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ありがとうと言える人になる

先日、市役所で働いている友達と食事をしていた。
そこで、友達の言葉にものすごく違和感を感じた。

それは、店員さんがご飯を持ってきてくれたとき。
私は「ありがとうございます」と言った。だが、友達は「あーすいません」と言ったのだ。

たしかに「すいません(すみません)」は便利な言葉だ。
例えば、満員電車から降りようとするときに、すみませんと言って人混みを掻き分けるシーンは容易に思い描ける。
このように「すみません」と言っておけば何とかなる感は確かにあると思う。

だが、今回は店員さんがご飯を持ってきてくれたのだ。この事象に対して、すみませんの要素は全く無いだろと思ったので、もしかして友達は「すみません」が口癖になっているのではないかと思った。

そこで、仕事の話を聞いてみた。どうやら今年の4月から福祉課に異動になったらしい。業務内容を聞いてみると、手続き関係の事務作業とご老人のクレーム対応が大半で、仕事が全く楽しくないと。

納得した。法律上どうしようもできないことにクレームをつけられるものだからどうすることもできないし、ただ謝るしかないらしい。そりゃ謝り慣れるわなと。

ただ、ここで友達が最もキツいだろうなと思ったことは、誰も友達の仕事に対して「ありがとう」と声をかけなかったことではないかと思った。

他者に何かしてもらったから他者にも何か貢献できる。何もしてきてもらってきていない人が他者に何かできるのかと言えば、私はそうは思えない。人間そこまでできていないと思う。

今回で言えば、ありがとうと言われてきていない人は周りにありがとうと言えない。友達は無意識に「すいません」と言ったのだろうが、だからこそ言葉は大切だ。ここまで考えてしまう人がいるのだから。笑

よく考えたら、「ありがとう」と言える人ってそんなに多くないのではないかと思う。マクドナルドでバイトしていたときも、商品をお渡しするときに「ありがとう」と言ってくれる人は多くても1割いたら良いという感覚だったし、飲食店でもお店を出るときに「ごちそうさま」と言っている人がどれくらいいるだろうか。

藤野英人さんの書籍、『投資家が「お金」よりも大切にしていること 』(星海社新書) ではタクシーの話があるが、降車時にお礼を言う人は運転手さんの感覚では2,30人に1人だそう。

統計をとっているわけではないので、詳しいことは分からないが、これが現実なのだろう。私は、客単価が低いお店やサービスを使ったときに人の本性は出やすいと思っている。

だからこそ、「ありがとう」を言えることってものすごく価値があるのだと思う。

また藤野さんの言葉を引用すると、
『自分たちの社会を幸せにするのかどうかは、大部分は私たちの行動によるのです。「ありがとう」と言えば「ありがとう」で返ってくるし、怒りは怒りで返ってきます。それを止めるのも広めるのも私たち次第なんですね。』

「ありがとう」は循環する。

思い返すと、一例ではあるが私も香川県に住んでいたとき、毎日のように行く食堂で食器を返すときに必ず「ごちそうさま」と言っていたらお店のおばちゃんに覚えてもらってよくサービスしてもらっていた。最後の方は出来たてのお弁当を貰ったりもした。笑

私が若いというのも気に入られる一因だったかもしれないが、毎日「ごちそうさま」と言っていなかったからこんなことは起きなかっただろう。
私は料理が全くできないから、毎日バランスの良い食事を安価で食べられることに本当に感謝していた。
だから、その気持ちが伝わっていると分かったときはとても嬉しかったことを覚えている。

そして、私が「ありがとう」や「ごちそうさま」と自然に言えるのは、きっと私が小さいころからどんなに小さなことでも家族が「ありがとう」と言ってくれたからなのだろう。

こんなにも愛情深くて優しい人たちに囲まれて育ててもらったことが私の誇りだ。

だいぶ話が逸れてしまったが、では私がその友達にできることって「ありがとう」を伝える以外ないよなと思う。もちろん何もなしに言うわけではない。
「注文してくれてありがとう」「お店を探してくれてありがとう」
探せば友達がしてくれたことはたくさんある。

noteってこんな長文書く媒体やっけ?と思いながら、こうやって社会が、少なくとも自分の周りは「ありがとう」が習慣になる環境を作りたいと思った1日でした。

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