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海で泳ぐタチウオは虹色で、初夏の光を受けた茶葉は青々と輝く(前編)

突然だが、1ヶ月の間に海釣りと茶摘みに行ったことがある人がいたらぜひコメントしてほしい。そんな稀有な人いるのだろうか。

・・・まさに私がそうなんだけれど。

4月は、たった数種類の食材とはいえ、私たちが食べて/飲んでいるものが、どこで生まれ、どのように暮らし、どうやって私たちのお口まで届くのかを知る希少な1ヶ月になった。

***

4月中旬に人生で初めて海釣りに行った。
浜辺やテトラポッド越しではない。漁船に乗って東京湾に繰り出した。

山仲間たちと、ご近所さんという平和で落ち着くメンバーと思いつきで企画した海釣り。

余談だけど、「◯◯しようよ」って話から実際に実行するまで、この仲間たちのスピード感がハンパないのですごい。みんないつもありがと。趣味で繋がってる友人たちってほんとサイコーだな。

7時前に蒲田からちょっと先にある漁船屋さんに集合し、まずは小さなボートに乗り込んで海まで移動。そこから今日1日お世話になる漁船に乗り換える。

素人なので、てっきり川崎とかアクアライン付近くらいまでしか行かないもんだと思ってたんですが、今回狙うのはタチウオ!(初めての釣りなのによくこんな目標にしたもんだ。魚の絵を描く仕事をしているくせに、私は細長い魚だっけ?くらいしか想像できていなかった)

気づいたら私たちはもはや横須賀湾スレスレの海の上に浮かんでいた。

ポツーンと大海の上で船一隻かと思いきや、顔を上げたらそこは大航海時代さながらの光景だった。

みんな海賊王ならぬ、タチウオ王になりたいのか

タチウオって後から調べたら6-7月くらいが旬らしいんだけど、この時期はこのポイントで釣れやすいんだろうね。船長さんたちは元々スポットを知っているんだろうし、とにかく船の数に圧倒されつつ、慌ただしく釣竿を準備して、慣れない餌付けをして、言われるがままに重りと竿を海に振り下ろす。

「底は80mくらいだから、10-12mくらいかな」

最初は隠語にしか聞こえない船長さんの指示も、次第に意味がわかるようになるからすごい。さすがは初心者大歓迎の釣り船。

さっきの言葉はつまり、
「(海底)が80mだから、(重りをそこまで降ろしきって、そこから)10-12mくらい(ルアーを巻いた水深68-70mにタチウオたちがいるよ)」ってことです。

・・・タチウオってめちゃくちゃ水深深いとこにおるんや!!!(素人)

なるべくまっすぐになるようにくねくね刺すのがポイントらしい

ちなみに餌はコハダ?の切り身をこんなふうにつける。
こんなちっさい餌で、光も届かない水深70m付近でタチウオさんに気づいてもらえるんか、って疑ってたのも束の間。

「・・・・!」

何かがつついた気がした。気のせいか?
でも確かに時折ツンツンされるような感覚が、70m先のほっそい釣り糸から感じられるのだ。

それはまさしく、どうぶつの森(ゲームキューブ時代)の釣りで魚が釣竿の先をツンツンしたときの振動とほぼ同義だった。だから気づけたのかもしれない。10数年まえのゲームの記憶がこんなところで役立つ(?)とは。

変なポイントに感動してる間に、スタッフさんが飛んできた。
「あ!かかってますよ!早く一定のペースでルアー巻いて!」

まじか!って思いながらドキドキしてルアーをなるべく一定になるように巻く。それにしても70mって長い。今どのへん?って思いながら巻き続けた。

そしてついに、タチウオさんが水面付近に現れた。
うおおおおおお!!!!!デカい!そして何よりも美しかった。

無事に船の上にタチウオを引き上げてあっけに取られている私と、機敏に動いてタチウオの口から針を外そうとしているスタッフさん。

ちなみに、タチウオの歯はめちゃくちゃ鋭くて危ないんだって。なに食べてたらこんな凶暴な歯になるの・・・。

その後もビギナーズラックなのか、わたしの元にもう1匹タチウオさんがかかってくれた。ちょっとした奇跡だった。

でけえよ、デカすぎるよタチウオさんたち。2匹も来てくれてありがとうだったよ

この後はアジが釣れるスポットに移動し、さっきのタチウオとは比べ物にならないほどアジは豊漁。むしろ後半は釣れすぎるので、「この後こんなにさばけるんだろうか・・・」という恐怖が大きくなり、釣竿を握る手があまり進まなくなってしまった。

