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日記 第10話

前回までのあらすじ
妻の千沙と離婚をし、仕事を長期休暇している祐樹は一人でいることに耐え切れず結婚相談所に出向き新しい人生を歩もうとしていた。結婚相談所では年上の女性を紹介してくれることになったが、わずかながら千沙への未練が時折頭をもたげるのだった。

日記 第10話

カーテンを開けるとまぶしい光がどっと押し寄せてきた。体に生気が蘇るようだ。熟女を紹介してくれることになってからなんとなく体調が良くなった気がする。窓を開けると涼しい風が吹き込んできた。思い切り初夏の空気を吸い込んだ。陽気に誘われて、久しぶりに買い物にでも行ってみようかと思った。

3月だが例年より気温が高く、ここ数日4月並みの気候が続いていた。東京の桜の木がピンクに色付き始めている。

自宅を出て電車を乗り継いで麻布十番に来た。一人で来るのは何年ぶりだろう。結婚してからはいつも千沙といっしょに来ていた。

本屋で立ち読みをしたり、あられ屋で一袋購入し、名物のたい焼きが食べたいと思い、店先まで行くと60分待ちだというのであきらめた。

平日に来ればよかったとここに来て後悔した。日曜日の午後だ、歩道は多くの人たちでごった返し、立ち往生するくらいだった。

祐樹は昼食がまだだったことを思い出した。思い出すと急にお腹が鳴った。周りを見渡すとおいしそうな飲食店ばかりだ。

祐樹は麻布十番の中心の通りを進むと、左の路地に入った。緑色の看板を目指す。昔よく千沙と通っていた野菜を使った料理が名物の店だ。

外はオープンカフェになっていた。店内は10席くらいのテーブルが並ぶ。店員に奥のテーブルまで案内された。

「西澤さんじゃない」

上着を脱いでいると近くの席から声をかけられた。振り返ると吉田さんのご主人の達夫さんだった。うれしそうに微笑んでいる。となりには公子さんが同じ笑顔を向けていた。

一瞬公子さんのスカートをめくる光景が頭に浮かび、心臓が鳴った。

「ああ、こんにちは、今日はデートですか」

慌てて挨拶をした。

「西澤さん、こっちにおいでよ、いっしょに食べよう」

主人の達夫さんが公子さんの方を向いて同意を求めた。

「そうよ、命の恩人なんだから、いっしょに食べましょ」

笑顔が清々しかった。いつも一人で考え事ばかりをしているからか、公子さんの笑顔が新鮮に感じた。

公子さんはスカートをめくられて秘部まで見られたことを知らないはずだ。祐樹に救助されたと思っている。だが、公子さんのくったくのない笑顔を見て、祐樹はこだわっている自分を恥ずかしく思った。

「いいんですか?夫婦水入らずのところ」

「何言ってんのよ、こっちにきてよ」

達夫さんが優しいまなざしで手招きをする。2人の前には半分くらい空いた白ワインのボトルが氷でいっぱいのバケツに浮かんでいた。

昔から達夫さんは優しい。おっとりしていて、話をしていると癒される気がしていた。

「じゃあちょっとおじゃましようかな」

そう言って祐樹はテーブルを移動した。千沙がいた時は吉田夫妻と4人でよくこの店に来ていたことを思い出す。

「西澤さんとりあえずビールかな」

達夫さんが気を使って注文を入れてくれる。

「そうですね、ビールが飲みたいかな」

ビールが届くと3人で乾杯をした。

「西澤さん、この前はうちの公子を助けてくれて、ありがとうね」

横で公子さんが申し訳なさそうな目で祐樹に頭を下げた。

「何を言ってるんですか、仕事ですから当然のことです」

「いやね、よくあることなんだけど、この前はちょっと手に負えないなって思って、迷ったけど救急車よんじゃったから、でも来てくれたのが西澤さんで安心したよ」

「他のサービス業だったら、いつでも呼んでくださいっていうところですけど、うちばかりはね」

感謝されるのは仕事冥利につきる。この仕事をやっていて一番のご褒美だ。

「ところでさ、西澤さん、なんか大変だったみたいね。公子から聞いたよ。でも頑張ってね、俺たち応援してるからさ」

達夫さんがワインを口に運びながら言った。横で公子さんがうつむいて頭を小刻みに上下させている。千沙と公子さんは小学校の時からの付き合いだから、話は通じているのは覚悟していたが、思わぬ言葉に胸が締め付けられる思いだ。

「西澤さん、私は千沙と幼馴染みだけどね全部千沙の味方っていうわけでもないから。どっちが悪いとかじゃなくて、私たちとは今までと同じようにお付き合いしましょ。主人も飲み仲間がいなくなるのいやみたいだし。千紗とも祐樹さんとも今まで通りでいたいの」

祐樹は涙がこぼれそうになるのを必死で我慢した。

ずっと1人だと思っていたが、人は助け合いながら生きているんだと実感した。人は1人では生きていけないけど、自分にでも助けてくれる人がいたことに驚いた。同時に、こんな自分にもいるんだから、1人で思い悩んでいる人みんなにもきっといるはずだと思った。

思わぬ再開に話がはずんだ。時計を見ると食事を始めてから2時間経っていた。ひとしきり飲んで解散した。

人っていいもんんだな、祐樹は駅から自宅までの道を歩きながら食事の時の光景を思い出していた。2人と話をして今まで溜まっていた鬱憤がいくぶんか解消されたような気がする。

薄暗い街の色が、今日は明るく見えた。空は澄み渡り、咲き始めた桜が祐樹に春の到来を告げていた。

シャワーを浴びてソファに腰掛けた。昼食が遅かったからあまりお腹も空いてないが、何か口にいれなければ夜中に目を覚ますことは目に見えている。はて何を食べようか、と思案していると玄関のベルが鳴った。

「はーい喜んで」

誰が聞いているわけでもないが、何となく口に出た。玄関のドアを開けるとサングラスの女性が立っていた。

「えへ、きちゃった」

その女性は、突然彼氏の部屋に押しかけた彼女が言うようなセリフを口にすると、祐樹を押しのけ奥にずかずかと入って行った。

「ちょっと、すみません、どちら様でしょうか」

コートを脱いでサングラスを外した女性は結婚相談所の三上さんだった。

日記 第11話に続く


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