銅器(写真3)には、「ハルパー」(アダマスの鎌)の剣ような形の武器や、籠神社に伝わる「内行花文鏡」(写真4)の模様に似た円形の馬具があります。スキタイ時代(紀元前8世紀~紀元前3世紀)が始まる前、南ロシア草原には地下横穴墓(カタコンブナヤ)文化と、木槨墓(スルブナヤ)文化があったようです。北カフカスや黒海北岸で出土した先スキタイ時代の武器や馬具とそっくりなものが、アナトリア中部と東部の遺跡で発見されていて、中でもイミルレル遺跡はキンメリア人が移住したとされるスィノプから南へ120キロほどの距離にあるようです。

写真2 骨角器装身具 出典:「キンメリア人」wikipedia
写真3 Uashkhitu 墳墓 2 (紀元前 1,000 年)出土の青銅器 出典:「キンメリア人」wikipedia
写真4 籠神社の息津鏡(内行花文鏡) 出典:https://www.motoise.jp/about/houbutsu/

 和歌山県伊都郡かつらぎ町にある丹生都比売神社(写真5)は、2004年に「紀伊山地の霊場と参詣道」として、高野山、熊野、吉野地域とともに世界遺産に登録されました。神社の境内にある光明真言曼荼羅碑(写真6)は、1662年に建てられたもので、中央に大日如来の真言で地・水・火・風・空を象徴する5つの梵字を十字に配置し、その周りを光明真言の24の梵字が取り囲んでいます。光明真言曼荼羅は、高野山の御影堂(写真7)にも納められていましたが、現在は霊宝館に収められています。光明真言曼荼羅は、「太陽十字(車輪十字)」を表しているのかもしれません。

写真5 丹生都比売神社
写真6 丹生都比売神社にある光明真言曼荼羅碑
写真7 御影堂と三鈷の松

 福井県敦賀市に 氣比神宮(けひじんぐう)があり、伊奢沙別命を祭神としています。岐阜県大垣市にある金山彦神社とギョベクリ・テペを結ぶラインは氣比神宮の近くを通るので(図16)、伊奢沙別命は、金山彦命(加具土命)と関係があると推定されます。

図16 金山彦神社(大垣市)とギョベクリ・テペを結ぶラインと氣比神宮

 八岐大蛇退治の神話に似たギリシャ神話があります8)。アルゴスの王子ペルセウスは、メデューサを退治した後、エチオピアにやってきますが、ケーペウス(ケフェウス)とカシオペア王妃が、アンドロメダ王女を海魔の生贄にしなければならず、嘆き悲しんでいます。ペルセウスは、メデューサの首で海魔を石に変えて退治し、アンドロメダと結ばれます。木村鷹太郎氏は、『星座とその神話』で、「ペルセウス」を「須佐之男命」、「アンドロメダ」を「櫛稲田姫」、「ケヒウス(ケーペウス)」を 「氣比の大神」とし、天文や地理の神としています9)。また、「エチオピア」は「越の国」ではないかとしています9)。「ケーペウス」が「氣比の大神」である「加具土命」とすると「月読」の天体観測の性質と一致し、「カシオペア」は豊受姫命に相当し、カシオペアの星座は、女王の椅子に座った夫人を表しているので性質が一致します。

 「伊奢沙」は、E-zasa(管などを意味する)とし、星座のケーペウスの持っている棒を天体観測用のものと推定していますが、伊奢沙別命は、天筒の嶺に降臨したと伝承されています。古代エジプトのヒエログラフに「レンズ」を意味する文字があり、実際にエジプト・サッカラの王家の墳墓から水晶レンズが発掘され、大英博物館に所蔵されています。また、ギリシャのクレタ島遺跡からも発掘されています10)。したがって、ケーペウスの「筒」は望遠鏡かもしれません。

