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オシムから学んだ、”頑張る”人の育て方

みなさんこんばんは。半人前コーチ@もうすぐ夜ご飯なのにあんまりお腹の減ってない38歳です。もうすぐ21時なので、さすがにそろそろ何か食べに行こうかなと思っているところです。

我がミニバスは、明日保護者説明を行いまして、来週から練習をやっていこうかという段階に来ております。またミニバスは過去とは異なり、どのチームに所属するかの選択は、選手(+保護者)側に権利がありますので、現在のチームの指導の方針についても今一度説明しようかなと思っております。

私が教え子たちに伝えたいと思うことは、小学生も高校生も大学生に対しても、ほぼ共通しています。大きくは2つのこと。
1.思考の開放 (≒自由に発想すること)
2.情熱の体現方法 (≒がんばり方)
この2点を伝えたいなと思っています。

私事で恐縮ですが、2000年の大学1年生からバスケットボールのコーチを始めて、今年で20年になります。最も思い悩んでいたのは2005年~7年くらいで、指導者として結果が出ないのはもちろんのこと、自分が何のために指導者になったかなどを模索していて、色んな方のお話を伺ったり、練習を見せていただいたりしておりました。

そして、指導に関する本も色々と読んだのもその時期でした。バスケットの指導の本からチームビルディングの本、プロスポーツチームの監督の本などを読んだりしていました。そんな中でも、「自分はチームとしての勝利ももちろんだが、夢や目標に向かって頑張る人に、その方法を教えたい」というの自分の方針が、おぼろげながら見えてくるようになりました。

そして、それが全て繋がった瞬間がありました。それは、元日本代表監督の「オシムの言葉」という本を読んだ時でした。(記事の題名、さもオシムさんから直接学んだみたいな書き方ですみません。本読んだだけです)

その本に書かれていたのは、私がそれまでに気づいたことの無い、選手(というより人)の評価として新しい視点でした。内容について、大変僭越ながら要約/抜粋させていただくと、

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ジェフ時代、優勝を争っている大事な試合(ジュビロ磐田戦)で、
日本代表にも抜擢された佐藤勇人選手について、こんなことを
言ったそうです。

試合終了間際に、ロスタイムから投入された山岸選手がサイドを突破!
勇人選手は1試合豊富な運動量で動き回っていたにも関わらず、
最後の力を振り絞って、ボランチの位置から全力疾走。前線へ
飛び込んだところに、山岸選手からの絶妙なパス!

(以下、本文中より抜粋)

来た!足元に山岸から絶妙なクロスが届けられた。

フリーだ。ただヒットすれば勝利が来る。
同時に優勝をほぼ手中に収めることができる。
足を振る。決まったと思った。
しかし。ボールには触りながらも、軌道は定まらなかった。
黄色い悲鳴と水色の安堵の叫び。勇人は責任の重さと悔しさに点を仰いだ。

-中略-

ミックスゾーンにいた勇人は、悔しくてたまらなかった。
そこに記者が話しかけた。

「監督に最後の佐藤のシュートが残念でしたね、と聞いたんだよ。
 そしたら、『シュートは外れるときもある。それよりもあの時間帯に、
 ボランチがあそこまで走ったことを、なぜ褒めてあげないのか』
 といわれたよ」

全身が痺れた。この人はどこまでも自分たちを見てくれている。

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その他にも、こんな記載もありました。
「あなたは、今までにミスをしたことはありませんか。人間は、誰でもミスはしますよ。選手もミスをします。私だってミスを犯します。特に若い選手は、繊細であり、容赦のない記事や発言により傷つき、選手として、力が発揮できなくなり、サッカー界から去った選手が多いことも知っている。だから私は選手を守るのです。」


ここから私は多くのことを学びました。例えば、シュートはバスケットでも失敗することはあるでしょう。決まるか決まらないかは結果論です。でもその手前でチャレンジをしたのか、その結果に至るまでにベストな準備や選択をしていたのか。もっと細かく言えば、速攻のシーンでシュートを打った選手だけではなく、他の選手はフォローしようとしていたのか、リバウンドの可能性を感じてダッシュをしていたのか。それをやっていたのであれば、そこを褒めてあげるべきではないかと。見るのは、シュートが決まったかどうかということではないのではないか、と思うようになりました。


もう少し抽象的な話でいうと、チャレンジをすることと、全力を出すこと。この2点は全て自らがコントロールできることです。自らがコントロールできることを自分の最大限まで行わないことには、私はかなり厳しく叱咤します。ただ、シュートが入ったか入らないかととか、審判がファールを吹いたかどうかは、自分でコントロールが出来ないことです。各種スポーツの指導でよく見られるのが、審判に対して不満をいう指導者や保護者の存在です。それって、誰のためになりますか?何のための批判なのでしょうか?自戒も含め、指導者の意識改革が必要だなと思っています。

私が選手や大学のゼミ生たちによく言っているのが、「全力でやった?」「やりきった?」という言葉です。それをやりきっているのであれば、極端な話、結果やクオリティはどうでもいいのです。むしろ、結果やクオリティは指導者が責を負うべきです。だとすると、選手たちに負ってほしい責務とは何か。それは、見つけたゴールに対して、全力でやりきったかどうかということだと思っています。これは、スポーツだろうが仕事だろうか同じことで、つまり生きていくために重要なことなのではないでしょうか?


前回の「私はミニバスで、なぜ絵を描くことを教えるのか」という記事では、わたしが伝えたいことの1つ目の”思考の開放”に近いことを書かせていただき、

今回は2つ目の”情熱の体現方法”について、なぜそのように考え始めたのか、を少しだけ書かせていただきました。1週間で2記事も上げたのは久しぶりですねー。今後もせめて2週に1回はアップするぞ!


「全力でやった?」    はっww!



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