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病と俳句の系譜―芭蕉、一茶、子規 『闘病・介護・看取り・再生詩歌集』への参加を呼び掛ける

アンソロジー詩歌集『闘病・介護・看取り・再生詩歌集―パンデミック時代の記憶を伝える』の作品を公募中だ。
俳句の歴史において、「闘病」中の床から詠まれた俳句については、老いや死のテーマとも絡み合いながら、多くの例があるだろう。そのような病人の世話をする看病や生活補助をする「介護」はいつの時代も当然あったことであろうが、俳句のテーマとしてより前景化してくるとしたら、現代の高齢化社会で「介護」が一般化された以後であろう。その担い手(歴史的には多くが女性)が俳句を詠める時間的余裕があったかということと、またその介護人が、病人が苦しむ生々しい姿を題材にして俳句にする強い精神性が要されただろうということも想像される。「看取り」の俳句は、介護の延長ではあるが、残された時間でどのように死者を彼の世に見送るか、というかけがえのない日々の記録ともなるだろう。そしてそのことは、死者や此の世に残された自分自身と向き合い、再び前を向いて生きていく「再生」へと繋がる。
以上のようなアンソロジーのテーマ、病と俳句の関係について、いくつかの有名な俳句と、俳人による随想を挙げながらその系譜を追ってみたい。

松尾芭蕉(一六四四~一六九四年)

病中吟
 旅に病で夢は枯野をかけ廻る 松尾芭蕉

一六九四(元禄七)年十月八日、芭蕉が亡くなる四日前の句である。江戸を発ち伊賀上野(三重県)へ向かい、願わくば長崎へと志していたが、途中弟子の仲たがいの仲裁のため大坂へ。そこで酷い下痢に襲われ病に倒れる。南御堂前の花屋仁左衛門の離れ座敷に病床を移し、そこで詠まれた句。「病中吟」と前書きがあるが、翌々十日には遺書を書いている。弟子の路通は、『芭蕉翁行状記』の中で、「平生則ち辞世なり」という芭蕉の言葉を記録しているので、そのような覚悟の下に詠まれた多くの平生の内の一句、とも考えられる。しかし、それでも「死を覚悟すべき病」であることを芭蕉自身も感じていたに違いない。

私が掲句に第一に感じるのは、肉体と精神(そして現実と理想)の乖離である。歩き続けて旅の道中を進みたい心に反し、体は言うことを聞かず、床に臥せって動けない。それでも精神の方は夢の中で旅を続けている。夢の中なのでどのような世界を描くことも出来る。枯野には寂寞の思いを込めていると共に、健康であったならば歩いていただろう現実の旅中の冬の枯野を思い描いている。しかしそれにしても「かけ廻る」ことは、現実世界ではなかなかできない。夢の中だから実感できる、現実世界からすれば過剰な表現だ。ここに、病床にあって肉体と精神が分離せざるを得なかったからこそ芸術的現実に到達できたといえるのではないか。しかしこれは単なる現実逃避や朦朧ではない。病の極限状態ゆえに、己の人生の最大の望みが前景化する、それが示された句といえるのではないか。

なお弟子たちは、芭蕉が「なほかけ廻る夢心」や「枯野を廻る夢心」という別案も検討したことを伝えている。弟子の支考は『笈日記』に次のようにも記している。

生死の転変を前におきながら発句すべきわざにもあらねど、よのつね此の道を心にこめて年もやや半百に過ぎたれば、いねては朝雲暮烟の間をかけり、さめては山水野鳥の声におどろく。是を仏の妄執といましめ給へる、ただちは今の身の上におぼえ侍るなり。此の後はただ生前の俳諧を忘れむとのみおもふは。
支考『笈日記』

加藤楸邨はこれを受けて、「臨終に至って執着を去って澄みとおった安心の中に瞑目したい願いと、その際なお風雅に執着する一念との相克は、芭蕉生涯の縮図ともいうべく、生涯の悩みはこの一点に凝集せられている」と述べている。