結果、タチウオ2匹、アジ15-20匹?、カサゴ1匹(これはラッキー!)を釣り上げ、初めての海釣りにしては海の神様が微笑んでくれたなっていう釣果だった。

この後、メンバーの家に集まってみんなで大調理パーティ!

多分150匹以上の大小さまざまなアジをさばき、細かい骨とトゲで手と指先はまじでボロボロになったけど、アジフライ、なめろう、南蛮漬け、お刺身に。タチウオは塩焼き(と後日我が家でムニエルに)。カサゴは我が家にいただいて1匹まるまる素揚げにして、骨まで美味しくいただきました。

これらが、本当にめっちゃくちゃ美味しかった。

なんていうの、身がふわっふわなの。
塩焼きもアジフライも、まじで今まで食べたお魚の中で一番美味しかった。

下手くそで慣れないから、本当に手をボロボロにしながら、1匹1匹をさばいた。

内臓を処理され、三枚おろしになって、衣をつけて揚げられていくその魚たちは、さっきまで、ほんの数時間まで確かに力強く生きて、海の中を泳いでいた。

変温動物だから、ほとんどの魚に体温はないのかもしれないけど、自分の手で釣り上げて、その生をいただく営みには、確かに彼らの生きていた体温を感じるプロセスがあった。

小学校のとき、夕方の図書室でこの本を読んで衝撃を受けた。そのことを今でも覚えている。

アニマルアイズ動物の目で環境を見るシリーズ「死を食べる」(偕成社)より

正確に言うと、魚をさばくという不慣れで、わたしにとっては非日常的な行為の中で、この本のことを突然思い出したという方が正確かもしれない。

私たちはお肉も、お魚も、野菜もすべて、懸命に生きるほかの命をいただいて生きている。

でも普段の食って、どこかそういう「命をいただく」感覚が遠ざかってしまっているように思う。スーパーで売っているお魚も、お肉も、元がどういう姿をしていたのか、すぐには分からない。

とっても当たり前のことなのだけれど、ただただ自分と食材の距離がこれほどまでに遠ざかってしまっていたことがショックで、翌日にタチウオを捌いていた家のキッチンで1人立ちすくんだ。

翌日、自宅で1人淡々とさばくことになったお魚たち

だからどうしたって話なのかもしれない。
これはある程度各々の意識の問題であり、自炊をしている頻度や、食材の馴れ初めにどこまで興味を持っているか、そもそもどういった環境で育ったか、など人によって感じることはさまざまあると思う。

ただ、わたしは海がある県で育ち、小さい頃からたくさんの海産物を食べてきて、とても環境的には恵まれていたように思う。おばあちゃんはお米も野菜も育てているし、子どもの頃からそうした状況は当たり前だったはずだった。

そのわたしが、さっきまで悠然と泳いでいたはずのタチウオが自分の釣り竿の先に現れたことに動揺した。ああ、本当に海にいて、泳いでいる魚たちなんだ。

当たり前のことを、当たり前に感じた。ただそれだけ。
でも心はとても動揺していた。

普段食べている食材がどれも「匿名化」されていたような感覚だった。

***

とても良いタイミングで海釣りに行けた。
最近、わたしの中で「食べる営み」はすごくじわじわと大事なテーマになってきている気がしていたから。

そうは言いつつ、きっとわたしはこの先もしばらく肉屋さんでお肉を買い、魚屋さんかスーパーで、パックの中に入った切り身の魚を買っちゃうんだと思う。

でもそれでもいい。
これからのわたしの頭の中には、切り身の先にいる元の生き物の姿がきっとしっかり思い浮かぶはずだから。

今日はタチウオさんにまつわる記憶と記録で溢れちゃったので、お茶摘みに関する記録はこの続きで書こうと思います。またね。



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