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京都あれこれ むっつめ

「突然ですけど応仁の乱はご存知ですかいな?」
「京都に住んでて応仁の乱知らん人なんかおりますのか?」
「そうどすなぁ。ほな誰と誰が戦うたのかはご存知ですかいな?」
「山名はんと細川はんでっしゃろ?」
「どっちが勝ったかはご存知ですかいな?」
「細川はんでっしゃろ」
「ほな・・・」
「何ですのん、応仁の乱のことばっかり。どうかしやはりましたんか?」
「この前、知人を案内して上御霊神社へ行きましたんや」
「ほんで?」
「あそこの境内に応仁の乱勃発地という碑がありましたんや」

上御霊神社にある応仁の乱勃発地の碑

「なんやそんなことですかいな」
「そやけどひと口に応仁の乱や言うても結構複雑な様相でしたで」
「調べはったんどすか?」
「結局よう分からんかったさかい先生に聞いてみよう思いましてな」
「それはよろしおすな。ええ暇つぶしになりますわ」
「それは先生に失礼でっしゃろ」
「ほんまやわ。今までも色々教えてもろてんのに。ほんで先生は?」
「こんな話ししてると現れてくれはるんどすけどなぁ」

「こんにちは、お二人御揃いでどうされました?」
「ほら出た」
「そんな幽霊やないんやから」
「先生、待ってましたんや」
「何かありましたか?」
「応仁の乱について話してたんどすけど、よう分かりまへんのや」
「そうそう、そやからいつも通り応仁の乱について教えてくれはりますか」
「応仁の乱ですか。私も今興味があって調べている最中です。途中までになるかもしれませんがそれでも良ければ」
「そんなん全然かましまへん」
「そや、暇つぶしやと思うて付き合うておくれやす」

「わかりました。では、そもそも【らん】と【へん】の違いはご存知ですか?」
「応仁の乱とか本能寺の変とかやなぁ」
「それは知りまへんなぁ。『応仁の乱』とか『本能寺の変』なんかは一つの単語みたいに覚えてますさかいなぁ」
「なるほど、でも一応の決まりがあるようですよ」
「まずはそこからいきまひょか」
「はい。日本の歴史上の【乱】と【変】は基本的に以下のように分類されています」

  ●【乱】・・・・・クーデターを起こしたが失敗した事象
  ●【変】・・・・・クーデターを起こして成功した事象

「なるほど、そんな分類がありますのやなぁ」
「でもこのままですと、あちこちで齟齬が生まれるんです。例えば壬申の乱」
「もっと古い話ですやん」
「飛鳥時代に起きたこの乱は天武天皇が政権に対してクーデターを起こし勝利した事象です。上の事例からすると壬申の変になるはずが【変】ではなく【乱】。なんか変ですよね」
「歴史なんてそんなもんやおまへんのか」
「その一面があるのも確かですが、新しい理論が出てきていることも事実です」
「それはどんな理論でっしゃろか」

  ●【乱】・・・・・成功したら体制がひっくりかえるかもしれない
  ●【変】・・・・・成功しても似たような体制が続く可能性がある

「これが新しい理論のようです」
「つまり?」
「つまりクーデターが成功したかどうかは関係がなく、クーデターの持つ意味合いの違いが呼び方の違いになっているということのようです」
「ほんで応仁の乱は【乱】でよろしいのやなぁ」

「それでは応仁の乱の話をしましょう。お二人は誰と誰の争いが原因かご存知ですか?」
「山名はんと細川はんでっしゃろ?」
「確かに山名陣営と細川陣営の戦いは有名ですからそう思われるのも無理のないことかもしれませんが、元々は室町幕府の跡目争いが発端なんです」
「室町幕府ということは足利はんどすかいな」
「だけではなく複数の糸が複雑に絡み合った結果、11年にも及ぶ争いになったわけですね」
「足利はんだけやおまへんのか?」
「詳しくご説明しましょうか?」
「へえよろしゅうお頼みします」

