手を伸ばせば星屑の泡

約2週間ほど鬱の波にさらわれて、今やっと浮上出来たところ。
沈みゆく中で伸ばした手を掠める、星屑のような吐き出す息。今も相変わらずなんとか波間の板にしがみついているようなものだけど、そんな中で思い出したのは卵焼きの味。

鬼籍に入っている祖父の作る卵焼きはすごくシンプルで、たまに醤油を入れすぎて少ししょっぱかった。でも、私が好きなのを知っていたから、祖父母の家に行くといつも作ってくれた。
祖父の夕飯は早くて、夕方頃から晩酌を始めていた。ついでに作ってくれた卵焼きは私のおやつ代わり。

あまり自分のことを話さない人だったけど、ある時どこかの資料館で満州の地図を見ながら、「ここを通って、ここで親戚の子供が亡くなって、この港で船に乗って日本に引き上げた」と、淡々と語っていた事を覚えている。
私はあとから知ったのだけれど、当時既に癌を患っていたらしく、苦しい記憶も私に残したかったのかもしれない。
強いひとだった。バスの乗降で足を踏み外して骨を折ってから、目に見えて弱っていった祖父。
私は今でも最後に握った手の冷たさを忘れない。葬式では祖母も母も泣いていて、なんとなく私は泣いてはだめだと思って、最後に顔を見た時も、込み上げる涙をこらえていた。

祖父は九州の人で、祖母がたまにこぼす昔話を総合すると、結構亭主関白な人だったようだ。
生地から仕立てたワンピースを着こなす、神戸の生粋のお嬢様だった祖母がそんな人と結婚したのは、多分色んな苦労があったと思う。
連絡もなしに同僚を連れ帰り、急なもてなしを要求するような人だったみたいだし、ちらと聞いた話だと、祖母が実家に帰った事もあったらしい。

それでも、母を大学院まで行かせて、私が子供の頃には自ら台所に立って、祖母に酌をさせるようなことは無かった。
きっと私の知らない長い年月で、二人で努力して「夫婦」の関係をつくりあげたのだと思う。
私はそんな祖父母を尊敬している。

生前最後に握った祖父の手の冷たさは、今でも生々しく思い出される。
癌を患い入院していて、それでもどこか私はまだまだ長生きしてくれると思っていたが、その冷たさを感じた時、「死」が現実的なものとなった。
それから暫くあと、真夏の早朝に「亡くなった」と連絡が入った。
葬式では泣かなかった。祖母と母が咽び泣く中で、なぜか私はしっかりしないとと思って。ただ心の中で「今まで本当にありがとう、おつかれさま」と思っていた。

祖母は89歳になる。
考えたくないけれど、いつか私よりは先に逝くのだろう。
嬉しいことにいまは健康でいてくれている。
願わくば最後まで、痛みも苦しみもなく生きて欲しい。

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