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PS.ありがとう 第20話

「ご注文は以上でよろしいでしょうか」

「はい大丈夫です」

ウエイトレスがいなくなり、ふと考えた。これをどうやって飲もうか。万が一のことを考えると帽子もサングラスもとりたくない。当然マスクもだ。

仕方がないので、マスクを着けたまま口の下の隙間からストローを差し込んだ。ふと道路側を見ると、ガラスに自分の姿が映っていた。何かに追われている人にしか見えない。お店とは全くミスマッチの自分の姿に、思わずアイスコーヒーを吹き出しそうになった。

目を上げると、窓に気を取られている間に女性と祐輔がこちらを向いて何かを話していた。

なるべく顔が見えないように雑誌を立て、雑誌の上から様子を見る。明らかにこちらを見ながら話をしている。緊張に大粒の汗が額を流れ落ちる。

祐輔が立ち上がってこちらに向かってきた。思わず雑誌を立て顔を伏せる。横まで来る。足元を見るとテーブルの横で立ち止まっているのが確認できた。この格好で気が付かれないからいいのであって、店内でもマスクとサングラスと帽子を身に着けている状態でばれたとすれば、目も当てられない。

心臓の音が店中に聞こえている気がする。バレたら東京行きの説得もあったものじゃない。いや、逆に開き直って修羅場を演じるか。そんな考えは一瞬で消え失せる。自分にはそこまでする勇気もないことくらい知っている。ここで騒げば東京行きも祐輔への信頼も全てなくなるのだろう。下手すりゃ離婚も考えなければならないかもしれない。

腕の先からお尻まで緊張が走る。なかなか顔を上げられない。前方では女性がテーブルに着いたままこちらを指している。祐輔の足が進んだ。

サングラスの下から祐輔の足元を追う。祐輔はそのまま進み、店の端にあるトイレに入って行った。

トイレの場所を探していたのか。瑤子の後方をさらに右に曲がったところにトイレのマークが見えた。今まで来た時は使わなかったのだろうか。

見つかったわけではなかった。瑤子の体を支えていた支柱が一気に奪われたた気がした。一瞬で体中の力が抜ける。思わずため息がでた。あおむけになる体勢でソファに体を静めた。顔を上げて天井を見つめる。レストランの照明の柔らかさが心地よい。冷めた心を温めてくれる気がした。

しばらくして、祐輔がトイレから帰ってきて元の席に戻ったのを確認したら急に涙がこぼれてきた。いったい自分は何をしているのだろう。こんなことをして楽しいのか、ここまでしないと東京行きのことを祐輔に言えないのか。もはや夫婦関係は決裂しているのか。色々な疑問が頭を渦巻いていた。疑問が感情になって胸の中で暴れている。

目を上げるとレイナちゃんママが心配そうにこちらを見ていた。目が合うと優しく笑って頷いてくれた。ここまでこれたのも奇跡に近い。レイナちゃんママの協力があるからだ。レイナちゃんママは私たちのことを考えてスパイみたいなことをしてくれている。やはりここは計画通り進めるべきだ、もう一度気持ちを持ち直した。

どのシーンで動画を撮ろうか。そう考えたらまた次の問題が発生した。怪しい自分はどのようにして2人にカメラを向けるのだろうか。勇み足でここまで来たのはいいが、バレないように証拠を押さえるのは難儀なことだというのが、今になってわかる。スクープ写真を撮っている人たちの苦労が身に染みて分かった気がした。

2人がウエイトレスを呼んでいるのが見えた。レイナちゃんママがあわてて2人のテーブルに駆け寄った。追加でオーダーしているようだ。今だ、瑤子は机の上に置いていたスマホを持つとカメラを立ち上げた。

雑誌の上からレンズの部分だけを出して、オーダーをしている2人を映す。何度も確認する祐輔の横顔もしっかり捕らえた。レンズの向こう側が週刊誌の1ページのようだ。

瑤子は数分撮るとテーブルにスマホを置いて動画を確認した。撮れた映像は納得のいくものだった。急いでアイスコーヒーを飲み干し、瑤子はレジに向かった。2人の席の横を通り過ぎる際はやはり顔を伏せた。帰って子供たちをお風呂に入れなければならない、晴香と美羽の顔が急に目の前に現れる。気持ちはすぐに切り替わっていた。

レジで支払いをしているとレイナちゃんママがきて、レジ打ちしている女性の横に並んだ。ウインクをしてくれている。ありがとう、そう心の中でつぶやいた。この世に味方がいるのはいいものだと思った。

自宅に帰ると二人がソファに寝転がってじゃれていた。

「ごめんねー、ちょっと遅くなったね。晴香だいじょうぶだった?」

「まかせて、美羽も寂しくなかったよね」

「うん、お姉ちゃんと留守番できるもん、今度は一人でも大丈夫だよ」

子供たちの笑顔が体中を駆け巡る。仕事をしている父親はこういうのにいやされるのだろう、甘い思いが笑顔といっしょに体に浸透していた。

子供たちが寝静まったのを確認すると瑤子はスマホの動画を再び確認していた。せっかく証拠が手に入っていたのに気持ちは重かった。一番気に障るのは女性が思っていた以上にきれいだったことだ。多少、ぶさいくであれば笑って済ませる気がした。

自分の方がきれいなはずだ、胸の中でもやもやしたものが大きくなる。

「祐輔のやろう」

思ってもない言葉が漏れる。思い返してみると、この半年は夫婦の営みもない。最後にしたのはいつだろう。体の温もりの記憶はたどっても蘇らなかった。祐輔を誘ってみたらどんな反応をするだろうか。あの女性とは男女の関係を持ったのだろうか。女性と抱き合っている祐輔を想像して気分がわるくなった。

果たして彼女とは男女の関係になったのだろうか。明確な理由はないが、それはないような気がする。

不倫現場を抑えたとは言っても食事に来ているだけだと言われれば、それで終わってしまうだろう。そんなちっぽけなネタしかつかんでいないことに気付かされる。

ただ祐輔のことだから実際に不倫していれば食事の現場を抑えられただけでも正直に白状するだろう、それくらいの誠実さは持っている人間のはずだ、気持ちだけは。果たして体はどうなのだろうか。

最近にしては珍しく、瑤子は祐輔の帰りを待つことにした。試してみよう。夫婦だ、試せば他の女性と体を重ねたかどうか位はわかるはずだ。

祐輔は終電の時間に帰ってきた。食事を済ませたことはラインで連絡が来ていた。仕事の打ち合わせだそうだ。当然現場を見ているから食事が終わっていることは知っている。どんな人といっしょに食べたのかも。あいにく名前まではわからないが。

祐輔が風呂に入るというので、先に寝室で待つことにした。久しぶりにセックスをするとなると、少し気持ちが高ぶった。心臓が高鳴るのがわかる。体に触れるシーツが新たな感触を呼び起こす気がした。シーツがすれる音もこんな時でしか耳に入ってこない。

初めて男性とベッドを共にした時の気持ちに戻ったようだ。瑤子は体が熱くなるのを感じた。思わず手が体のあらゆるところに触れていた。そんなことをしているうちに風呂上がりの祐輔が隣のベッドに入ったのがわかった。すっかり準備は整っていた。

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