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「ありがとう」を感動を呼ぶためのパフォーマンスにさせないで

中学校の運動会を見に行った。

このコロナ禍だから、例年とくらべるとかなり規模を縮小して開催された。種目も”ソーシャルディスタンス”を保つために、生徒同士が接触しない競技に変更になり、見学は3年生の各家庭で保護者1名のみに限定された。

中3の息子は、運動はあまり得意じゃないし、所属してる吹奏楽部マーチングが取りやめになったから、大した活躍の場がない。本人も「運動会なんて無くていいのに」と乗り気じゃなかった。うんうん、その気持はよくわかる。

それでも、久しぶりに学校で見ることができた生徒たちは息子も含め元気そうでホッとした。制限が多い中、笑顔で競技や演技をこなす姿は健気だし、運動の得意な子たちが走るスピードは相当なもので、その迫力に見ているこちらも興奮した。

それこそ地元の保育園や小学校で1歳になる前から、息子と一緒に大きくなるのを見てきた子も大勢いるから、なんて力強く成長してるんだろうと、他所の家の子だけど感慨を抱いてしまう。

私は、それをいち生徒の親としてそれを見られるだけで十分だった。


この学校の恒例なのか、毎年3年生のプログラムが多い。学年競技、ダンスなどの演技。演技間の盛り上がりピークのタイミングで、溌剌とした運動会実行委員の生徒が、保護者来賓先生後輩、そして仲間たちへ様々な感謝の言葉を述べる。

さらに、担任の先生に感謝を伝えるためのプログラムをクラス別に生徒が企画し、展開することになっている。

息子が1、2年生だった頃は先輩たちのそういったプログラムをみて、今どきの中学生はこれほどまでに素直で、周囲への感謝を恥ずかしがらずに言葉や態度で表現出来るものなのかと驚いた。

演技や競技のみならず、親や先生に感謝を伝えるパフォーマンスのほうで涙する3年生の保護者たちの姿に、そうか、うちの子もこんなふうに3年生になったら”立派”なことをするのかと思っていた。



いざ、3年生になってみて。

「私達は優しくて厳しい〇〇先生が大好きです!」
「どんな時も見守ってくれているお母さんに感謝です!」
「お父さんの言葉が支えになりました!」
「素晴らしい仲間たちがいたから頑張れました!」

『みんなのおかげです!ありがとう。』

代表者として仲間たちをまとめ、素敵なパフォーマンスをした後に、母親への感謝を述べて感極まり涙してしまった女子生徒は頑張り屋で愛おしいと思う。自分が怪我をした時には仕事をおいて駆けつけてくれたという父に素直に感謝を述べた男子生徒は眩しいくらい健やかだ思う。担任や体育の教師に叱咤激励してもらった感謝を伝える生徒たちはまっすぐ育ってくれてるのだと思う。

そんな姿に”感動した”と大人がつい涙してしまうのは当たり前だと思う。

でも私は、どうしても違和感が拭えないでいる。

自分の中学生の頃、運動会や学芸会、卒業式入学式に親の存在なんてまるで意識してなかった。皆の前で親に泣きながら感謝を述べたことなど一度も無い。先生に皆で揃って大声で「大好きです」なんて口が裂けても言えない。先生にお返しに「私も君たちを愛してます」なんてハグされたって不気味なだけだ。それくらい”大人”は自分たちとは別のステージある存在だったはず。

感謝の気持ちを、伝えるためにパフォーマンスをしよう、なんてほんの少しも思ってなかった自分の15歳の頃と比べたら、目の前の15歳の少年少女が、なんだかよくわからなくなり、私はどんどん後退りしていて、気がつけば見学者の最後列にいた。

今の子供たちは、こんなに親や先生に感謝をしていないといけないのだろうか。それを大きな声で口にしないといけないのだろうか。親や先生が、彼らを守り育てるのは心底当たり前のことなのに。いつから私達大人は、こんなにいちいち子供たちからの感謝を欲しがり、感動したがるようになったんだ。

15歳なんて、運動も音楽も勉強も全部自分のために頑張っていてくれればいいのにと私は思う。学校の子供達のための行事で、大人にスポットがあたるシーンなど無くていい。

感謝を感動的な言葉やパフォーマンスでわざわざ伝えてもらわなくたって、まわりの大人は、純粋に「勝ちたい」「うまくなりたい」「自分の一番を出したい」「心から楽しみたい」と思う気持ちで力の限りを尽くす子供の姿に、勝手に感動させてもらえるだけで十分じゃないですか?感謝の言葉なんて、うんと後になって気づいてくれた時、しみじみきかせてもらえるだけで親冥利につきませんか?

どうか、子どもたちの「ありがとう」の気持ちを、大人の感動を呼ぶためのパフォーマンスにさせないで。

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