精神と肉体の乖離は、この、彼の世への悟りと現世での風雅の追究との間の相克でもあったのだ。

小林一茶(一七六三~一八二八年)

小林一茶は、一八〇一(享和元)年、父親が腸チフスを発症して倒れ、亡くなり、初七日までを記した『父の終焉日記』を遺した。日記中、〈寝すがたの蠅追ふもけふがかぎり哉〉などの句が記されている。一茶は、父の看病、「介護」をし、それを句日記の形に残した、先駆者であったと言えるだろう。日記からある一日を引用してみる。

十三日 けさは別して心よしとて、「酒たうべたき。」と云るゝに、医師のいかう禁めたれば、一雫なりとも、全快迄は進めまじと思ひしに、訪ひける人いはく、「もし死れたらんに、さまで好まれしを停じて、後に悔るともかひなからん。何に好るゝものを、おほくはならずとも、一口二口は進めてんこそ本意なれ。」と云るゝに、透を見て魔を入れんとおもふ人達、耳をそばだて聞居たりしが、「けさは病人の好るゝに任せて進よ、進よや、〳〵。」とて進らるゝ。病人は渡りに舟得しやうに、日比の望たりぬ顔して呑るゝ程に、鯨の海を吸ふがごとく、朝の間に五合ばかりかたぶけ給ふ。廿日あまりも穀たうべ給はぬやまいに、かくあら〳〵しき事をなすとは、三歳の児に聞かすとも眉ヒソムベキ。一茶ひとり手に汗をにぎるといへども、二人に敵しがたく、終にいさむるにかたかりき。表には父をいたはると見えて、心には死をよろこぶ人達のいたしざまこを口をしけれ。
小林一茶『父の終焉日記』

「魔を入れん(邪魔をしよう)とおもふ人達」とは、継母や義弟である。なお一茶は父の死後、彼らとの遺産相続問題に生涯悩まされることとなる。また酒以外にも、この二人は医者から白湯のみと言われ禁じられていた冷たい水を父の欲するままに飲ませたり、父の容態を第一に考える一茶にとってみれば「父をいたはると見えて、心には死をよろこぶ人達」なのだ。しかし、現代的な感覚では、終末期医療で本人のQOL(クオリティー・オブ・ライフ)を尊重するためには継母や義弟たちのような患者の一時的な幸せを優先させる考えも一理ある。いずれにせよこの『父の終焉日記』は、「鯨の海を吸ふがごとく」などと病人を客観的に戯画化しつつ、介護や看取りにおける家族の普遍的な人間模様が活写される病床文学となっている。

その後一茶は、一八一八(文政元)年に生まれた長女さとを疱瘡(天然痘ウイルス)で亡くしている。江戸時代は乳幼児の死亡率が高かったが、その大きな原因の一つが、疱瘡であった。『おらが春』でその臨終の場面を次のように記している。

(略)痘はかせぐちにて、雪解の峡土のほろ〳〵落るやうに、瘡蓋といふもの取れば、祝ひはやして、さん俵法師といふを作りて、笹湯浴せる真似かたして、神は送り出したれど、益々よわりて、きのふよりけふは頼みすくなく、終に六月廿一日の蕣の花と共に、此世をしぼみぬ。母は死顔にすがりて、よゝ〳〵と泣もむべなるかな。この期に及んでは、行水のふたゝび帰らず、散花の梢にもどらぬくいごとなどゝあきらめ顔しても思い切がたきは、恩愛のきづな也けり。
 露の世は露の世ながらさりながら  一茶
小林一茶『おらが春』

疱瘡は水ぶくれの中に膿がたまるが、その水ぶくれが乾いてかさぶたができると快方に向かっていると喜んだり、疫病退散の神頼みなどをしたり、子の命を案じて看病に励んだ親心が切実である。

引用部最後の句の「さりながら」には「あきらめ顔しても思い切がたき」思いが溢れている。掲句の一つ目の「露の世」は、彼の世(死後の世界)に対する此の世(人間の現実世界)であろう。二つ目の「露の世」は、娘の死を無常の一つとして受け入れる悟りの世界であろう。

