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内科医が落合陽一を擁護しつつ批判し言いたいことを言う(文學界対談について)

文學界に掲載された落合陽一・古市憲寿対談が、朝日新聞に掲載された磯崎憲一郎の書評を契機にtwitter上で大炎上した。問題視されたのは、「お金がないから社会保障費を削る」という話題。

既に喧々諤々議論されている通り、このやりとりはいくつかの点でナンセンスなのだが、それを「想像力の欠如」「身体性の欠如」と切って捨てる磯崎の批判もややズレている感がある。とはいえ、twitter上にあふれかえった批判もひとつにはこのタイプだった。

ぼく自身のツイートはそういうつもりではなかったのだが、上のような文脈でリツイートされることも少なからずあって、あ、これは、きちんと補足しないといけない…と思った。

「想像力」の殴り合いは地獄絵図

大前提として、磯崎の立場は小説家である。実体験を積み上げてもたどり着けないところに行くために、人は小説を書き、フィクションを描く。フィクションはこれから訪れるかもしれない体験への備えとなり、未来永劫体験することのない事柄を疑似的に体験するための装置となる。これが、「想像力」の回路である。

しかし当然のことながら、この想像力という回路には限界がある。

というか、とても当たり前のことだが、想像力が有効に機能する領域と、そうでない領域がある。実体験を積み上げれば手が届く領域においては、そうしたほうが早くて正確だからだ。

個人の想像力よりもはるか遠くまで、より正確に見渡すために、たとえば我々はデータを蓄積し、統計学を使い、創出されたエビデンスを足掛かりにする。一方で、こうしたマクロ的な回路においては洗い落とされてしまう、ごくミクロ的な、実体験のディティールというのがある。こういう部分については、そのナラティブをそのまま語ってみせるしかない——ただし、それが十分に一般性を持ちうるくらいの高解像度において、である。

だから、想像力を欠いているかのように見える議論を見かけたとしても、その「想像力の欠如」に怒ってはいけない。そうした議論に対してぶつけられるべき反論は、より優れた想像力ではない。欠けているものの本質は、信頼に足るエビデンスか、高解像度のナラティブか、その両方なのである。

さて、コスト面に関するエビデンスについては、津川友介含め識者から十分な反論がなされていて、落合もこれに対して「感謝」という表現で応えている。ぼくごときが述べるようなことはもう何もない。

では、現場のナラティブについては? これは、まだかもしれない。
このあたりの、要は「実際のところどうなのよ」という話を、きちんと公に言語化しておきたい。

「最後」は誰が決めるのか

「最後の一カ月」がいつなのかを生前に予測することはとても難しい。それが「最後の一カ月」になるかどうかは、実際に亡くなるまでわからない、つまりは結果論である。そんなことを予め決めてしまって、治療を差し控えるなど言語同断…というのが今回湧きあがった怒りの一つのパターンだった。

まあそうなのだが、それ以上に強調しなければならないのは、実際のところ我々は患者さんの「最後の一カ月」を予め決めるような局面によく遭遇するということで、この際「最後」という判断を下しているのは統計学でもAIでもなく、今のところ生身の人間である。

それはどこかで誰かが下さなければならない判断だ。しかしながら、生身の人間は判断を誤ることがある。

先日、救急センターで働いている友人に興味深い話を聞いた。
患者さんはやはり超高齢の男性。肺炎による呼吸不全をきたしていて、経験的には気管挿管しても回復の見込みはないように思われた。もはや救命措置の対象にはならないケースだと思われたが、ご家族と予めその話をしていなかった。慌ててご家族に電話をかけたが、夜中だったこともありつながらない。やむなく人工呼吸器を用いた型通りの救命措置を行ったところ、予想に反してみるみるうちに回復し、結局自分の足で歩いて帰っていったという。

「もしあの時、家族に電話が繋がってたら、その人死んでたんだよね」

友人はそう言っていた。思わず、自分が決めてきた「最後」が本当に正しかったのか、振り返らずにはいられなかった。

判断の責任は当事者に宿る

救命救急センターにはよく、肺炎で呼吸もままならない超高齢の患者さんが運ばれてくる。救命するには抗生剤を投与するだけではだめで、気管挿管して人工呼吸器につながないといけない、という局面がある。さて、この人工呼吸器、患者さんが回復した暁には外すことができるが、回復しなかった時にはつなぎっぱなしになってしまう。これを無理に外すことは積極的な安楽死に該当するため、一度つないだがために外せない、という状態に陥ることがある。