 アンドロメダ姫は、エティオピア王国の王女です。ここでいう「エティオピア」は現代の「エチオピア」とは異なり、地中海の南東岸、現在のイスラエルからヨルダン、エジプト付近全体のことを指すようです。 現代のエチオピアには、イエメンのサバ王国から住民も少数移住し、ソロモン王シバの女王の血筋を受け継ぐと称するアクスム王国(100年–940年)が、紅海沿岸の港町アドゥリス(現在のエリトリアのマッサワ近郊)を通じた貿易で繁栄していたようです。この時代のエチオピアは、ギリシャやローマなど、地中海世界の影響を強く受けていたと考えられています。

 紀元前2世紀の古代ギリシャのヒッパルコスは、初めて天の座標を作り、850の星に光度による6つの等級をつけて星図に表わし、約300年後、プトレマイオスヒッパルコスの作った星図を増補改訂し、1022の天体からなる新たな星図を表しました。この時、プトレマイオスは、民間伝承として伝えられてきたいくつかの星のグループを、48の星座(カシオペア座アンドロメダ座ペルセウス座、オリオン座、兎座、大犬座(シリウスを含む)、水瓶座、竜座、琴座(織姫星を含む)、白鳥座など)として正式に自らの星図に取り込んだそうです。

 木村氏は、「ペルセウス」を「須佐之男命」としています。ペルセウスは、ゼウスとアルゴスの王女ダナエ―との間に生まれた英雄で、ミケーネ文明の王家の創始者になったとされています。ペルセウスがスサノオなので、ゼウスがイザナギ、ダナエ―がイザナミに相当します。アルゴスは、ギリシア神話に登場する100の目をもつ(あるいは体に多くの目をそなえた)巨人なので、エジプト語で「多い目」を意味するオシリス5)、すなわち多氏を表すと推定されます。孝霊天皇(須佐之男命)の母親の押媛(おしひめ)は、伊弉冉命(いざなみ)で、多(意富)氏と推定されることと一致します。ギリシャ神話では、ペルセウスはディオニュソスと戦っていますが、ペルセウスがスサノオで、ディオニュソスがニギハヤヒとすると、東征の話と似ています。一説によるとペルセウスがアルゴスの王となった後、ディオニュソスの来訪が起こり、戦争に発展しました。ディオニュソスはエーゲ海の島からハリアイ(海の女たち)をともなって現れ、ペルセウスは軍を率いてこれと戦い、ペルセウスはディオニュソスを殺したとも伝えられています。しかしディオニュソスはレルネーの泉を通って冥府から戻ってくることができ、その後、両者は和解し、アルゴス人はディオニュソスの神域を選定して、クレタゆかりのディオニュソスの神殿を建設しました。

 ペルセウスは、メドゥーサ討伐に、鍛冶神ヘーパイストスが鍛造した鎌のように湾曲した形状をしているアダマントのハルパー(アダマスの鎌)を使用しています。エジプトにもケペシュと言われる鎌形の剣があり、壁画などから多くのファラオがケペシュを使用していたことがわかり、儀式用の可能性が高いとされています。2022年は、ツタンカーメンの墓の発見から100年になりますが、3,300年前のツタンカーメンの王墓からは、2本のケペシュと、若きファラオがケペシュでライオンを打ち倒している場面が描かれた儀式用の盾が副葬品として見つかっています。戦車の模様は、クノッソス宮殿の王妃の間の天井と同様なダブルスパイラル(S字文)の連続文様があります。他にシュメールの王の紋である青銅器製菊花紋なども出土しています。

 千葉県白井市の旧家川上家から、内反りの短刀が見つかっています。鍔にはダブルスパイラル(S字文)の連続文様があり、川上家は江戸時代後期に牧士に任じられています。江戸幕府の御用牧では、名主などの有力農民が多くその任務にあてられ、名字帯刀など武士に準じる身分特権を与えられました。物部氏・尾張氏・海部氏系の川上氏で、川上梟帥(天穂日命(加具土命)を祖とする五百城入彦皇子と推定)の後裔かもしれません。