芭蕉句に際して論じた二つの次元の乖離がここでも形を変えて起こっているようである。娘の命をあきらめるのは理想だが、「さりながら」あきらめきれない。その思いが、看取りの場面にとって普遍的な感情であろう。そしてそれを俳句に結晶させることが「再生」への祈りでもあるのだ。亡き人と簡単には切れないことは、死者を心の支えとしながら前を向いて生きていくことにも繋がる。

正岡子規(一八六七~一九〇二年)

鶏頭の十四五本もありぬべし  子規

一九〇〇(明治三十三)年、子規が亡くなる二年前、東京根岸の子規庵での病床の句である。「ありぬべし」は、推量の「あるだろう」の解釈が一般的。高浜虚子など弟子たちが編纂した子規句集には除外された一方、子規門の歌人・長塚節は「この句がわかる俳人は今はいまい」などと斎藤茂吉に語ったといい、初めてこの句の価値を見出したとされる。とにかく議論になることの多い句である。

山口誓子は「鶏頭の句で、子規の現実凝視は現実の彼方に無限を見た形而上の世界に入った」(山口誓子「子規と現代俳句」)と高く評価している。山本健吉は、「これは即興感偶の句なのである。病床六尺、晩秋の小庭の雑然と生えた鶏頭の群落を眼前に見て、子供のように喜んでゐるにすぎぬ。その歓喜が率直に「ありぬべし」という調子に現れている。……それが子規の句の無邪気さであり、健康さであり、たくましさなのだ。誤解を怖れないで言ってみれば、子規の身体の状態は、この句になんらの決定的な影響を及ぼしてはいないのである」(山本健吉「現代俳句」)

健吉のこの句への解釈は、ある意味で、病人を弱者や不幸者の立場から解放している。病人を外側から眺めているだけでは、慰めの対象である。しかし、本人からすれば、無邪気で健康でたくましい精神を持つことも時にはあるだろう。そのことは確かな一つの真理であろう。

その一方で、「なんら決定的な影響を及ぼしてはいない」は言い過ぎである。病臥の態勢になく自由に庭を歩き回れる健康を子規が持っていたならば、鶏頭の数を数えて把握することは容易い。それができないからこそ、子規の健康な精神と、それに反する病の肉体との乖離によってこの句が生まれたのだ。
いずれにせよ、子規の生涯とも深く関わりながら、病人の様々な精神状態について思いを馳せさせてくれる名句である。

病中雪
 いくたびも雪の深さを尋ねけり  子規

鶏頭の句から四年遡って、一八九六(明治二十九)年の作。子規庵で看病にあたる母や妹と子規とのやりとりが目に浮かぶ。山本健吉は「子規と家族たちとのユーモラスな情景も浮かんでくる。だが、子規の気持ちはユーモラスどころではない。このような一見無意味なことに執着せざるをえないところの充たされない心の翳が、ちらとこの句には顔を出しているのである」(前同)と述べている。

掲句は病床の自分自身と看護人の母・妹たちから、引いた目線で客観視されている。そのおかげで、尋ねる側と、尋ねられる側、二者の心理に想いを馳せることができる。子規は俳句を詠んでいるそのひと時だけでも、自らの病の体を引き受ける苦痛から解放されていたかもしれない。退屈で苦しい病床にいて、雪の深さを知ることは心の癒しにもなるだろう。健吉のいう「心の翳」は、確かにあるが、それにもまして、患者と介護者の心の交流の風景が慈しんで詠われているように思われる。

病は、もちろん身体的なものに限らず、目に見えにくい精神的なものも含む。多種多様で一概に言うことは出来ない。同時に誰の身にも起こりうる。幾つかの名句でその系譜を辿って来た。現代的感覚を発揮して、これらに連なる普遍的な名句が生まれることを願っている。『闘病・介護・看取り・再生詩歌集』へのご寄稿をお待ちしております。

『闘病・介護・看取り・再生詩歌集』公募趣意書はこちらから。

コールサック110号より転載

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