映画『コミック雑誌なんかいらない』は、俳優内田裕也の最高傑作

内田裕也が亡くなった。彼のことを「樹木希林の夫」や、「都知事選挙での政見放送でロックを歌った人」下手をすると「少し危ないロック界の老人」としか思っていない人々に、ぜひ見てほしい映画がある・1986年に公開された『コミック雑誌なんかいらない』である。監督・滝田洋二郎。それまではピンク映画の監督をしてきた彼の初めての一般映画作品であり、後に『おくりびと』で花開く才能のはじまりでもある。

内田裕也が演じるのはテレビの芸能レポーター「キナメリ」。彼のマンションには同時に全曲を見るために何台ものテレビが置かれ、機械的にそれを見ながら、ビタミン剤をパンにはさんで朝食としている寒々としたシーンが、彼の周囲の空虚さを見事に表現しており、黒澤明の『生きる』における役所の風景すら思い起こさせる。
キナメリは恋愛をうわさされる女優を追いかけ、時には運送のトラックにすら隠れて芸能人のスキャンダルを探ろうとする。殺害された若い女性の葬儀に押しかけ、実は彼女があちこちで噂されるほどの遊び人だったことを両親にインタビューし周囲から叩き出される。そして、当時話題だった松田聖子と神田正輝の結婚に密着取材しようとし、電柱に上って隠し撮りを試み、警察に通報され、最後には石原プロのガードマンから結婚式場への立ち入りを暴力で妨害される。まさに、芸能レポーターの「突撃取材」を、ここまでリアルに描いた作品はあるまい。そして、多くの日本国民が、このようなレポーターに顔をしかめつつも、実は喜んでその番組を楽しんでいることも、またテレビのプロデユーサー(原田芳雄が素晴らしい好演で演じている)が、「こういうのを大衆は喜ぶのさ」と言わんばかりの姿勢でレポーターにさらに過激な取材をさせていく姿勢も、「ニュース番組」が「ワイドショー」に変貌しつつあった80年代の社会を見事に切り取っている。
そして、映画には当時「ロス疑惑」で著名だった三浦和義も本人自身が登場。もちろん内田裕也の脚本がベースにあるのだが、ここでの三浦和義の「演技」は真に迫っている。彼はレポーターの「キナメリ」に対し、ここは自分の店であり貴方のやっていることは不法侵入だ、貴方たちは裁判官でも警察でもないのに、なぜ人を裁く権利があり、自分があなたの質問に応えなけりゃいけないんだ、と語気鋭く反論して彼を店から追い出す。
そして、この映画のもう一つのクライマックスは豊田商事事件だ。キナメリは、同じマンションの住む孤独な老人が、豊田商事のセールスウーマンに騙されて、なけなしの貯金を金の先物取引につぎ込んでしまったことを知る。そして、ホストクラブへの潜入取材で出会った人妻が、夫に隠れてこの先物取引に手を出し、同じく財産を失って自殺してしまった事件を知って、この問題を追及しようと各地の被害者たちを取材するのだが、スキャンダルや、飛行機事故、また風俗ルポなどは喜んで放映するテレビ局も、このような地道な事件取材にはほとんど興味を示してくれない。「放っておくと大変なことになりそうな気がするんだ」というキナメリに対し、テレビ局の関係者は「だったら駅前でビラでもまけば?」と冷たくあしらうだけだった。
しかし、豊田商事の事件が大きくなると、今度は早速マスコミは永田社長の住むマンションにまでおしかける。だが、ビートたけし演ずるヤクザがそのマンションに押しかけ、窓をぶち破って侵入、永田を殺害してしまうときに、マスコミはただその窓からカメラのシャッターを切るだけで、誰一人止めようとも入ろうともしない。たえられなくなったキナメリはただ一人窓から飛び込んで止めようとし、逆にヤクザに傷を負わされる。このシーンは、全くの無音の中ストップモーションを多用した画面が見事に効果をあげているし、ビートたけしの狂気を思わせる演技は、後に彼が映画俳優としても大成することを預言していた。
この映画は、まだ「劇場型犯罪」という言葉もあまり一般化していなかった時代に、犯罪も、悲惨な事故も、そして芸能ネタもすべてが同じレベルで報じられるようになったテレビ界の有様を通じて、日本社会の「空虚な明るさ」と、その背後で進む闇を描いた作品である。そして、インタビューそれ自体を映画化する手法は、現在のマイケル・ムーアの作品にすら通じるものだ。内田裕也の最高傑作はこの映画作品だと私は断言する。そしてラストシーン、日本社会のすべての偽善にNOを突き付けるような表情とセリフは、この人が本質的にはどれほど純粋な人だったかを物語っている。

#追悼 #内田裕也 #滝田洋二郎

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