「まずは室町幕府の構造からお話ししましょうね」

室町幕府には三管領さんかんれい四職ししきという家柄があります。

斯波しば氏、畠山はたけやま氏、細川ほそかわ氏の三家が管領かんれいと呼ばれる家柄で将軍を補佐するのが仕事です。

その下に赤松あかまつ氏、一色いっしき氏、京極きょうごく氏、山名やまな氏の四家が四職ししきと呼ばれ侍所さむらいどころの長官になれる家柄です。

山名氏は四職ししきですから本来なら地位は下がるんですが、山名宗全やまなそうぜんが六代将軍・足利義教あしかがよしのりを暗殺した赤松満祐あかまつみつすけを討つと、その功績から管領かんれい細川勝元ほそかわかつもとに匹敵する力を持つようになります。

「ここまでは大丈夫ですか?」
「勿論です」
「問題ありまへんで」
「では次は足利氏の話をしましょうか」

室町幕府八代将軍・足利義政あしかがよしまさには後継あとつぎができなかったんです。
そのため出家していた腹違いの弟・義視よしみをわざわざ還俗げんぞくまでさせて後継ぎにしようとします。
ですが歴史とは不思議なもので、翌年に将軍の妻・日野富子ひのとみこ義尚よしひさを産みます。
そして当然のことながら跡目争いが起こります。

義尚よしひさを産んだ日野富子ひのとみこは我が子を将軍にするために山名氏に後ろ盾になってもらうように依頼します。

一方の腹違いの弟・義視よしみも兄に望まれ還俗までさせられたのですから当然将軍になれるものだと思っています。だから山名氏に対抗すべく細川氏に助力を願いました。

八代将軍は蚊帳の外に追われている感じですね。逆にそれが事態の拡大に拍車をかけることになるのですけれど。
これが複雑に絡み合った一つ目の糸ですね。


二つ目の糸もほとんど同じパターンですが、時を同じくして足利幕府の有力大名の一つであった畠山家に実の子と弟の後継あとつぎ争いが起こります。

当時の畠山家当主の持国もちくにには後継あとつぎができなかったために弟の持富もちとみを養子としますが、後になって当主の実子・義就よしひろが生まれます。
あとはご想像の通りです。


三つ目の糸はこちらも足利幕府の有力大名の一つである斯波しば家の家督争いです。

当主・義健よしたけが夭折してしまい、重臣たちに擁される形で義敏よしとしが家督を継ぐのですが、自分を擁してくれた重臣たちと対立することになり家督を取り上げられてしまうんです。

家督は義廉よしかどが継ぎますが、互いに納得できない状態なので当然の如くお家騒動に発展します。


四つ目の糸は義理の親子である山名宗全やまなそうぜん細川勝元ほそかわかつもとの対立です。

山名宗全やまなそうぜん細川勝元ほそかわかつもとしゅうと娘婿むすめむこの関係なのですが、すこぶる仲が悪かったんです。

山名宗全やまなそうぜん足利義尚あしかがよしひさ (実子) を、細川勝元ほそかわかつもと足利義視あしかがよしみ (養子) を将軍家の跡継ぎにしようと担ぎました。


 この四つが複雑に絡まり、将軍・足利義政あしかがよしまさの優柔不断も相まって対立は拡大の一途を辿ります。

 東軍・細川勝元ほそかわかつもと方 (畠山政長はたけやままさなが斯波義敏しばよしとし足利義視あしかがよしみ) と、西軍・山名宗全やまなそうぜん方 (畠山義就はたけやまよしひろ斯波義廉しばよしかど足利義尚あしかがよしひさ) に別れ、全国の大名が京都に集結し『応仁の乱』という11年にも及ぶ長い戦いの幕が開くのです。
 そして応仁の乱の後は都としての機能を失い崩壊寸前に追い込まれてしまうのです。


「ここまではよろしいですか?」
「先生は見てきたように話さはりますなぁ」
「ほんまに見てきゃはったんやおまへんやろなぁ」
「見れるものなら私も見てみたいですよ」
「ようやく応仁の乱が始まったんですよね」
「そうです。京都中が灰燼に帰すほどの戦いになるのですが、先を話しましょうか」
「そうどすな」


 文正2年正月17日の夜、山名宗全やまなそうぜんの進言により将軍・義政よしまさに出仕を禁じられた畠山政長はたけやままさながは自邸に火を放ち、上御霊神社かみごりょうじんじゃ附近に陣を張ったのが応仁の乱の発端です。