 和珥氏の本拠地である天理市の東大寺山古墳で「中平紀年銘刀」が見つかっています。「中平」は後漢末の霊帝の年号(184~189年)で、倭国大乱の時期に当たると考えられ、環頭は日本製で4世紀の制作であり、刀身は純金の象嵌があることから渡来物とされていますが、刀身は逆そり(内反り)で中国では見られないことから「舶載品」とすることには疑問も出されています11)。武蔵七党の丹党の時基が、備前長船の景光に造らせた「謙信景光」も内反りの剣です。三種の神器の草薙剣(くさなぎのつるぎ)も、草を刈る鎌の形と「草薙」の名前から想像すると、内反りの剣ではないかと思われます。都牟刈の大刀(つむがりのたち)とも呼ばれるのは、「都牟」は「頭(つむ)」でメドゥーサの首を刎ねたハルパーと関係があるかもしれません。

 三種の神器は、八咫鏡(やたのかがみ)、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)と草薙剣ですが、古代信仰の中では八が神聖数として取り扱われていたと考えられているので、草薙剣にも「八」が付いていたと考えられます。熱田神宮天叢雲剣(本体)は、一般には公開されていませんが、江戸時代の書物に長さは約85cmとあります。1874年に石上神宮の禁足地から発掘された布都御魂剣は、内反りの剣で、柄頭に環頭が付いており、全長は記録によると約85cmです。柄の長さは約13cmと推定され、刀身の長さを8で割ると9cmとなります。これは、握り拳の幅と同程度なので、これらは「八握(拳)剣(やつかのつるぎ)」と考えられます。したがって、石上神宮の布都御魂剣が草薙剣ではないかと思われます。戸谷学氏も、「渡来の銅剣」である熱田の剣はもともとの草薙剣ではなく、天叢雲剣は硬度が高い日本式に鍛造された内反りの鉄剣で、「叢雲」の刃紋があったと推定しています12)。

 後漢が滅亡した220年から西晋による統一の280年までの三国時代の魏尺は24.2cmです。日本刀の「柄(つか)」の標準的な長さは、柄八寸といわれ1尺30cm×0.8=24cmですが、魏尺が使われていた時代の「柄」は、魏尺24.2cmの八寸の19.36㎝と推定されます。「柄」は両手で持つので、従来の片手で持つ剣の「握(つか)」の2倍の長さとなったと考えられます。魏尺で作られた「八尺剣」の刀身は24.2cm×8=193.6cmで、「十柄剣」の19.36cm×10=193.6cmと同じ長さなので、「十柄剣(とつかつるぎ)」は、魏尺が使われていた時代の「八尺剣(やさかのつるぎ)」と推定されます。須佐之男命は、初めは「八束(やつか)」で、東遷後に「八尺(やじゃく)」に変わったと推定され、新井宏氏の「古韓尺で作られた纏向大型建物群」の論文によると、魏尺は、卑弥呼が帯方郡に使者を送った西暦238年頃に使われ始めたと見るべきとしています。したがって、「とつかつるぎ」は、伊弉諾命の時代にはなかったと考えられ、伊弉諾命が、「とつかつるぎ」で加具土命を斬ったという説話は史実ではないと考えられます。

文献
1)真弓常忠 2018 「古代の鉄と神々」 ちくま学芸文庫
2)戸矢 学 2020 「スサノヲの正体」 河出書房新社
3)王 敏 2014 「禹王と日本人」 NHKブックス
4)白石太一郎 2013 「古墳からみた倭国の形成と展開」 敬文舎
5)白石太一郎 2016 「前方後円墳の出現と日本国家の起原」 KADOKAWA
6)プルタルコス著 柳沼重剛訳 1996 「エジプト神イシスとオシリスの伝説について」 岩波文庫
7)朴 天秀 2016 4基調報告「古代韓日交渉史の新たな展望と課題」 発見・検証 日本の古代Ⅱ「騎馬文化と古代のイノベーション」 角川文化振興財団
8)豊田有恒 2022 「ヤマトタケルの謎」 祥伝社新書
9)木村鷹太郎 2001 復刻版 「星座とその神話」 八幡書店
10)南山 宏 1993 「オーパーツの謎」 二見書房
11)宝賀寿男 2012 「古代氏族の研究① 和珥氏」 青垣出版
12)戸矢 学 2021 「神々の子孫 「新撰姓氏録」から解き明かす日本人の血脈」 方丈社