神様は何も禁止なんかしてない

神様、とむかしはよく思っていた気がする。たのしいときにではなく、つらかったり恥ずかしかったりしたときに。わたしは過去の恥ずかしい記憶をとつぜん思い出してわああああーっと頭をかきむしりたくなることがよくあり、そういうとき、わたしはよくそれを口にした。神さん。もしくは、わたしには神さんがいるから大丈夫、と。大きな声で。羞恥の記憶に丁度よくかぶさるように。

わたしは特定の宗教をもたない。だからこの場合の神様(神さん)は、わたしのなかにいるごく個人的な何かだ。顔もないし、なんならかたちすらおぼろげである。いうなれば、想念の依り代。

わたしは中学生の頃にジョージ朝倉の『溺れるナイフ』に出会った。以降、リアルタイムで買い続け、彼らの苦しみとひりつきにそのつど胸を掻き乱されてきた。
何巻かすぐにでてこないのが歯がゆいが、コウちゃんが手を合わせながら言った、「祈願なんぞ自分にするんじゃ。神さんには見ててもらうんじゃあ」というせりふは、確実にわたしの神さんの核になっている。そもそも神様、ではなく、神さん、と呼ぶことも、コウちゃんの影響だ。

言葉は万能ではない。どんなに言葉を重ねても、感じたことをそのまま、一切の齟齬なく、伝えることは絶対に(と言っていいと思う)、できない。わたしの対人関係においての諦めの早さは、そういう認識に基づくものだ。完璧な理解などありえない。言葉というもの自体が、そもそも完璧からはほど遠い。こんなに不完全で片手落ちなものもない。だからこそ、何にも代え難く魅力的なのだけど。

しかし、苦しくなって誰かに助けてもらいたい、と思ったとき、わたしは言葉を使うより他ない。しかし言葉にすると、どんなに気心の知れたあいだがらでも、薄皮が一枚噛んだようなズレが必ず生じる。

つまり、言葉を介さず、救いを求められる「相手」のひとりが、わたしにとっては神さん、というわけだ。あとはわたしの脳内にいる、わたしに都合よく理想化された推したち。神さんと、理想化された推しは、役割的にかなり近い。でも実体がないぶん、神さんのほうがより助けを求めやすい。推しには現実のすがたがあるから。

現実! それに幻滅させられることに怯えながら、わたしは日夜、テレビや雑誌や動画を見、コンサートに赴く。推しのことは無条件に肯定しているが、肯定することと幻滅してしまうこととは必ずしも矛盾しない。幻滅しながらも、愛するのだ。まるごと。気に入らないことも諸共。

きっとこれは所有欲だな、と思った。人は人を所有できないが、もししようと思えば、気に入らないものごと所有するしかない。そのことを、わたしは江國香織さんの『がらくた』におそわった。

話が逸れてしまった。

ともかく、神さんにも理想化された推しにも、求めるものは同じだ。絶対的な安心感。けして裏切らないこと。うたがっているわけではないが、他者は(あくまで可能性として)、裏切る、かもしれない。どんなに仲が良くても、状況が変われば手の平を返すこともある、ということを、わたしはすでに知ってしまっている。

でも、神さんも理想化された推しも、けしてそういうことはしない。わたしの脳内にいるからだ。わたしはわたしを裏切らない。裏切れない、というべきかもしれない。だって、どうしたって無理だ。心が体を、あるいは体が心を裏切ることはあるかもしれないが、そうにしたって、わたしという人間は、ひとりだ。

けっきょくわたしは安心したいのだな、と思う。安心することが大事なのだ。ちっとも勇敢じゃない。そもそも、わたしはわたしを信じていないのだった。だからこそ自分を信じる装置として、神さんが必要なのかもしれない。

それにしてもつらいときにだけ縋って、嬉しい時に、神に感謝します、とは思わないのだから、つくづくご都合主義だ。ごめんね神さん。愛してるよ。軽薄に、つけくわえる。

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