これは本人にとっても遺族にとっても幸せなことではないだろう、という観点から、昨今では回復の見込みがない呼吸不全の患者さんに対して、気管挿管のような措置をお勧めしないことが多い。心停止時の心臓マッサージも同様で、こうした救命措置を差し控える方針のことをDNAR(Do Not Attempt Resuscitationの略、こちらの記事に詳しい)と呼ぶ。

急に状態が悪くなった重症の患者さんが運ばれてきたとき、あ、これは厳しい可能性があるなと思ったら、家族と話し合ってDNARのコンセンサスをとる。昨今は高齢患者さんの入院時に、ご本人やご家族と医療者との間で、予めこのDNARのコンセンサスを形成しておくことも多い。

さて、「コンセンサス」などと書いたが、正確にはこれは「判断」である。

先の言い方で言えば、急変すればそれが彼・彼女の「最後」になるのではないか、という医療の側の判断である。そしてその判断の責任を、基本的には医療の側で負いつつも、ご家族とも分かち合うための儀式として「話し合い」の場を用意する。そういう風に責任を偏在させていくことでしか、足元の不確かな判断を下すことはできない。いつもそんな風に感じる。

鳥の目は最適化の夢を見る

古市憲寿の発言は追っていないのでわからないが、落合陽一の基本的な思想は「節約」「削減」というよりも「最適化」である。彼が今回の対談で言わんとしたこと自体は、実は痛いほどよくわかる。

たとえば終末期患者さんの死期をある程度の精度で予測し、治療介入の程度を最適化できるようなアルゴリズムがあれば(それがブラックボックス的であっても)、あまり価値のない治療介入の過剰を避けることができるのではないか。そのうえで、もしも不必要・不適切な過剰介入を敢えて行うのであれば、そのためのコストは、私的なリソースから捻出されるべきではないか。個人的にはそういう風に文脈を補いながら読んだ。

うまく伝わるかどうかわからないが、これは「命に値段をつける」という非人道的な発想とは少し違う。「死期が迫った患者さんに使うお金なんてもったいない!」という話ではたぶんなくて、これ以上行っても「意味のない」治療にコストを突っ込み続けることを避けられないのか、という話である。

実は、終末期から離れて医療全体を俯瞰してみれば、「意味のない」検査や治療をやめよう、という動きは普通にある。

たとえば、先発薬品と効果に差がないとされるジェネリック医薬品への移行は、わが国でも行政主導で行われている。あるいは、2012年に米国内科専門医機構が発足した「Choosing Wisely」キャンペーンは、エビデンスが乏しいにも関わらず行われている過剰な医療を減らすためのプロジェクトで、これを通じて実際に不要な投薬が減ったという報告もすでにある(こちらの記事に詳しい)。

ただ、終末期に関しては難しい。今のところ、先述のような魔法のブラックボックスは存在しないからである。これが「意味のある」治療なのか、という悩みはむしろ現場の人間にとってこそ切実なものだが、やってみないとわからない。いや、やってみたうえでどちらに転ぼうとも、その介入に意味があったのかどうかは結局よくわからないということもある。結果としてある程度の過剰が生じても仕方ない、と考えるべき領域だろう。

政府は個別の責任を負わない

しかし、それ以上にこの問題をデリケートなものにしているのは、責任の問題であるような気がする。

喫緊の生命の危機に関する意思決定の責任を背負うのは、ブラックボックスでも、政府でも、学会でもない。医療者と、場合によっては患者とその家族が、自ら背負うしかない。あっているかどうかわからない、足元の不確かな判断を、それでも下さなければならない、その当事者が背負う責任。その重み。

あまり言及されていないが、もし今回の対談について医師の立場から「想像力の欠如」を批判するとしたら、「国がそう決めてしまえば実現できそう」という感覚のほうであろう。現場で個別的に下しているギリギリの判断を、「今の政権」ならトップダウン的に「決めてしまう」ことができそうという感覚は非常に危うい(奇しくも「今の政権」は、そういうタイプの政権でもあるが)。

自分が件の対談に医師として感じた拒否感は、煮詰めて言語化するとこういうことになる。

さて、この「責任」の所在という問題は、たとえば落合の自走式車椅子プロジェクト "Telewheelchair" のようなところでもたぶん論点になってくる…のだが、続きは気が向いたら書く。

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