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25歳になったので人生振り返ろう〜宗教編〜

昨日13日、人知れず年を重ね20代の折り返し、25歳になりました。

四半世紀を生きてきたと考えると壮大ですが、地球の歴史に比べてしまえば大したことではありませんね。

さて、年々感慨深さも無くなってしまっている誕生日ですが、節目といえば節目なので少し自分語りを残しておきます。

タイトルの〜宗教編〜ですが、なにも宗教がなければ生きてこれなかったとかそういう話ではありません。ですが、良くも悪くも、私の人生において"宗教"とは、切っても切り離せないものなのです。

実は宗教二世でした。


最近世間を騒がせている統一教会、安倍前首相の射殺事件以降明るみになった様々な問題。二世の方が力強い眼差しで解散を訴える会見もありました。私はこれらをニュースで見るたび、とても他人事とは思えませんでした。

私は統一教会の二世ではないですが、物心つく前から両親は宗教団体に所属しており、今現在私も籍をおいている状態です。

統一教会と比べてしまえば、ですが、活動自体はクリーンなほうだったのではないかと思います。(この団体に対して恨みや悪意を持ってこの文章を書いているわけではないので、団体名に関しては伏せておきます。)

朝夕、30分程度の勤行をするだけ。(勤行というのは、お経が書かれた本を仏壇に向かって音読する行為です)
これを誠心誠意、信じて唱えることで、功徳を積ませていただける。功徳を積むことで、現世、来世の幸せが約束される。
なんともお手軽でいいのですが、"信じて唱える"、これだけが私にはどうしてもできませんでした。

ですが、母親のお腹の中にいる時から、生まれ出てから、物心ついてから、成長期を迎える時、毎日ついて回ってきた行いです。また、家族には"信じて唱えている"ものしかいません。母親も父親も祖母も叔母も信仰しています。
だから同じように、"信じず唱えない"ということも、私にはできなかったのです。

世間と家庭のギャップ


もうすぐクリスマスがやってきますね。みなさんのご家庭ではどう過ごされるのでしょうか。プレゼントをもらったり、ケーキを食べたり、パーティを開いたり、年に一度の楽しい楽しい国民的イベントです。
こと私の家庭においては、家族でクリスマスを祝うことは、キリスト教を崇めることであり、悪とされるためケーキはもちろん、プレゼントをもらうこともありませんでした。(誕生日が11月なのが幸いです)

クリスマスプレゼント何もらった?というクラスメイトの質問に対して、もらってない、と答え、なんで?と聞かれれば、"まだ"を付け加えてごまかす。
都合の悪いことからの逃げ方は、思えばここから学んだのではないでしょうか。

一度、どうしてもクリスマスパーティというものに参加したくて、学童のクリスマスパーティに親に無断で参加しました。
どうしても後ろめたい気持ちになってしまい、心から楽しむことはできませんでした。クリスマスパーティに参加したことで、バチが当たるのではないか、終わったあとも落ち着かない気持ちでした。

高校を卒業してから、上京して親元を離れるまで、私はいくつもの気持ちに常に縛られていたのです。

世間と家庭と自分のギャップ


思春期の世間といえば、学校です。ここでは宗教のしの字も知らない人たちばかり。さらに田舎の学校でしたので、絶対に家で宗教をやっているなど、バレたら終わりだと思っていました。ありとあらゆる嘘を塗り固め、私も普通の家庭の人になりきった生活をしていました。高校にもなればクリスマスパーティなども後ろめたさは薄れ、親にバレなければいいとさえ思えていたので、うまいこと擬態できていたのではないでしょうか。

家に帰れば普通の人の仮面は捨てて、なるべく信心があるように振る舞います。といってもかなりボロが出ていたほうでありますが、なるべく勤行をかかさず、ビデオ放映という、全国の信者の勤行による成功体験、病気が治った、悪相だったが勤行を聞かせてあげると幸せそうに逝去した、など、1〜2時間ほどのさまざまなエピソードトークを視聴する催しが、各月行われるため、それらにもなるべく参加しました。(が、知らない人の話を黙って聞ける方ではないので、ほとんどは睡眠時間にあてられることとなりました。)

毎日のように母親に今日の勤行は済ませたのかと確認されるので、すごく面倒な時は、していないのにしたと言うこともありました。毎日それでいいじゃないかと思うかもしれませんが、親に嘘をつくこと自体私にとってはストレスであり、親のように熱心に宗教を信じられない自分がおかしいのだと思っている時期もありました。
(誤解があるかもしれませんが、両親からの愛情は、どちらかと言うと感じていたほうです。ただ、全てが宗教を通じてになってしまうため、愛情表現の仕方が誤っているだけと言っておきます。特殊な教育なども特にはされていないとおもうので、親に嘘をつく行為に良心を痛めるくらいの普通の道徳は持っています。)

私が信じることができれば解決することなのに、どうしてこんなにも信じられないのか、他の二世の子はどうやら熱心に布教活動もしているらしい、従兄弟も毎日勤行を唱えているらしい、どうして私は、

外にいても本当の自分を理解してくれる人はいないと疎外感を感じ、家にいても自分を取り繕わなくてはいけないことで罪悪感を感じ、精神を病まなかったしグレることもなかったのは幸いですが、とにかく早く家を出たいと思うようになりました。


(意外と長いですね、続きます)

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