 洛中での大規模な戦闘が行われたのは、応仁元年の南禅寺なんぜんじ附近、東岩倉山ひがしいわくらやま相国寺そうこくじ船岡山ふなおかやまなどです。

相国寺内の蓮池です 乱ではこの蓮池が血に染まったといわれています
西軍の拠点のひとつですが戦闘の中心から少し離れているため余り活用されなかったようです


 その後洛外へと戦闘は移り一乗寺いちじょうじ木幡こはた嵯峨さが下桂しもかつら醍醐だいご鳥羽とば西岡にしのおか伏見稲荷ふしみいなり山科やましななどが戦禍に見舞われます。
 その間も洛中での戦闘はゲリラ化し足軽を中心に続きます。

 文明元年、両軍とも地方から大軍を率いて京都に押し寄せましたが合戦は膠着状態のまま文明5年、両軍のボス山名宗全やまなそうぜん細川勝元ほそかわかつもとが相次いで死亡します。

 その後も戦闘が続くのですが、4年後の文明9年、西軍・畠山義就はたけやまよしなりが河内に兵を引き、同じく西軍・大内政弘おおうちまさひろも周防に兵を引き、他の大名も領国に引き揚げたため乱が終結します。

 全国に広がったこの内乱で室町幕府は影響力を失い、各地で戦闘が繰り広げられる戦国時代を迎えることになります。


「私の記憶ではここまでですが、ご理解いただけましたか?」
「尻切れトンボみたいな結末どすなぁ」
「基本的には日野富子ひのとみこが夫の弟の義視よしみに和睦を呼び掛け、受け入れられたことで決着を見ずに終戦となったんです」
「痛み分けどすか」
「双方が実権を握るために争った挙句、人心も諸大名も離れて行ってしまったというのは皮肉ですね」

「京の町中は被害がヒドかったという話どすけど」
「公家や武家屋敷に限らず寺社もさらには民家も深刻な被害を受けました。Wikipediaで応仁の乱を調べると『主要な戦場となった京都全域は壊滅的な被害を受けて荒廃した。 (『』内Wikipediaより) 』とありますが、実際は上京が中心で、下京にはさほど影響はなかったようです」
「都中が焼け野原やって聞いてましたで」
「そやそや」
「もちろん下京がまったく無傷だったわけではありませんが、『応仁略記』という書物にも『二条より上、北山東西ことごとく焼け野原となりて、残るところは花の御所ばかりなり』とあります。被害が少なかったので戦後の復興に下京の商家がいち早く対応できたということですよ」
「なるほど、下京の商家が都の復興を支えたということどすか。同じ商家として誇りに感じますなぁ」
「室町期に始まったといわれる祇園祭も下京の町衆が担ってきた祭りですよね。この祭り始まった当初は神事の側面はあるもののディズニーのパレードのようだったという説もあります。鉾は動く能舞台のようなもので、すべてにお囃子はやしがあり見世物みせものの要素の強いお祭りだったそうです」
「ほんでカラクリがあったりしますのやなぁ」

「ほんなら今宵は壊滅的な打撃を蒙った上七軒にでも繰り出しまひょか」
「上七軒にも馴染みがおますのんか」
「だけやないで、五花街全部に馴染みがおるんがわてらの真骨頂でっしゃろ」
「わては女房だけでも手に余りますのに」
「まぁついてきよし、あんさんの好みは知ってますさかい、ええ紹介したげますがな」
「ほなお相伴に与りまひょか」
「先生もご一緒に。そやけど先生のお好みがイマイチ分かりまへんなぁ」
「ほんまやな、先生は女子おなごに興味ありまへんのか?」
「そんなことはないですよ。ただあのような場所に慣れていないので大人しくしているだけですよ」
「あんな場所やし弾けなつまらんでっしゃろ」
「そらそうや」

足利幕府花の御所跡の碑。今出川室町東北角にあります
法輪寺 十三詣りで有名です 乱で焼失した後、後陽成天皇が復興し智福山の号を賜ったそうです
芝薬師堂(大興寺) 乱で焼失後、潭月寂澄が中興し、天台から臨済に改宗しました
この石は、応仁の乱の戦場として名高い「百々橋」の疎石の一つです
山名宗全旧蹟 邸宅跡のあるこの辺りの地は山名町といいます
西陣は西陣織で有名な地ですが、そもそもは山名方の陣地 (西陣) があったからなんです
大報恩寺 (千本釈迦堂) 応仁の乱で本堂のみが奇跡的に残り、京都に残存する最古の仏堂で国宝です


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