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流行操舵

 世界と言う大海原は、いつも何かに向かって進路を調整しながら、時代の流れと言う、わずかな軌跡を残し、前も見えず、闇雲の中、疾走し続けているのだと思う。誰も先を見てはいないし見る事も出来ていない。

 無限の可能性は、人の食指をことごとく刺激し、これは良い、と思える容器に向かい、その時にそれを取り入れる事を切望し続け、方向を、更に確かなものとして自分達の進路を押し進めている。

 やがてその容器は満たされ、それ以上の許容が許されず飽和になると、世界はまた別の容器を模索し舳先を進める。大きな容器はより長く人の関心を寄せる事が出来るが、小さな容器は、それなりの期間にしか注目を集める事が出来ず短命に終わる。所謂一発屋。

 人と、世界は、進みゆく湖畔水上の道を探し追い求め、時には嵐に翻弄されながら、どこかで何かを満たそうと連続し、うねる。時代はその様にして人々の欲求を満たす為だけに無限に流れ、移動し続ける。

 では、その流れは一体何が造り出しているのか。誰もその問に答える事は出来ない。
 事実、目の前で起こっている出来事の説明を、正確に行える賢明な力を、人は持ってはいない。ボートの漕ぎ手は進み行く舳先への視界を持てない。自分達が何処へ向かっているのかの確認をする事が出来ていない。背中では進み行く方向を見定められない。見えていない方角へ向かって人は力を加える。
 しかし、時代は確かに流れ、ボートは進み、何かに向かって世界は進められている。

 多くの場合、人の思惑は、個人の繁栄であろう。個人と、その子孫が繁栄すると、個人が死を経験した場合でも、子孫の中に自分が残る可能性がある。この世界に歴史として名を残す事が出来れば、それはその人の富と栄誉となる場合が多い。しかも、その子孫が可能な限り長く繁栄を続けられる事でもあれば、あたかも永遠を感じるように、人は自分の名前に尊敬を称える事が出来、自尊心は高まる。人の望みはそこにあるのかも知れない。
世に自分の軌跡を残す事。それが良くも悪くも、どんな方法であったとしても、人が満足と快感を得られる手法である事は間違い無い。そしてそれが、その時には称えられた評価だとしても、時代の流れは、ある時、その事実を真逆の方向へと叩きのめす。逆に一時の酷評が後に好評を得る場合もある。
 
 正に、人は、目の前の事実を、その時、本当に正しく理解、評価しているのか疑わしい。ボートの進んでいる方向、ボートが到達した地点、結局は誰にも、何も見えてはいないのだ。人への評価は、大海原である時代が勝手に下す。
 
 では、人は何に向かって力を注いでいるのであろうか。いや、実は、人が自ら進んでいるわけではなくて、歴史が人を用いているだけなのかも知れない。人は自分の判断で活動し、自らの方向を決めているかの様に振舞う事が出来るのだが、どんな偉業を成し遂げた人であったとしても、背中では進み行く世界を見る事は出来ない。だから、実は、オールの力加減は既に決められていて、人がオールに漕がされていると言う想定は考えられないだろうか。

 無論、オールは物質であって、それに感情や力量があるわけではない。右オールが、ボートを右寄りに動かすべく、人の意思を調整し力を加減するわけではない。どれくらい力加減をすれば、どこへ向かえるのかを判断しているのは、飽くまで、そのオールを握り、力を加えている人そのものなのだ。

 人は進むべき道について、それをはっきりと認識しているわけではない。進むべき無限にある湖中の道を正確に知っているのはボートの舳先と、進む力を加えているオールだけ。不思議な現象だが、それは間違いない。漕いでいる当人は、未来と、造られるべき歴史を何も知らずに漕ぎ続けている事になる。
 
 流行は、誰が何の為に造るのだろうか。世の歴史は誰が何の為に進めているのだろうか。
 
 漕いでいる私達が、もし、ボートの外から自分自身を見る事が出来たならば、向かうべき舳先を悟る事が可能だろう。私達がもし、この世界の外から世界を観察する事が出来れば、何が流行して、何が衰退して、世界がどの方向へ動いているかを知る事が出来るかも知れない。そして流行を操舵している存在が「何か」について知る事が出来るだろう。もしかしたら「人にとって、知る事の不可能な歴史的事実を人が探りたいと考える事実」によって、その存在は、自己の存在を現わしているのかも知れない。つまり、私達を凌駕する存在が、すでに私達の考えによって示唆されていると言う事ではなかろうか。

 「歴史」は、英語では、綴りは異なってはいるがヒストリー、つまり「彼の物語」とも言うらしい。人物の彼ではない。人が人であるならば、前記の通り、人は背中では自分の進むべき道を計り知る事が出来ない。しかし、人を外から確認する事の可能な存在があるとすれば、その存在が、人類に最終的結論をもたらす為、流行や思想や歴史を生み出し、衰退させ、世をコントロールしているのだと思う。正に、私達「人」ではない「彼」である誰かが、世の流れにブームを巻き起こし、歴史を外側から動かし、人を人の最終結論へと向かわせているに違いない。
 
 そして「ボートを後ろ向きに漕がされているだけの人は」それにあらがう術を持てない。私達にはそんな力は持たされてはいない。私達はただオールに手を添え、自分達の人生を送っているかのように操舵されているだけ。

 そして、私達には、自分で自分の結末が知らされない様に、未来は隠されているが、進み行くボートのオールから手を放す事は許されない。手を離せば、私達のボートは推力を失う。途切れた、推力を持たないボートに存在意義を持たされる事はなく、たちまち湖底へと沈下させる意思によって、存在が破棄されてしまうだろう。

 だから私達は、たとえ自分達の行く先が不明であったとしても、自分のオールをしっかりと握りしめ、流行を操舵している何かによって何処かに向かい、自分の人生をおし進めなければならない。私達は自分の人生や、今の歴史から手を引く事が許されてはいない。
 流行を操舵している存在は、私達を一体何へ、何処へ向かわせているのだろうか。

 大きな意味で人の歴史を考えると、私達の行き着く所が何処なのか、流行を操舵している何かの力によって、人の最終結末はもうすでに決められているに違いない。私達はその過程でほんの一瞬でしかない人生を経験させられているだけの存在だと思う。

 今、この時代、世界は、大きくマクロ的、歴史的に見れば「人の存在」が「流行」なのだろう。この世界では主人公の様に振舞っているのは確かに人間なのだが、結局、人には、世界を操舵する力を持たせられず、何かのグランド・スケジュールに従い、ボートから振り落とされないよう、必死になってオールを握りしめているだけなのだ。未来は私達に託されてはいない。私達は操舵されたボートの上で、あらかじめ予期されている流れに従い、あらかじめ用意されている目的地までの航路を旅しているだけの存在。だから私達には未来を知る事が出来ない。流行を操舵している何かによって、すでに行先が決められていて、それが何か、も知らされないまま、「彼」である何かの存在によって確実な結末に向かわせられているだけ。

 そして、海辺の砂の様に多いあらゆる航路から、一か所に集められた到達点である「終劇」後、それぞれ「無数の人類、すべての固有名詞が記録されたエンド・ロールが終わりなく無限に流れ続け」ると言う、最後の「流行」に、個々の人々は自らの結末を永遠に映し出している事になるのだろう。

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